07

「一体全体、なんなのこれは!」
「俺の知ったことか」

杏寿郎の去った後の部屋の中。
私はローテーブルをドンと両手で叩きながら、目の前で相変わらずコーヒーを口にする冨岡に叫んだ。
冨岡は表情を変えずに「知らん」とまたぶっきらぼうに返してくるけれど、そんな簡単な言葉では済まされない。
何で何で何で。

「何で杏寿郎が連絡先を聞いてくるのよ!」
「よっぽどダメにしたパジャマの事を気に病んでいるんだろう」
「んなわけないでしょ?」

とぼけた顔で答える冨岡に怒りが湧いてくる。
手が出なかっただけ、良しとして頂きたいくらいである。
特にこの平然とした顔でいられるのが、余計に腹が立つのだ。



「連絡先を教えて欲しい!」

そう言って杏寿郎は私に向かってスマホをちらりと見せてきた。
冨岡までがゴフ、とコーヒーをむせるほどの衝撃が部屋の中を襲った。
私は差し出されたスマホと杏寿郎の顔を交互に見つめて、最終的にはぱちぱちと数回瞬きを繰り返し「は?」と尋ねた。
杏寿郎は表情を変えないでもう一度「連絡先を教えて欲しい」と呟く。
いや、そんなことは分かっている。
私が聞きたいのは、何故今世の杏寿郎が私の連絡先を知ろうとしているのか、ということだ。
昨日まで何の接点もなかった、私と。

「…え?」
「このまま帰るのは気が進まない、ならばせめて連絡先を交換して貰いたい」
「な、何故…?」
「君と、また会いたいからだ!」

思わず声が出なくなった。
未だにぽかんとしている私をよそに、杏寿郎はどこか恥ずかしそうに頬を指でかいている。
そして「ダメだろうか?」と捨てられた子犬のように尋ねられては、私も「ダメだ」とは言えない。
それに連絡先を交換するまで帰らなさそうな雰囲気を醸し出されては、仕方がない。
おずおずと私もスマホを出すと、杏寿郎は本当に嬉しそうに表情を明るく染めた。
私の心臓が、鼓動した。

「ありがとう。……名前と呼んでもいいだろうか?」
「ダメ」
「……え?」

嬉しそうに掌のスマホを見ながら、私に尋ねた杏寿郎だったけれど、私が即答で無情に返答すると、その表情に陰りが見えた。
ズキンと心臓が痛んだ気がしたけれど、それだけは許すわけにはいかない。
私が、今世と前世の杏寿郎を混濁させたくないからだ。

「貴方には呼んでほしくない」

そう言うと、目の前の杏寿郎は分かりやすくショックを受けた顔をしていた。
そのまま何にも言わずに私の部屋を出て行ったのだった。

「いくら何でもあの言い方は酷いと思うが」
「冨岡に言われたくないわ。日頃のあんたの日常会話に全てツッコミを入れるわよ、私は」
「確かに今世と前世は違うが、煉獄の想いを無視するな」
「……あら、その言い方だと私の想いは無視していいの?」
「……」

私の中の煉獄杏寿郎という男はたった一人なの。
ぽつりと零した想いに冨岡はとうとう黙ってしまった。
あの同じ声で同じ顔で「名前」と呼ばれたら最後、私はもう戻ってこれはしない。
今世の杏寿郎に対して、必要以上に”杏寿郎”を求めてしまう。
記憶がない、ただの煉獄杏寿郎に。

「杏寿郎を縛り付けたくはないの、私の大切な思い出に踏み込んで欲しくもない」
「だが、」
「冨岡」
「なんだ」
「私、言ったでしょ。今は違うの。私と杏寿郎が恋仲だった、あの時とは」

そこまで言うと、持っていたマグカップをテーブルに置く冨岡。
しゅるしゅるとエプロンを脱いで綺麗に畳むと「帰る」と一言言って、杏寿郎と同じように帰ってしまった。
誰も居なくなった部屋の中、私は先ほどまで杏寿郎が寝ていたカーペットに触れる。
もうそこには人肌のぬくもりなんて無くて、ひんやりと冷たかった。

「……杏寿郎、っ」

なんで、私は記憶があるんだろうか。
どうせ生まれ変わるならすべて忘れたかった。
誰を見ても分からないくらい、真っ白な記憶で。
そうすればこんなにつらい思いはしなくて済んだのに。
杏寿郎を見て愛しいと、想うこの気持ちも、すべて。

「…やっぱり忘れる努力はしないと、ね」

いつまでもあの背中を想っていたら、今世まで独身のまま死ぬことになる。
私の隣は杏寿郎だけだと今も思っているけれど、それが良くないことも知っている。
だから、こそ。

「お別れをしましょう、杏寿郎」

私の中から、永遠のお別れを。

ぽろぽろと零れる涙を拭うことはしないで、ただただカーペットに蹲って泣いた。

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