「ぜんぜん、眠れない」

枕元に置いておいた手鏡の先にある腫れぼったいギランギランのおめめ。
腫れているのは今日の昼間に散々泣いたわけだから、そりゃこうなるのも仕方ないと分かっている。
でも問題は一向に眠気がやってこないことだ。
その原因も分かっている。
未だに夢か何かだと僅かに思っているくらい信じられない事があったのだ。

「…きす」

口に出すとやっぱり恥ずかしいみたいで、手鏡に映る私の顔面は一気に高揚した。
それでもあの感触は忘れることが出来ないし、何ならおめめバッチリ開けていたので、至近距離の端正な顔立ちすらよく覚えている。
あれは月島くんだった。

なぜ?
帰りのバスの中からずーっと悩んで悩みぬいているけれど、一向に答えは見つからない。
何であのタイミングで私、キスされたの?
まさか、私の顔にゴミか虫がついていたから、取ってあげようとして事故ったとか、そういうことなんだろうか。

『バレーではこのタッパって重宝されるんだけどね。名前とキスする分には、やりにくいかな』

途端頭に響く月島くんのセリフ。
それはどう考えても事故った後のセリフなんかじゃなくて、確信犯的なそれだった。
私は自分のベッドの上でごろごろと転がりながら頭を抱える。
なんでなんでなんで! どうして月島くんが私にキスをしたんだ。
そりゃびーびーといつまでたっても泣いていたのは申し訳ないと思うけれど、どんな理由があろうとキスするようなことは無かったはずだ。
だって、だって、そもそも

「月島くんは、私のこと、嫌いだし」

ずきんと僅かに心臓が痛んだ。
最近仲良くなってきたと思っていたけれど、それでもきっと月島くんは私のことを嫌いだと思う。
それは普段のそっけない態度もそうだし、なにより私の行動をいちいちイライラしたように見てくるし。
勿論私だって嫌われている人に好かれようとも思っていなかったから、別にそれでよかった、けど。

「私のこと、嫌いだよね?」

そう、だよね。
きっと嫌がらせのつもりでキスしてきたに違いない。
そりゃ、月島くんはモテモテ男だから、引く手数多だろうし、経験だってあるだろうし。
キスの一つや二つ、嫌いな相手とするのも、きっと。

「平気、なんだよね」

でも、私は平気じゃない。
男の子とお付き合いなんてしたこともないし、そういうことをしたのだって、幼稚園の時に男の子からほっぺにちゅーくらいの経験しかない。
私の中では特別な行為の一つなのだ。
だからこそ、自分でも驚いている。

好きでもない月島くんにキスをされて、嫌だと思う気持ちが一つもない事に。

「ああ…もう、月島くんのばか」

考えれば考えるほど、ドツボに嵌る。
真っ白な記事の原稿に手をつけないといけないのに、そんなことを考える余裕なんてない。

「明日、どんな顔して合えばいいの」

枕に突っ伏して瞼を閉じた。
瞼の裏側に見えたのは、また高い所から私を見下ろして鼻で笑う月島くんの姿だった。
だけど、その表情に向かって「蛍くん」と呼んでみると、今まで見たことが無いような優しい顔を私に見せた。

それが夢だと気づいた時には、窓から差し込む朝日によって目が覚めた後だった。


◇◇◇


「期末テスト?」
「そう! 苗字さん、教えてくれない?」

そう言って隣で両手を合わせて頼み込んでくる日向くんを見て、私は苦笑いを零す。
こんなに必死な日向くんを見たのは初めてだった。
どうやら、テストの点数が悪ければ、この後に控えている東京での合宿に参加できないらしい。

体育館の隅で座っていたお尻をゆっくり持ち上げて、日向くんの方に向き直った。
今気づいたけれど、日向くんの後ろにいる影山くんの表情も必死な面持ち。
期末テストでピンチなのは日向君だけではないようだ。

部活動の休憩時間にまでこうして勉強を教えてくれる人を探しているなんて、それだけ必死なんだということはよくわかるけれど、どうにもこうにも私では満足に教えられる自信がない。
ザ・平均。
平均より少しいい点数を取ることがあっても、秀でて賢いわけではないのだ。

「私、そんなに頭良くないよ?」
「俺にすれば苗字さんも十分賢いって!」

確かに、授業中の日向くんの様子を見れば、まだ私の方が理解度はあるかもしれない。
先日の英語の授業で「先生、日本語で書いてください」と挙手する日向くんを思い出した。
それにこんなに頼み込んできているのだから、少しでも友達の役に立てるかもしれない。
少し悩んで私は「お願い」と頭を下げる日向くんに頷いた。

「私でよければ…」
「その必要はないよ」

私の言葉を遮って降ってきたのは言葉の主は、思わず身体がビクリと反応してしまう相手。
私はカチコチに固まった笑顔のまま、声の方へ視線をやった。
日向くんと影山くんの斜め後ろで腕を組む、メガネ。
月島くんは隣に山口くんを従えて、私の隣に置いてあったタオルに手を伸ばした。

「君が人に勉強を教えられるとは思えない」

とてつもなく失礼なことを言われているのは分かっているのに、その顔をみるだけで先日の事が思い出されてしまい、私は慌てて顔を逸らした。
逸らした動作を見た月島くんは、どこか嬉しそうにしている気がしたけれど、きっと気のせいだ。

「月島! そんなことない! 苗字さんは、俺よりずーっとずーっと頭良いんだからな!」
「へえ、それ誰の前で言ってるわけ? 僕、特進クラスなんだけど」
「そ、そりゃ…月島くんに比べたら、私はバカですけど」

月島くんはやっぱり私を茶化しにきたみたいだ。
逸らした顔のままそう呟けば、日向くんに向いていた顔がこっちを向く。
そして、すっと私の真横に近づいてきて耳元でぼそりと呟いた。


「名前、呼ばないの?」


ビクン、と肩が反応してしまった。
咄嗟に耳を押さえて日向くんと影山くんの後ろへ回って、深呼吸をする。
日向くんと影山くんは良く分からない顔をして首を傾げていたけれど、今私の目に月島くんを入れるのは身体に毒なのだ。
心臓が破裂して死んじゃう。

あの日から、それとなく距離を取っていたのに、毎回こうして急に近づいてくるから私は良いように振り回されてしまう。

……やっぱり月島くんは、嫌がらせをしているんだと思う。