04


それから数日が経過した。
結局。
冨岡はその後、酷く納得のいかない顔をして帰っていった。
私が頑固にも顔を縦に振らなかった所為なのはわかっているんだけれども。
確かにもう心がないのかと言われれば、まったくそんなことは無くて、むしろどうすれば忘れることが出来るのか知りたいくらい、この人生でずっと悩んでいた。
でもきっともう忘れることはないのだろう、それだけ私の心は頑固なのだ。

その日、私は会社の新入社員歓迎会の席で浴びる様に酒を口にした。
昔は酒に強かったし、これくらい何てことはないと思っていたのだが、今世では酒を口にするのは久しぶりだったことを忘れていて、すっかり酔いが回ってしまった。
周囲の先輩が心配する中「一人で帰れます〜」と呂律がまだなんとか保っている間に、ふらりと立ち上がり、店を出た。
どこの世界に一次会でふらふらになるまで飲むバカがいるんだ。いや、私の事か。
それもこれもこの前の冨岡が、余計なことを教えてくれた所為だ。
揺らがないわけではない。ただ、もう自分には杏寿郎の隣にはいられないのだと実感してしまったが最後、酒に逃げるしかなかった。
記憶がないんだもの、私の事なんてこれっぽっちも知らないんだもの。
どうすることもできないじゃないの。

「名前?」

誰かに呼び止められた気がした。
ふらふらと覚束ない足で居酒屋の並ぶ道を歩いていて、その辺の酔っ払いの戯言に耳を貸したかと気にしないで歩き続けた。
すると私の方へ小走りで近づく足音が聞こえて、否が応でも反応する羽目になった。
私の肩を優しく揺さぶるその男は

「冨岡?」
「何してるんだ、こんなところで」

この前ぶり。
少し気まずいなんて思ってしまったけれど、酔っ払いに怖いものはない。
私は酒の所為で緩んだ頬を見せながら「酔った〜」と笑う。
すぐに冨岡に「そんなもの、見ていれば分かる」と言われてしまった。
だったらその手を離せ、と。今いい感じで酔っているのよ、吐き気が襲ってくる前に家に帰りたいの。
そう言ってみたいけれど、如何せん空気の読めないこの男は「大丈夫か」と無駄に心配そうに顔を覗かせる。
いや、そんなのはいいのよ。さっさと手を離して。

「あれ、なんで冨岡がこんなとこに…」
「俺は仕事の打ち上げで」
「あぁ〜…そう〜?」

仕事の打ち上げ、ね。
そう頭に認識した時、一瞬だけ酔いが吹っ飛んだ。
仕事の打ち上げですって?
それはつまり、学校の教師たち、と。


「冨岡!! 突然見知らぬ女性の肩に触れるのはどうかと思うぞ!」


背筋が凍った。
声に聞き覚えがあるなんてものじゃない。
何度もその声を聞いた、何度も焦がれた。
何度だって、その声に名前を呼ばれたいと願った。
前世では一緒になることがなかった、愛しいあの男の。
私の身体がガタガタと震えているのを冨岡が感じ取ったのだろう。
私からあの男を見えないように背中で隠し、声の方へ振り返った。

「友人だ。酒に酔ったようだったので、介抱したにすぎない」
「冨岡にも友人がいたのか! 是非俺にも紹介してもらいたい」

声はどんどん近づいてくる。
周りの雑踏なんて一瞬で消え去った。私の耳にはあの男の声しか聞こえない。
込み上げてくる、何かが私に危険信号を出している。
逃げなきゃ、ここから。
私が奴の視界に入る前に、私が奴の瞳を見てしまう前に。
でも足はまるで生まれたての小鹿のように震え、動こうとはしなかった。

「俺は煉獄杏寿郎という。冨岡と同期だ」

私の目の前にやってきた、大きな靴。
視線を下げていた私はゆっくりと顔を上げて、見てしまった。
私の、愛しいあの男の顔を。
派手な髪色をした、固そうな髪質。それでも触れれば案外ふわふわしていることも知っている。
燃えるように熱い瞳、一度視線が合えば逸らすことは叶わない。

目を見開き、声が出なかった。
込み上げる思いがもう喉のところまできていた。
私はそれに抗うことなく、そのまま杏寿郎にむかって“吐いた”。


「名前っ!?」
「大丈夫か!?」


胃の中の物を盛大に杏寿郎に吐き出し、私はそのまま意識を失った。
傍にいた冨岡と杏寿郎の酷く慌てた声を聞きながら、私はこれが夢であればと願わずにはいられなかった。


◇◇◇


目が醒めた時に目に入ったのは自室の天井だった。
よかった、私は家に無事に帰れたらしい。
壁にかかっている時計を見ると、まだ朝の六時だった。
きっと昨日のあれは悪夢だったのだろう、と思うことにして、私はベッドから足を下ろした。
その時、ふに、と何か柔らかいものを踏んだような気がしたので、慌てて足を上げた。

「……ひっ」

人の足がそこにあった。
足だけじゃなくて、勿論それは胴体へつながっている。
繋がった先を恐る恐る視線を上げていくと、そこには固く瞼を閉じて自分の片腕を枕にしたまま眠っている杏寿郎の姿があった。

なんで、私の家に杏寿郎が。
思考が完全に働かないまま、私はさらに恐ろしい事実を知った。
杏寿郎の上半身に纏うシャツ、それは私のパジャマじゃなかろうか。

杏寿郎のようなガタイのいい男には無理だったようで、ボタンは全開だったけれども。
な、何故杏寿郎が私のパジャマを着ているんだろう。
都合のいい夢とかそんなものとは無縁の酷く恐ろしすぎる夢に違いない。
もう一度眠れば今度こそ正常に目が醒めるだろう、と再度布団に潜り込もうとした。

「起きたか」

そう言って台所から顔を出したのは、冨岡だった。
そして何故か奴も私のエプロンを着て立っていた。

……やっぱりこれは悪夢に違いない。

私はバタン、とそのまま背中からベッドに倒れた。

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