05

「冨岡…本当にいいのか? 女性の部屋に勝手に入るなど、許されるとは思えないが」
「いい。元はと言えば吐くまで飲んだこいつが悪い。いいからお前は落とさないように、しっかり背負え」
「無論だ」

仕事の終わりに教師の面々で飲み会を行うというので、普段参加しない同期の冨岡を誘って飲み会に参加することにした。
一次会終了後、先輩教師たちは二次会の会場探しへ消えて、冨岡はさっさと家に帰りたそうにしていたが、友達がいるとも思えない冨岡が可哀想で、俺は冨岡に付き合うことにしたのだ。
が、冨岡はある店の一角に視線を飛ばして何かに気づくと、早足で一件の居酒屋の前をふらふらと歩く女性に話しかけに行った。
酷く酔っ払った様子で、冨岡と会話している横顔を見た時、何故だか視線を外すことが出来なかった。

ほんのり酒の影響で桜色に染まった頬、それから潤んだ瞳。
どこかで見かけた覚えはなかったが、不思議と見覚えのあるような感覚だった。
冨岡に知人がいたことに満足して、帰ればよかったのに、そのまま俺は二人に向かって歩き出していた。

「冨岡!! 突然見知らぬ女性の肩に触れるのはどうかと思うぞ!」

あの冨岡が女性に興味があるとは、正直一粒すら思っていなかったが、聞けば幼馴染だという。
なるほど合点がいった。だが、そこで引く気もなかった。
ふわりと鼻を掠めるどこか懐かしいような香り。
どこで嗅いだのか思い出せないが、俺は知っていた。

「俺は煉獄杏寿郎という。冨岡と同期だ」

目の前の女性にどうか俺を覚えて欲しい。
ふつふつと湧いた欲望に素直に従った。視線は俯いている。だけど、俺をその瞳に映してほしいと。
先ほど冨岡に話していたその声で、俺を呼んで欲しい、と。
図々しい願望まで湧き出る始末だ。
冨岡の幼馴染という女性の名前を、俺も呼んでみたい。

女性は恐る恐るという表現が正しく、ゆっくり顔を上げた。
そして俺をその瞳にしっかり捉えてくれた、その瞬間。
彼女は青白い表情で、そのまま俺の服へ全てを吐き出した。

吐くだけ吐いた彼女はすっきりしたのか、そのままフラっと身体を傾けて倒れようとしていた。
慌てて俺が抱き留め、冨岡が彼女の名前を叫ぶ。

「名前! 名前! しっかりしろ」

それを聞いて彼女の名前は名前と言うのだと、ひっそり思った。
服を汚された事よりも、まず名前が気になって仕方なかったのだ、俺は。

「おい、煉獄。お前、名前を背負えるか」
「それはいいが、彼女を休めなければ…!」
「分かっている。家に連れて帰るから、ついてこい」
「……家、だと?」

ハア、と呆れた息を吐き出しつつ、冨岡は目を細めて俺を見た。

「家に連れて帰るに決まっているだろう。このまま連れまわす気か」
「いやそうじゃない! 男の家に連れ帰るのはどうかを聞いている!」
「何を勘違いしている。名前の家だ」
「…そうか」

冷静に考えればわかったはずだ。
ただ頭の中にこの女性と冨岡が一つ屋根の下で一晩過ごすことを想像してしまった、それだけだ。
冨岡の知人なのだから、別に問題はないのだろうが、どうしても憤りを感じずにはいられなかった。
……俺としたことが、酒に酔ったか。

そのまま俺は彼女を背に、近くにあるという彼女の家に向かって歩き出した。
冨岡が半歩前を歩きチラチラとこちらを見ているが、それが何か言わんとしているようで「何だ?」と尋ねてはみたが、何も言わずに冨岡は顔を逸らした。
歩いて十分程度だろうか。4階までしかないマンションにたどり着くと、慣れた手つきでオートロックを解除する冨岡。
その様子に、何度も彼女の家に邪魔をしていることだけは分かった。

そして、あろうことか彼女のカバンを漁り、キーケースを取り出すと、鍵を鍵穴に差し込んだ。
あっと言う間にカギは開き、家主が意識がないのにも関わらず、俺たちは中へ勝手に侵入したのだった。

「煉獄、お前そのままシャワーを浴びてこい」

冨岡がさも当然のように言うが、俺は目をかっと開いて「無理だ!」と叫んだ。
いくら服が汚れているとはいえ、勝手に家に侵入しただけでなく、浴室まで借りるなど言語道断だ。
男として一線を超えるわけにはいかない、と俺は抵抗したが、冨岡に「臭うぞ」とぽつり言われてしまい、散々悩んだ挙句、俺は諦めてシャワーだけ借りることにした。

「すまない、少しの間借りるぞ」

そう言ってベッドに寝かせた女性に向かって言うと、彼女は固く閉じた瞼を少しだけ痙攣させ、くるりと寝返りを打った。
結局シャワーを借りることになったが、俺は頭から冷水を被りながらひたすら自己嫌悪に陥ることになる。

十数分の懺悔を終え、上半身裸で浴室から出てくると、俺の服は冨岡がまたもや彼女の了承を得る事なく、勝手に洗濯を回している、という。
勿論着れる状態ではなかったが、このままでは俺は上半身裸で女性の部屋でうろうろすることになるだろう。
冨岡の上着を借りようとしたが「お前には貸さん」とあっけなく断られてしまう。
困った俺を見て冨岡はしぶしぶそこいらにあった引き出しに手を付け、中から一つの衣服を俺に寄越した。

「サイズが合うかはしらないが、無いよりマシだろう」

手元にある桃色の肌触りの良いシャツ。
少なくともこれは男物ではないことがすぐにわかった。

「何のつもり、だ…」
「仕方ない。ここは名前の部屋だから、名前の服しかない。それを着ろ」
「……女性の服を着ろというのか!」
「それが嫌なら名前が起きるまで裸でいる事だ」
「……」

流石に上半身裸の男が部屋にいる事実だけは避けなければならない。彼女が目覚めた時の精神的ショックを考え、俺はしぶしぶ彼女の服を身に纏う。
今思えば、彼女が起きる前にさっさと帰ってしまえばよかったのだが、何故だかそこまで考えが回らなかった。

腕周りの生地が悲鳴を上げている。
前ボタンは無理やり閉めようとすると、ボタンが弾けそうだったので、留めるのは早々に諦めた。
ベッドで寝ている彼女自身は汚れることがなかったため、ジャケットだけを脱がし、布団を首元まで被せることにした。
寝ている姿を見ていても、どこかで会ったような感覚は消えなかった。
じーっとその寝顔を見つめていれば、冨岡が俺を見る。

「気になるか?」
「……目の前で吐かれたのだから、当たり前だろう!」
「そうか」

そう言って彼女に視線を落とす冨岡の表情は、どこか寂しそうに見えた。


暫くそうやって過ごしたが、飲酒した身体に深夜という時間帯は眠気を誘う。
虚ろとする俺に気づいた冨岡はベッドの真下を指さし「そこで寝ろ」と言い残して、テーブルを挟んだ反対側へ寝そべってしまった。
仕方なく、俺は言われた通り、ベッドの下に転がる。
部屋の中に飾ってある時計の音、それからすうすうと規則正しく聞こえる寝息。
不思議な気持ちのまま、俺は眠気に抗うことなく、目を閉じた。


『杏寿郎』


夢に落ちる寸前、誰かに呼ばれたような気がしたが、酔っ払いの幻聴だろう。

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