08

『貴方には呼んでほしくない』

よもや、初めて会った女性にこんなことを言われるとは思わなかった。
確かに連絡先を聞くには性急しすぎた所があったのは否めない。だけども、このチャンスを逃してしまうと、きっと当分会えない、もしくは二度と会えない気がした。
だからこそ、無理やりにでも連絡先を聞いたのだ。
その結果、連絡先を交換することは出来た(仕方なくといった表情だったが)。
ついでと言っては何だが、少しは距離も縮まっただろうかと、名前を呼ぶことを許可して貰うつもりだった。
冨岡が気易く名を呼んでいるのが、羨ましく感じていたのと、どうしてかその名を口にしたかったからだ。

「……名前」

女性もののパジャマを纏った男が女の名を呼びながら歩く姿は、さぞ気味が悪い事だろう。
名前を呼ばせてほしい、という俺の願望は彼女によって華麗に拒否された。
確かに昨日会ったばかりの見ず知らずの男。
幼馴染である冨岡と比較すれば、気安く名など呼んでほしくないはずだ。
それでもどこかで、彼女ならば許してくれると思っていた。
……何故かはわからない。

『杏寿郎』

昔、そう呼んで貰っていたような、そんな気がしただけだ。
過去に付き合った彼女の声でもない、紛れもない、俺の服に吐いたあの彼女の声で。
手元にあるスマホの画面に映った「苗字名前」という名前。
そこにある電話番号を思わずタップしてしまいそうになるが、寸前で思いとどまる。

何度も言うが、昨日会ったばかりの女性だ。
勿論、その他で見かけた覚えもない。
なのに、一目で惹かれた。俺は彼女に会わなければ、話さなければ、いけない、と。
彼女の事を想うだけで心臓が鼓動する。
これが恋かと言われると、確信はできないが。
恋とは違う、情熱がある、気がする。

……愛、か。

いや、考えるのは良そう。
俺は先ほど、彼女に拒否され情けなく部屋を飛び出したではないか。
普段の俺からすればありえないことだ。
だが、それだけで諦められるわけではない。

「…今は、まだ。こっそり呼ばせて貰う」

拒否されようとも。
もう一度、胸の中で彼女の名前を呟いた。

名前。

胸の中に穏やかな風が吹いた気がした。


◇◇◇


「冨岡! おはよう!」
「……あぁ」

出勤して早々、俺の真向かいに座る青ジャージの冨岡に挨拶を飛ばせば、奴は表情を変えずに短く返事をした。
俺は自分のデスクの引き出しにカバンを収納すると、勢いよく椅子に腰を掛けて、デスクに肘をついた。
顔の前に拳を作り変わらず冨岡を見ていたら、怪訝そうな顔をした冨岡が「何だ」と話しかけてくる。

「聞きたいことがある!」
「……名前の事か」
「話が早いな! 彼女の好きなものを教えてくれ!」
「……お前だろうな」
「何だって?」
「いや」

ブツブツとまるで独り言かと思うくらい小さな声で呟かれては、俺の耳にも入らない。
聞き返してみたが、冨岡は面倒くさそうに溜息を吐いて首を横に振る。

「聞いてどうするつもりだ」
「彼女を食事に誘うつもりだ!」
「…誘えば来るのか」
「今のところ、返事はない!」

また冨岡が溜息を吐いた。
彼女のパジャマを着て帰った日の夜から、彼女にメッセージを送ってはいるが、返事が返ってきたためしはない。
それでも諦めずに毎度返信に困らない内容を考えて、メッセージを送る。
最近は返事がなくとも、彼女の目に入ればと思うと少し楽しくなってきたところだ。
彼女の好みの食事などの話題を出せば、もしかしたら今度こそ返事が返ってくるかもしれない。
幼馴染である冨岡なら彼女の好みなど当然知っているはずだ。

「お前から連絡したところで、返事など一生返ってこないだろう」
「何だと! そんなことはないと思うが」
「現に一つでも返事が返ってきたのか?」
「まだだ!」
「……」

飽きもせず、もう一度冨岡が溜息を吐いた。
俺の言葉を聞いて呆れかえっているように思えた。

「…手は貸してやる。後は、お前の努力次第だ」

珍しく冨岡が頼もしく呟いた。
パチパチと瞬きをして冨岡を見れば、不審な顔をした冨岡が「何だ?」と眉を吊り上げる。
俺は「いや」と前置きし、

「彼女と俺を取り持とうとしているだろう? 何故だ?」

と尋ねた。
そもそもだ。
先日会ったばかりの女性に、ここまで執着する男など一般的に見れば気持ち悪いことこの上ないはず。
相手は幼馴染で少なくとも大切な友人である彼女なのだから、冨岡も気が気でないはずだ。
なのに、何故、冨岡は彼女と俺を仲介するのか。
俺と冨岡の付き合いも長いわけではないというのに。


「……アイツの泣く姿は見たくない」


冨岡の表情が一瞬で色を変えた。
「どういう意味だ」と尋ねた瞬間、職員室内のスピーカーが予鈴のチャイムを鳴らしたのを聞いて、周りにいた教師たちも席を立つ。
冨岡の後を追うつもりが「お前は体育館で授業をするつもりか」ともっともな指摘を受けて、俺は伸ばした手を引っ込ませた。

職員室を出る直前、ポケットに突っ込んだスマホを取り出して、慣れた手つきで彼女宛てにメッセージを送る。
何故か、そう送らないといけないと思ったからだ。
返事は返ってこないと知っていても。

『泣くな』

原因は何かは知らないが、泣かせたくはない。
送ったことを確認すると、俺は元のポケットに乱暴にスマホを突っ込んだ。

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