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「君に、泣かれるのはつらい」

一瞬だけ私の涙で怯んだ杏寿郎がおずおずと手を伸ばしてくる。
その太い指が優しく私の涙を一滴掬い、それからもう片方の手が私の肩をそっと掴んで自分の方に手繰り寄せる。
ふわりと香る杏寿郎の懐かしい匂いに、また私は涙を堪えることが出来なかった。
杏寿郎の肩を濡らしていく私に、杏寿郎は文句一つ言わず抱きしめる。
気が付いたら私はその背中に手を回していた。
かつて、私がそうしていたように。

「……幸せ者だな、その男は」

ぽつりと耳元で囁かれる言葉。
どこか何かを堪えるような、そんな言葉に私の胸がぎゅうっと締め付けられる気がした。

「泣くほど想われている、その男が心底羨ましい」

貴方の事だ、と喉のすぐ手前まで言葉が顔を出していた。
さらに強く抱きしめられて、私の身体は完全に杏寿郎に拘束された。
愛していると言ってしまいそうになるその行為に耐え、私は唇を噛むのに必死だった。

「忘れる事が出来ないのは百も承知で言う」

ガバ、と私の両肩を掴んで少し身体を離した杏寿郎。
真剣なあの赤い瞳が私を射抜く。昔からこの瞳に見つめられれば、反論することは出来なかった。
さっきまでのへにょへにょとしていた態度はどこへ行ったのだと。
冗談で言える雰囲気ではなかった。

「君が俺を見ていなくてもいいんだ。俺と付き合って欲しい。今すぐ俺を好きになってくれるとは思っていない。だが、いつか君は俺を好いてくれると、何故かそう断言できる」
「……は、」

なんて強引なセリフだろうか。
私の気持ちは貴方にないと、はっきり口にしたというのに、それでもなお私を離さないというのか。
そんな強引なところが、昔の杏寿郎とリンクしてしまうのが、こんなにもつらい。
何でどうして杏寿郎は、私を見つけたんだ。どうして私はまた杏寿郎と出会ってしまったんだ。
貴方が私を好いてくれる、その思いはきっと”今の貴方”のものではないと分かっているのに。
こんなにも、嬉しいのは、何故。

「……耳を、塞いで」
「何?」
「いいから、」

泣き顔ブスのまま、私はぽかん顔の杏寿郎の両耳を私の手で塞ぐ。
抵抗することなく不思議そうな顔をした杏寿郎と目があった。
私は読唇されないように小さく口を開いて、そっと呟いた。


「愛してる、杏寿郎」


今だけ。
今だけだ、貴方を昔と重ねるのは。
もう二度と貴方に言えないと思っていた言葉。
それだけ言えたなら、私はきっと大丈夫だ。
昔、貴方が世界から消えた日、何度も言いたかった言葉。

数秒経って、そっと耳の手を外し「もういいわ」と言うと、杏寿郎は何も聞かなかった。
有難いと思うと同時に私はやっと自分の頬を軽く拭って、杏寿郎に手を離すように視線を向ける。
それに気づいた杏寿郎は名残惜しそうに手を離してくれて、私はやっと解放された。

「私も酷い女なの」

貴方を忘れたいと思いながら、強く抵抗できない。
少しでも傍に居たい。なんて都合のいい想いなの。

「貴方に好きな人が出来るまで、それでいいでしょ」
「……っ、! つまり…」
「その間だけ、一緒に居てあげるから。でも、」
「本当か!?」

私の言葉を遮って、ぱあっと分かりやすく顔を明るくして杏寿郎はまた私に抱き着いてきた。
「ぎゃ」と女らしくない声が漏れた私を気にすることなく、そのまま抱いて持ち上げると、その場をくるくると回り始める。
人間メリーゴーランド、という気味の悪い言葉が頭に浮かんだ。

「ありがとう! 絶対に、君を幸せにする!」
「いや、あの…聞いてる? ちょ、下ろしてこわい!」
「ああ、好きだ! 本当に心から嬉しい!」
「や、やだ、話通じないじゃない! 早く下ろしてってば、杏寿郎!」

狭い台所で回転されれば、流石に私も怖い。
ぐるぐる回る視界の中で、必死に杏寿郎の名を呼べば、ぴたりと急停止するメリーゴーランド。
突然の事に慣性の法則で前のめりになった私を杏寿郎が支える。

「…俺の、名前を」
「え?」
「名前を呼んでくれたのか!?」
「…あ、」

ずいっと顔が近づいてきて。
その顔は誰が見ても分かるくらい、喜んでいた。
しまった、と思った時にはもう遅い。

「覚えてくれていたんだな! もう一回呼んでくれ!」
「いやだ…近づかないで、バカ!」
「頼む、お願いだ! もう一度だけ!」
「冨岡、起きて助けてヤダ!」

結局。
私の気持ちは一つも杏寿郎に伝わっていないだけでなく、台所で屈強な男に追い駆けられるというシャレにならない光景が繰り広げられて。
冨岡が目を覚めた時には、あまりにも異次元すぎる光景に「お前ら、何があった?」と至極真っ当な言葉が出てきたのであった。

そんなの私が聞きたいわよ。

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