01

「お嬢ちゃん、大丈夫〜?」

頭の上から降ってくる飄々とした声に、私はなんと返事すればよかったのだろうか。
身体的に言えば傷一つなくて、“大丈夫”と返事しても問題はないはずだった。
でも精神面で言えば、大混乱中である。
特にこの、どう見ても不審者としか思えない男性を前にすれば、正常な判断など出来るはずもなかった。

いつもより遅くなった部活帰り。
普段なら絶対通ることはないけれど、廃屋で立ち入り禁止となっている場所を横切れば、少しばかり帰宅が早くなるからと、そんなところに足を踏み入れたら最後。
途端に私の身体は動かなくなり、横たわってしまった。
意識はあるのに身体が動かない。スクールバックが頭の下にあったので、コンクリートに頭を打つことはなかったのは幸いだった。
だけど、ぴくりとも動かない身体。どうしたんだろう、と指先一つ動かそうとしてもダメだった。
え? え? と混乱のまま眼球だけが自在に動いたので、辺りを見回してみる。
私以外、誰もいない、漆黒の闇。
でも、なんとなくわかった。
”何か”いる。

目には見えない。
ただ、目の前の枯れ葉の山がズシン、とまるで何かに踏まれたように押しつぶされて、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
私の目に見えない何かが、こちらに。
途端に襲う恐怖。
だけども私にはどうすることもできない。
何故なら、私は動けないからだ。指先一つ動かない、助けを呼ぼうと声を出そうとしたが、それも無駄な足掻きだった。
ハァ、ハァ、と荒い呼吸だけが聞こえる。
私のものなのか、それとも得体の知れない何かなのか。
身体が動かないのに、震えだけがガタガタと全身を包む。
おかしい、なに、これ。

ふわ、と私の頬に掠める生暖かい空気。
とんでもない不快感と異臭。
声は出ないけれど「ひっ」と悲鳴が出たような気がした。

自分の命の危機を感じた、全身で警鐘が鳴っている。
このままでは私は死ぬ、と。
せめて、せめて家族に別れでも伝えたかった。
このまま訳も分からず死ぬのだろうか。

瞼が動く内にせめて、瞼を閉じて逝きたい。
恐ろしいものを見てしまう前に事切れたい、と僅かな希望を抱いて私は固く瞼を閉じた。
あ、ああ、誰か、誰か。
どうか、助けてください、もう、我儘なんて言いませんから。

「…なん、でも…する、から」

出ないと思っていた声が最後に出た。
けれど、もう遅い。
耳元で聞こえる異形の声。
耳を塞ぐ行為すらできない私は、命の期限がもうすぐそこまで来ている事に気づいた。
強く閉じた瞼の前に、何がいるのかわからない。
だが、私はきっと一瞬のうちに死んでしまうのだろう。
痛みがないといいけれど、と思っていたその時だった。

「お、JKだぁ。かわいい〜」

この場に相応しくない声が、その場に響いた。
まるで渋谷でも歩いていそうな若者の使う言葉で、この状況を理解していないのかと問い詰めたくなる空気の中、声の主はツン、と横たわる私の肩をツンと突く。

「もう起きていいよ。怖かったね」

その声があまりにも穏やかで優しかったから、さっきまでの恐怖を忘れて私は瞼を開けた。
瞼を開ける直前に先程までの恐怖が蘇ってきたけれど、開けた先には何もなかった。
あったのは、黒い靴と、しゃがみ込んで私を眺める、不審者。
月明かりに反射した白のような銀のような髪色、両目は布で隠されていて、見えているのかもわからない。
ただその男の人の口元は緩やかなカーブを描いていて、声と同じくこの場に相応しくなかった。

「もう起きれるでしょ? それとも手を貸そうか?」

私より白い腕が伸びてきて、私の手をそっと包む。
と思ったら、びっくりするほど強い力で引かれて、私の身体はあっと言う間に男の人の腕の中にあった。

「流石JK、いい匂いだね〜」
「……は?」

折角抱き留めてもらったけれど、申し訳ない。
私はどこにそんな力があったのかと思うくらい、力を込めて男に人の胸板を押し、一定の距離を保つ。
なんだ、この人、キモイ。
きっと表情にも出ていたんだろう、男の人は「折角助けてあげたのに、酷いなぁ」と笑った。

「ところで、」

ふ、と男の人は息を吐き、私の頭をそっと撫でる。

「助けてあげたんだし、何でもしてくれるんだよね?」

さっき、そう言ってたよね。
と言われて私の身体が凍った。
キョロキョロ見回してみても、先ほど感じた恐怖はもう跡形もなかった。
いなくなった? それとも、消えた?
確かにさっきまですぐそばに感じていたのに、なんて思っていたら追撃のように男の人が口を開く。

「お嬢ちゃん、聞いてる?」

急に耳元で聞こえたそれに私は距離を取ることを忘れて、顎が落ちてしまいそうなくらい間抜けな顔を上げた。
目は隠されているのに、それでも分かる。
この人、イケメンだと。
……意味、わかんない。

突然起こった異常事態と、突然現れた不審者(イケメン)にどうしていいのかわからず、私はそのまま眼球がぐるんと上を向いたかと思うと、そのまま後ろにぶっ倒れた。
最後に「あぁ…夢オチは勘弁してほしいね」と溜息とともに聞こえた。

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