16


一体、今は何時だろうか。
どのくらい喘いでいたのかも定かではない。
ただ喉はカラカラだし、腰の鈍痛はとんでもないことになっている。
今も昔も体力だけはバカみたいにあるもんだと胸の中で呟けば、私は痛む腰を我慢して捩ってみた。
すぐに自分の身体が大きな腕で抱きしめられている事に気づいて、ぎょっとする。
私の背後で私を離さないとばかりに拘束する身体。
しかも本人は起きているらしく、私が身を捩ったことで「すまない」と開口一番呟いたのだ。

「……悪い事をした自覚はあるのね?」
「俺は、最低だ」

わざとらしくそう言ってみたら、思いのほか後ろの大男は沈んでいるらしい。
いつもの大声や力いっぱいの返事は返ってこないで、ただただ私を抱きしめて「すなまい」とまた謝罪を口にした。
はあ、と呆れたように息を吐いて「何度も聞いたわ」と言った。

「別にどうってことないのよ、どうせいつかは散らすものなんだし」
「でも、君には想い人がいたんだろう…?」
「そうだったかしら」

沈んだ杏寿郎を見るなんて初めてだ。
面白がって答えてもやっぱり後ろの男はいつもの元気はどこへ。
馬鹿ねぇ、本当に。私も、貴方も。
痛む身体をそのままぐるんと回転し、杏寿郎に向き直った。
私が振り返ったので驚いたのか、杏寿郎は少しだけ口を開けて身体を離した。

「私が悪いのよ、貴方は何も悪くない」

杏寿郎の頬に手を伸ばし、そう言えば杏寿郎の目が大きく見開かれた。
元々杏寿郎の事が忘れられない私が、貴方を振り切ることも出来ず、中途半端な事をした結果が今なのだ。
昔の杏寿郎だけを想っていれば、今の杏寿郎とは付き合うなんてことはせず、そのまま一人朽ちていけばよかった。
なのに、私は今の貴方にも惹かれている。
昔の杏寿郎を裏切った、そんな私が悪いの。

「…いや、」
「いやもクソもないわ。この話はおしまい。いいから、お水の一つでも持ってきてくれると嬉しいんだけれど」
「水?」
「貴方、自分のしたこと覚えていないの?」

クス、と笑えば杏寿郎の表情が遅れて赤く染まる。
今の今までずっと裸でお互い抱き合っているというのに、今やっと気づいたのか。
純情そうに見えて、情事の最中は全くそんなことはないのに、と喉のそこまで漏れそうになったが、ぐっと我慢した。
やっと杏寿郎は私を抱きしめていた腕を解いて、ベッドから抜け出していった。
そう言えば私、いつの間にかベッドに寝かされていたのね。
流石に床の上で寝かされていたら、さらに腰が大変なことになっていた事だろう。
私は近くの布団を手繰り寄せて、ゆっくり上半身を起こした。

「…いっ…」

痛い。
一体どれだけ無理をしたんだろうか、この身体は。
思わず苦笑いを零していたら、コップを手に持った杏寿郎が戻ってきた。
それを私に渡すと、恐る恐る私の髪に触れる。
変なの、いつもはもっと堂々としているのに。

「ありがとう」
「いや…」
「貴方、さっきから変よ。まるで人が変わったみたい」
「……」

冗談なのだけれど、思いつめたように真剣な表情をして黙りこくられると、こちらだって気持ちが悪い。
水を飲みながらじーっと杏寿郎を睨んでいても、杏寿郎は私に気づくことはなかった。
身体を重ねたら性格が変わる系の人なの?今の杏寿郎は。

結局その日、杏寿郎は私が眠るまで傍に居たけれど、朝起きたらその姿を消していた。
スマホに残されたメッセージは何度も聞いた「すまない」という言葉。
いつまで引きずっているんだと笑ったけれど、その日以降、杏寿郎からの連絡が一気に途絶えてしまう事になる。


◇◇◇


「どうなってるのよ」
『どうしたんだ、一体』
「杏寿郎から連絡が来ないのよ」
『……なんだと?』

杏寿郎と連絡が取れなくなって一週間。
ついに私は普段私から連絡を取らないのに、とうとう冨岡に電話をするという最終手段に出たのだ。
電話口の向こうの冨岡は私の言葉に軽く絶句しており、感情表現の乏しい冨岡がどんな顔をしているのか、是非この目で見たくなるくらいには気になった。
いや、今はそれどころではない。
要はあんなに連絡を寄越していた杏寿郎から、まったくと言っていいほど連絡が取れなくなったことにある。
仕事はしているようだから、ただ私と連絡を取らないだけ。
それも身体を重ねた日から。
これが気を悪くしないなんて、できるはずがない。

……私の身体に何か問題があったのかしら、と不安に駆られてしまった。
もしくは、思っていたほど良くなかった、とか?
杏寿郎の口からそんなことを言われたら、ショック死するわね。

「あのバカに伝えて」
『何を』
「連絡してこないなら、別れてやるって」
『……何があったんだ、お前たち』

うるさいわね、と冨岡に悪態ついて、私は乱暴に電話を切った。
スマホをそのままベッドに投げて、その上からばたーんと身体を投げ出した。
ふざけんじゃないわよ、あのバカ男。
人の気持ち振り回しておいて、自分は連絡途絶えさせるとかどういうつもりなの。

「それなら、もっと早く離れていってほしかったわ」

私が貴方を好きになる前に。

もうすでに一つも残っていない杏寿郎の香りを、少しでも嗅げないかと枕元に顔を埋めて、瞼を閉じた。

「…ごめんね、杏寿郎」

私、昔の貴方の他に好きな人が出来たわ。
ずきんと痛む心臓を押さえ、枕に滲む涙をそのままに私は眠りに落ちた。

戻る
トップページへ