「もういい」
何もかもを投げ出したような口調だった。
暴言と部屋のあらゆる物が宙に飛び交う激しい口論の末、ため息と共に冷え切った声でそう吐き捨てあいつは出て行った。その言葉自体は何度も聞いていたものだったが、幾度となく聞いていたが故に、それがいつもとは確実に違うものだと分かってしまった。
ああ、もうだめかもしれない。
そう思うのに、俺は部屋から出て行くその後ろ姿を、ただじっと見つめていただけだった。
喧嘩するほどなんとやらとはよく言うが、俺と竜胆の間にその言葉が当てはまるかどうかは疑問だ。恋人という間柄にも関わらず、俺と竜胆の間で言い争いが絶えることはない。
付き合ってそれなりに長いこと経つが、最初から今まで俺たちの間には甘酸っぱい恋人らしい出来事なんてほとんどなくて、そもそもなんで付き合ってるんだっけ? なんて考えることすらあった。いつも数秒考えた末にぼんやりと脳裏に過るのは、真夜中の路地裏と仄暗い街灯の灯り。そこでいつも、ああ、ムードもへったくれもない場所であいつが告白してきたからだったと思い出す。
思えば最初から半信半疑だった。竜胆とは俺の数少ないダチである灰谷蘭の弟として紹介されたのが最初の接点だったが、俺にとってあいつは「仲良いやつの弟」で、俺の後ろによくくっついてくる、ちょっと生意気だが可愛げのある弟分のように思っていた。竜胆にとっても俺は「自分をかわいがってくれる兄貴のダチ」くらいの認識だろうと思っていたから、そんな奴から告白されようとは思いもしない。深夜、狭い裏路地で六本木の新興勢力を返り討ちした後に「好きだ」と言われた時は聞き間違いかと思ったほどだ。
顔を真っ赤にして「付き合って欲しい」と言ってきた竜胆を無下にはできなくて、とりあえず「考えるわ」と返事をした。告白を受け入れるにしても覚悟がいるし、断るにしても変に拒絶をして竜胆を傷付けたくなかった。
結果的に、一週間後には色々あって竜胆の「告白」を受け入れていた。付き合う前に何故俺なのかと聞けば「アンタだから」と返ってきたが、理由になっていないその答えに納得はできなかった。以前冗談半分で「男もイケる」なんて豪語したことを真に受けたのか。実は竜胆も男が好きなのか。考えたところで答えは見つからず、釈然としないまま恋人としての関係が始まった。
けれど。付き合い始めてから竜胆がどうやら本当に俺のことが好きらしいと気付くのに、そう時間はかからなかった。俺の一言に小さく柔らかい笑みを浮かべたり、口下手な言葉でデートに誘われたりしたからだ。恋人として振る舞おうとする不器用で健気さが垣間見えるその姿に、俺は見事に絆されていった。ぎこちない関係が始まって三ヶ月が経つ頃には、こいつと一緒にいるのも悪くないなと思い始めていた。少なくとも、竜胆に求められることが心地よいのは確かだった。
この辺りで素直に気持ちを伝えていたら、きっと未来は変わっていただろう。けれど俺はそうしなかった。竜胆が俺に向ける笑みや言葉、行動の数々を、好意だと信じることができなかったからだ。
竜胆の気持ちを確かめるようなことをし出したのは、あいつのことを好きだと自覚してからだった。キスやセックスをねだられても曖昧な態度で躱したり、わざとデートの待ち合わせ時間に遅れたり、興味もない女との関係を匂わせたり。その度に喧嘩が起きて、殴り合いに発展したことも何度もある。それでも結局は元に戻って、俺がまたやらかして、喧嘩になって……、そうして、竜胆の俺への気持ちが本当かどうか、そんな確認行為を永遠と繰り返した。
本当に俺のことが好きなのだろうか。喧嘩の後結局自分の元へ戻ってくるあいつに安心して、時間が経てばそんな不安に陥った。愛想を尽かされる前にやめたい、素直になりたい、そう思っても結局やめられず、ついに竜胆が限界を迎えた。
「もういい」。もう何度目か分からないくらい、あの時の竜胆の言葉が頭の中で反響する。
今度こそ終わってしまうかもしれない、竜胆に別れを告げられるかもしれない。そもそも今までに繰り返してきた最低な行動の数々を考えれば、もうとっくに別れを告げられていてもいいくらいだ。そう思ったらどっと後悔が押し寄せてきて、言いようのない焦燥感に身を焦がされた。
あの時ああ言えば良かった、あんなことを言わなければ良かった、あの時こうしておけば、一番最初、「付き合ってやるよ」と上から目線で返してしまったことも──。今更後悔したって遅いのに、竜胆に対する酷い言動ばかりが頭の中をぐるぐる回る。
当然のように寄り添ってくれていた存在の大切さに気づくのは、いつだってなにもかもが手遅れになってからなのだ。
○
惰性のまま関係を続けたいわけじゃない。俺と別れた方が竜胆のためだとも思う。それでもあいつを手放したくないのは、どうしようもない俺のエゴだ。
「オマエ、そろそろいい加減にしろよ?」
席について開口一番低い声で文句を垂れた頼れる悪友に、俺は何も言えずに目を逸らした。
竜胆との大喧嘩の後、眠れぬ夜を過ごして平静を失った俺は鬼電をした。竜胆のことで相談できる唯一の相手、竜胆の兄灰谷蘭にである。
六本木にあるハイソなカフェでハイソな服に身を包んだ蘭は、トントンと長い指でテーブルを叩きながらファストファッションの安い服を着た俺をじとりと睨みつけている。
いきなり呼び出されてただでさえ不機嫌なところを─「竜胆のことで話がある」と言えば大体は乗ってくれる─「竜胆と別れたくないから力を貸してほしい」と単刀直入に頼んだことで、こいつの機嫌は更に急降下だ。まずはご機嫌取りのために急な呼び出しにも関わらず来てくれたことに感謝と謝罪に言葉を挟んでから「俺の奢りでなんでも食っていいから」と付け加えれば、「トーゼンだろうが」と返された。
「で? 今度は何した」
ため息を吐きつつもとりあえず話は聞いてくれるようだ。兄属性を発揮するからか、泣きついた時の蘭はなんだかんだで面倒見が良い。といってもこれは竜胆関連の時だけなのだが。
「………デートすっぽかして、竜胆が爆発して、喧嘩になって出てった」
「そんでキレた竜胆の様子がいつもと違ったから、終わったって思ってテンパってオレを呼び出したってワケ」
「………ハイ」
トン、テーブルを叩く音が止んだ。水を一口飲んだ蘭は静かにそのグラスを置く。
「そーだなァ、まずは……」
そこで言葉を止めて、蘭は俺に笑顔を向ける。側から見ればきれいな笑みだが、その目は完全に笑っていない。
「歯ァ食いしばれ♡」
○
人の目がある場所だったら手を出されずに済むかと思ったが灰谷蘭にそんな常識は通用しない。結局思い切り殴られた。警棒で殴られなかっただけマシだと思おう。
騒然とする店内で警察を呼ぼうとした店員に必死に謝りながら蘭の首根っこを掴んで逃走し、静かにブチ切れる蘭を「後でいくらでも殴っていいから」といなして、六本木交差点からほど近くにある古い公園へ相談の場所を移した。この間時間にして約五分の出来事である。サツを呼ばれていないことを祈るばかりだ。
木陰にあるベンチに座ってコンビニで買ったペットボトルを腫れた頬に当てる。思い切り殴りやがってと心の中で悪態を吐きつつ、じんじんとした痛みに顔をしかめながら元気に走り回る子供らをぼんやり見つめる。いいなァ気楽で。
「そのひん曲がった性格さっさと直せよ」
「さっさと直せてたらこんなに困ってねえんだわ…」
ため息混じりに漏らした言葉に「あーあ、竜胆カワイソ」と呟いた蘭が隣に腰を下ろす。その手には同じくペットボトルが握られていて、ぷしゅ、と炭酸が弾ける音がした。
「つーか、そもそもお前が脅してこなきゃこんなことにはならなかったんだよ」
何を隠そうひん曲がった性格の俺と弟の竜胆をくっ付けさせたのは蘭だ。竜胆の告白をどこで聞きつけたのか、蘭が「竜胆と付き合わなかったらブッ殺す」とシリアルキラー並みの笑みを浮かべて半ば脅してきたのである。蘭の脅しがなかったら、きっとアイツとは付き合ってはいなかっただろう。それと同時に、それまで築いていた俺と竜胆の関係も壊れていたかもしれないが。
今思えば、その方がまだ良かったのかもしれない。
ボソリと文句をこぼした俺に、蘭は「オレのせいかよ」と鼻で笑った。
「"だったら"とか"してこなきゃ"とか、そんな仮定の話をしても時間の無駄だろうが」
「……俺と付き合ってなかったら、まだマシな奴と付き合えてたかもしれないだろ」
「そう思ってんだったら少しは自分がマシになる努力をしろよ。アイツのこと手放したくねえクセに」
「………」
仮定の話をするなんて非生産的だ。分かっていても、そう思わずにはいられない。案の定、蘭には間髪入れずにそう言い返されて何の反論もできなかった。そしてそんな俺を気にするでもなく蘭の言葉は止まらない。
「なまえ、オマエがドが付くほど天邪鬼で、百万歩譲ってそれが簡単に直せないことにしてやるよ。それでもアイツのために一度だって本気で直そうとしたことあるか? ねえだろ」
否定したかった。
「アイツの好きに甘えて今までやりたい放題やってたんだ、自業自得もいいところだな」
その通りだった。
「オマエが素直になれば全部解決する話なんだよ、別れたくないんだったらテメエでなんとかするしかねえぞ」
「………」
ぐうの音も出ない。完全に敗北だ。
こうして改めて形にして突き付けられると自分の卑怯さと情けなさに反吐が出そうだった。友人であり恋人の兄である蘭の歯に衣着せぬ言葉だから尚更で、それらは刃のようにぐさぐさと自分に突き刺さる。自然と視線は下へと落ち、噛み締めた下唇には歯が食い込む。そんな俺に、蘭は何も言わなかった。
変わらなければいけないと思っていた。竜胆を疑うばかりでなく、信じなければいけないと思っていた。それでももし裏切られたらと、怖いからと臆病な自分に言い訳をして、逃げて何もしてこなかった。
何よりも酷いのは、
「──で、どうせ分かってんだろ、オマエもよ」
「………分かってる」
竜胆のことを手放したくないと思いながら、アイツの好意の上に胡座をかいて座っていたことだ。
いつからだろう、竜胆からの「好き」の証が無条件に降ってくるものだと思っていたのは。
もし俺が、少しでもアイツの好意に応えられるような努力をしていれば。そんなことを考えたって無駄だ。結局俺は何もしなかったのだから。それでも頭の中は同じことばかりがぐるぐると巡る。
もし俺が、少しでも素直になって、アイツに「好き」の一つでも返せていれば──。
「はーーー……」
重苦しい沈黙を破ったのは蘭だった。長い脚を投げ出し、背もたれに体を預けた蘭が心底面倒臭そうにため息を吐く。その次に言われる言葉は分かっている。「クソめんどくせえな」か「わざわざオレに言わせんじゃねえよ」か「分かってんだったらさっさとやれ」のどれかだ。と思っていたら全部言われた。フルコンボである。
「……もし竜胆と別れたら、ドラム缶にテメェを詰め込んでコンクリで固めて生きたまま東京湾に沈めるからな」
「………」
ブラコンの蘭が、弟に酷いことを繰り返している俺に対してよく思っているはずがない。それに今まで目を瞑ってくれているのは「竜胆が俺のことを好きだから」だ。だからもし別れて竜胆を泣かすようなことでもあれば、……この兄なら本当にやりかねない。
「あー………だから、蘭にお願いがあって」
「ああ?」
ぎろ、と眼光鋭く睨まれたがこれくらいで怯んでいたら灰谷蘭のダチなんてやっていられない。そもそもが蘭を呼び出したのはこの「お願い」が目的だ。
「もうすぐ竜胆の誕生日だろ? アイツのプレゼント、選ぶの付き合ってほしい」
「…………まーじでオマエ、いい加減にしろよ」
午後ののどかな公園に俺の断末魔が響いたのはその数秒後のことである。
○
数週間後に迫る竜胆の誕生日は、俺が竜胆に謝って関係を修復するきっかけを作るにはおあつらえむきな、格好のイベントだった。
一年以上続いた俺の最低な言動が誕生日プレゼントだけで埋め合わせができるとは到底思っていない。それどころか誕生日を口実にして謝罪をするだなんて卑怯だなんて思われるかもしれない。けれどまずは行動で示さなければ何も始まらないし、今の俺には竜胆と「やり直す」方法がこれくらいしか思いつかなかった。だから竜胆の兄である蘭に相談した。恥ずかしいことに竜胆の欲しいものも好きなものも知らなくて、果たしてこれが正しい選択なのか、分からなかったから。
案の定、「付き合って二年経つのになんでアイツの好きなモンひとつも知らねェんだよ殺されてえのか?」とこめかみに青筋浮かべた蘭に危うく殺されそうになった。全面的に悪いのは俺だから土下座して謝ったし「土下座の相手オレじゃねェだろ」と頭を靴でぐりぐり潰されたが本当にその通りなので甘んじて受け入れた。結局なんだかんだ弟思いで優しい蘭は、俺の「竜胆と仲直りしよう作戦」に乗ってくれた。「クソみてえな作戦だな」とディスられたが、蘭は蘭なりにオレと竜胆の間を取り持ってくれている。得難いダチを持ったものだと自分の幸運に感謝した。
俺の難ありな性格のこと、これまでの最低な自分と区切りを付けること、それから、竜胆を好きなこと。全部伝えて謝る。
自分の性格のことは一番自分が分かっている。俺のひん曲がった性格も、天邪鬼な態度も、きっとすぐには直せないだろう。でも必ず区切りを付ける。少しずつ、思ったことを素直に口に出せるように、行動に移せるように。それが人並みにできるようになるまで、アイツは俺と一緒にいることを許してくれるだろうか。
大喧嘩をしてから数日。突然家に竜胆が来た。
「……竜胆」
俺から出向こうとタイミングを伺っていたところをまさか向こうから来てくれるとは思っていなかったので、数日ぶりにその顔を見て固まってしまう。一度目が合ったが竜胆はすぐに視線を逸らし、「またどーせ晩飯カップ麺とかだろ」と合鍵をポケットに仕舞って、靴を脱いで廊下の奥へと消えていく。その手には野菜やら肉やら食材が入った買い物袋がぶら下がっていた。
晩飯を作りに来たのか? わざわざそのために? 喧嘩をしていてもいつもの習慣は抜けないのだろうか。そう思うと来てくれたことに嬉しくなったが、ニヤついている顔を見せても竜胆の気分を害するだけだろうと顔を引き締めて彼の姿を追いかける。
「手伝う」
「………野菜洗って」
がさがさと音を立てて袋の中身を取り出す竜胆にそれだけ言えば、こちらに顔を向けることなくそれだけ返ってきた。
しらたき、豚バラ、ジャガイモににんじん、玉ねぎ。ラインナップからすると肉じゃがだ。狭いキッチンで二人並び、調理の音だけが耳に届く。
「………悪かった、予定、すっぽかして」
謝罪の言葉に竜胆はちらりと俺を一瞥する。
「………別に、もういい。怒るの疲れたし」
その声から怒気は感じられなかった。けれど、そっけない、どこか諦めたような口調での言葉に一瞬手が止まる。
ああ、もうとっくに愛想を尽かされていたのかもしれない。そう思うと胸が詰まって苦しくなったけれど、それでもわざわざこうして家に来てくれたということはまだ望みはあるのかもしれない。竜胆の行動に僅かな希望を無理やり見出して黙々と手を動かした。
二人で料理を作ったのは久しぶりだった。付き合い出した頃はよく一緒に作っていたな、なんて懐かしい思い出が頭をよぎる。いつの間に習得したのか、サプライズで俺の好物を作ってくれた時は嬉しかったな、なんて。思えばあの時も「サンキュ、美味い」とそっけない言葉しか言えなかった。
ああ、今は思い出さえも後悔で染まってしまう。ぐ、と目を瞑って無理矢理思考を切り替える。今は思い出を振り返っている場合ではない。予定より早まったが、せっかく向こうから来てくれたのだから計画実行は今日しかない。話をするのは飯を食った後にするとして、どうやって切り出そうか。ストレートに「話がある」と伝えて、謝ってプレゼントを渡す。やっぱりこれが一番オーソドックスだろうか。何よりこれが一番失敗しない─俺がトチらない─気がする。
これが最後の晩餐になるのはごめんだと、頭の中で何度も細かなシミュレーションを繰り返す。数十分後の本番に向けて早くも心臓はどくどくと早鐘を打ち始め、なんだかそわそわと落ち着かない。竜胆に気取られないよう気を張っていれば、柄にもない緊張といけるかも、いやいけないかもなんて気持ちの乱高下で出来上がった料理をろくに味わうことができなかった。それでも竜胆の作る料理がなんでも美味いのは分かっているから「美味い」と伝えれば、「よかった」とそれだけ返ってきた。
結局晩飯を作り出してから食べ終わるまで、俺と竜胆の間で会話らしい会話はそれだけだった。
食器を片付け部屋に戻ると、竜胆がぼんやりと部屋を見つめていた。普段であれば携帯を弄ったりテレビを見ていたりしているものだが、今のこの部屋は居心地が悪くなるほど音がなかった。何を考えているのだろう、竜胆はベッドサイドに腰掛けて、部屋の隅の本棚をじ、と見つめている。それも目的があってというわけではなく、ただぼんやりと、なんとなくその方向を見ているというだけ。俺へ視線を向ける事はない。
もう怒っていないことは確かだ。けれど普段の竜胆ではない。この様子からしてまさか晩飯を作りに来ただけ、な訳がない。俺のところに来た本当の目的は他にある。そう考えて真っ先に思い浮かんだのは、俺が一番危惧しているものだった。
「竜胆──、」
「先週の土曜、何してた?」
俺は何を言おうとしたのだろう。とりあえず先に口火を切って、その話をさせないようにしようとしたのだろうか。
けれど俺の言葉に被せるように竜胆の声が重なった。切り出された話は俺が想像していたものとは違ったけれど、今度は別の意味でどくりと心臓が波打つ。
土曜。俺が蘭と出かけていた日だ。
「……なんで」
「いいだろ別に、答えろよ」
「……関係ねえだろ、俺が休日にどこで何しようが」
言った後にしまったと後悔した。シラを切るにしても、これではまるで喧嘩腰だ。直そうと思っているそばからこのザマで思わず心の中で舌打ちをする。それでもできるなら打ち明けたくはなかった。竜胆のこの口ぶりからして疑われていると思ったけれど、恋人の誕生日プレゼントを選ぶのをその兄に手伝ってもらっていたなんて、情けないにも程がある。
だが、くだらない見栄を張ったのは間違いだった。俺のつっけんどんな返答に唇を噛んだ竜胆が俯く。そしてぼそり、聞こえるか聞こえないかの小さな声で呟いた。
「──やっぱり、」
「………何?」
「オレよりも、兄貴がいいのかよ」
「あ?」
「……あの日、兄貴と一緒にいたろ」
「………」
やっぱり見られていた。ならシラを切っても意味がない。ああ、こんなことならもっと早く俺から出向けば良かったと後悔が頭を過ぎったが、そんなことを考えてもしょうがない。このままでは仲直りどころではなくなってしまうと口を開きかけた時だった。
「………兄貴が好きなんだろ?」
「…は?」
絞り出したような声で出された言葉に思考が止まる。
「…なんで、」
「もういい、聞きたくねえ」
どうしてそういう思考に至ったのか、問いかけようにも竜胆はまたしても俺の言葉を遮った。
なぜだ。なぜ今ここで俺が蘭を好きなことになる? 思考がついていかない。そもそもが蘭はダチ以上の何者でもない。どう頑張っても俺が蘭をそういう意味で好きになるなんてあるわけがないのに。
「竜胆、おい、」
「この二年、オレはずっと兄貴の代わりだったってことだろ」
「おい待て、なんでそうなる」
「オレといるより、兄貴といる方がよっぽど楽しいんだろ、顔見りゃ分かる」
「な、………」
何も返せなかった。俺は蘭といる時そんな楽しそうな顔をしてたのか? 逆に俺は、こいつと一緒にいる時そんなつまらなそうな顔をしてたのか?
「兄貴の代わり」だなんて。そう思わせてしまう程、俺は竜胆を追い詰めていたのか。
「悪かったな、兄貴みたいになれなくて」
「竜胆違う、俺は」
「うるせえ!!」
部屋中に響いた怒声にびりりと体が震える。ぎ、鋭い瞳が俺を睨みつけた。
「兄貴のことが好きなんだろ!! なら弟のオレじゃなくて兄貴と付き合えよ!!」
「違う!!」
気付けば大きく声を張り上げていた。怒鳴るほどに否定されるとは思わなかったのだろう、先程の威勢はどこへ行ったのか、肩をびくりと震わせて竜胆が俺を見る。その瞳には、僅かな恐怖と困惑が見て取れた。
「違う」
もう一度、今度は静かに、けれど確かな口調で否定した。
俺自身が招いたことだけれど、それでもこんなふうに誤解をされたまま終わりたくはない。
「………俺は、お前よりも蘭がいいなんて思ったことも、お前が蘭の代わりだなんて思ったことも、一度もない」
「は、…そんなの、オレが信じると思ってんのかよ」
決死の覚悟で口に出した想いに、竜胆は顔を歪ませて吐き捨てた。今までの行動を考えれば、俺の言葉が信用されないのも当然だった。
「……何、これ」
「プレゼント」
「は……?」
ああ、本当はこんな形では渡したくなかったけれど。背に腹は変えられないと、ポケットに仕舞いこんでいたそれを竜胆の目の前に突き出した。そのまま戸惑いの表情を浮かべる竜胆に、小綺麗に包装された小さな箱を押しつける。受け取ってすらくれないと思っていたから、どさくさ紛れとはいえその手に持ってくれただけでも救いだった。
「……あの日は、蘭に相談して、お前の好きなもの買おうと思って、付き合ってもらってた。…俺、お前が好きなもの、ちゃんと知らねえから」
竜胆が驚いたようにぱっと俺を見て、それからぐ、と眉根を寄せる。そんな言い訳で騙されてたまるか、とでも言うような反応だった。
「………なんで」
「だってお前、もうすぐ誕生日だろ?」
今度こそ竜胆が目を見開いた。覚えていたのか、という表情だ。それもそうだ、去年の竜胆の誕生日はロクに祝っていない。
「………それと、今までお前にクソみたいな態度取ってた詫びをしたくて」
「……自覚してたのか」
は、と竜胆が息を吐いて口角を歪める。その渇いた笑いは呆れのようにも、嘲笑のようにも聞こえた。
「………悪かった」
それしか言えなかった。今までの俺を許してくれとは、とてもじゃないが言えなかった。
「……こんな俺を、お前が本当に好きでいてくれるのか、信じられなくて。だから、お前の気持ちを確かめるようなことを繰り返してた」
心臓がいやに大きく音を立てている。喉は干からびて声が掠れる。頭の中で何度も反芻したその言葉を、詰まりそうになりながらも形にした。
「本当、自分でもバカだと思うよ」
何を言っても苦しい言い訳にしかならないことは分かっている。だから、これ以上何も言うつもりはなかったのに。それにしたって口に出してみればなんとも幼稚な理由だと、思わず自嘲混じりにそんな言葉が漏れてしまうほどだった。
「……それが、今までのクソみたいな態度の理由、ってこと」
「……ああ」
俺と目を合わせないまま、竜胆がぼそりと呟いた。その声から感情は読めない。
「……兄貴の代わりに付き合ってたんじゃなくて」
「代わりだなんて思ったことない。お前はお前だろ」
別れることになっても、これだけは知っていてほしい事実だった。だから重苦しく長い沈黙の後、もう一度確かめるように口に出された言葉をはっきり否定した。
「………んだよ、それ……」
それに今度こそ大きなため息を吐いて、竜胆は顔を覆ってそれきり黙り込んでしまった。
「竜胆」
跳ねる心臓が体を揺らす。
言わなければ。ここで言わなければ、俺は一生後悔する。
「もう、クソみたいな態度を取ったりしない。約束破ったりすっぽかしたりしないし、思ったことを素直に口にできるように、……変われるように、努力する」
反応はない。竜胆は俯いたまま微動だにしなかった。
「……でも、今更遅いとは思ってる。散々お前に酷いこと言ったし、酷い態度も取ったし、愛想尽かすのも当然だとも、思ってる」
声が震えそうになりながら、そこまで思いを形にしたところで口をつぐんだ。
本心からの言葉なのに、なんてしらじらしく聞こえるのだろう。俺がそう思うのだから、竜胆からしてみれば「何を今更」と思うはずだ。だって、俺は今までに竜胆との約束を散々破ってきたのだから。
「……お前が別れたいなら別れる。……いや、そうした方がお前のためだとも思う」
別れたくない、だからこそ変わりたいと思っている。それでも、これ以上俺の都合で竜胆を付き合わせて振り回してしまうのは、あまりにも勝手だと思った。
「オイ、一発殴らせろ」
「は、」
「もう終わりにしよう」。決別の言葉を口にしようとした時だった。
そんな声が聞こえてきたかと思えば、瞬間、頬に重い衝撃が襲った。思い切り殴られたと実感する間も無く、体がよろけた拍子に強い力で突き飛ばされ、ベッドへ後ろから倒れ込む。口の中でじわりと広がる鉄の味とともにやってきた鈍い痛みに顔をしかめていると、馬乗りになった竜胆に勢いよく胸ぐらを掴まれた。
「……ホントに思ってんのかよ。別れたいって」
色濃い紫色の瞳が、真っ直ぐに俺を睨んでいる。何かを堪えるかのような声色に、眉根を寄せたその顔はくしゃりと歪んで、今にも涙が溢れ落ちそうだった。
ああ。こんな顔をさせるために、「別れる」なんて言ったわけじゃない。
「…別れたく、ない。お前のこと、離したくない、でも、」
「うるせえ」
俺を遮ったその声は僅かに震えていた。瞬きをした拍子に竜胆の瞳から涙があふれる。ぽたり、温かい雫が俺の頬に落ちた。
「まずはそういうとこから直せ、バカ」
ずび、と鼻を啜り、くぐもってぐずぐずになった声で悪態を吐いて、竜胆が俺を睨む。
「……ごめん、」
怒られているというのにそれがどうしようもなく嬉しくて、ぶわりと胸が熱くなっていく。俺が泣くべきところじゃないのに、鼻の奥がつんとして視界がじわりと滲んでいった。ぐ、と喉に力を入れてなんとか言った謝罪の一言は小さくて、ひどく情けないものだった。
「……オレに言うことは?」
「……今まで悪かった」
「それから?」
「…誕生日おめでとう」
相変わらず眉を寄せたままの竜胆を見つめる。ラベンダー色の潤んだ瞳が俺を見つめ返した。
「竜胆」。名前を呼んで、恐る恐る頬に手を伸ばす。もうずっと触れていなかった温かい肌の感触に思わず目を細めた。
時折鼻を啜るだけで、竜胆は何も言わなかった。何も言わず、ただ俺の動きを見つめていた。
涙で濡れ、赤らんだ目元を指でやさしくなぞる。拒絶されないことにほっとして、余計に目頭が熱くなった。
「……好きだ。だから……これからも、一緒にいてほしい」
初めて好意を伝えたその声は震えていた。きっと俺の顔は今にも泣きそうで、側から見れば極めて情けない告白だろう。
「…………しょうがねえな、」
怒りたいのに泣きそうで、でも嬉しそうで。竜胆はいかにも渋々といった風に言ったけれど、その顔は入り乱れた感情でぐちゃぐちゃだった。
「一緒にいてやる」。数秒の沈黙の後、ゆるゆるになった声でそう言ってくれた竜胆を、今度こそ離さないように抱き締めた。
ラベンダーを抱きしめて、アプリコットにさよならを