02

目が覚めたのは自室のベッドの上だった。
昨日私は遅めに帰宅して、そのまま晩御飯を食べずに眠ってしまったらしかった。
「よほど部活が疲れていたのね」と母は言ったけれど、薄っすら残る記憶がそれを否定する。
昨日のあれは夢だったのだろうか。
体験したことのない恐怖、死へのカウントダウン。
そして……あの不審者。

思い出すだけでも身震いしてしまう。
いくらイケメンだったとしても、あの状況で飄々としていられる人は関わらない方がいいに決まっている。
もう二度と会うことはないだろうけれど、イケメンホイホイに引っかからないように気を付けよう。
あと、いくら近道だからと言って、変な場所には近づかないでおこう。

はぁ、と重めの溜息を吐いて、私はクローゼットから可愛らしいワンピースを取り出す。
今日は土曜日。友達と遊びに行く約束をしているのだ。
ワンピースに合うカラーレギンスを履いて、姿見の前でくるりと回ってみた。
よし、可愛い。
ショートカットの髪を片側だけ編みこんで、それが歪んでいないかチェックをすれば、私は忘れ物がない事を確認して部屋を出た。
よしよし、今日はきっといい日になる。
間違っても昨日みたいなあんな怖い体験はもうこりごりだ。
今日は遊びつくすぞ、と意気込み、玄関を飛び出した。

「やあ」

扉を開けた先、門扉の前に立っていた男が片手を上げて、にこりと笑って立っていた。
数秒男と見つめあい(いや、目なんてあってないようなものだけれど。何故ならこの男は自分の目を布で塞いでいるから)、私はパタン、と扉を閉めた。

「あら、行かないの?」

廊下から顔を出した母が不思議そうに呟く声が聞こえた。私はそれに答えることなく、数秒待ってもう一度玄関を開けた。

「やあ、昨日ぶりだね」

そろり扉を開けてみても、先程と一寸変わらない姿で立っていた、男。
昨日私を怖い何かから助けてくれた不審者男に違いなかった。
もしかしてもしかして、これもまた夢なんだろうかと後ろ手で扉を閉めながら、自分の頬を摘まんでみたけれど、しっかり頬は痛かった。
あと「今日も会ったね」という男の追撃により、夢なんかじゃなくて現実なんだと理解した。

「だ、誰…?」
「あれ、僕の事覚えてない? 危ない所を助けた王子様なんだけど」
「……王子様?」
「そ、かっこいいでしょ、僕」

ダメだ、会話が成り立たない。
確かに一般的にカッコいいと言われる整った顔立ちをしている、とは思う。
けれど、全身暗い色一色で、頭にはヘアバンド、それから両目を布で覆っているのが、王子様と言われればそれは違うものだと声を大にして言いたい。
私は一瞬後ずさりをしたけれど、腕時計の時刻を見て思い出したように男の隣をすっと抜けて歩き出した。

「ねえ、無視? 気持ちがいいくらい華麗に無視するね。これからどこに行くの?」
「…え、ついてくるんですか……? き、きも…」
「キモじゃなくてね。ほら、王子様だって。昨日助けた恩を忘れたの?」
「いやいやいや、恩とか言われてもよく分からないし、てか本当に何でついてくるんですか?」

ズンズンと結構な歩幅で歩いていたら、不審男はついてくる、というかむしろ隣を並走してくる。
横に並んで歩きながら余裕そうな顔で私に話しかけてくる姿が、気持ち悪いと思った私は決して間違ってはいないはずだ。

「昨日怖い思いをしたでしょ? 心配になって様子を見に来ただけだよ」
「それはどうも。もう何ともないので、どうか安心してどっかに行って下さい」
「つれないなぁ。そんな可愛い恰好をして誰に会いに行くの? 彼氏?」
「あの、頼むからついてこないで」

心配して様子を見に来てくれたというのなら、今はもう私は完全に怖い思いをしていないし、何なら夢だと思っていたくらいなのだから、そのまま放っておいて欲しいのだけれど、不審男は相も変わらずずっと私の隣を並走する。
きっと私よりも年上のこの男。背も遥かに高くて正直、不審者以外の何物でもない。
そんな男に粘着されている今の状況が、本当に意味が分からない。

「ああ、僕の名前は五条悟。よろしくね〜。あ、五条さんって呼んでもいいけど、僕的には悟さん、って言って貰うのがツボだから、是非そう呼んで欲しいね」
「……頼んでもない自己紹介を突然始めるのやめてください」
「名前は素直じゃないねぇ〜。ちょっとでも場を和ませようとする僕の気遣いに気づかないかな?」
「…気遣い? って、何で私の名前知ってるんですか?」

家を出てから結構な距離を歩いていたけれど、そこでやっと私の足は止まった。
道の真ん中だとしても知るか、私がピタリと止まったらやっぱり隣を歩いていた不審男も一緒になって止まる。
にこ、とその口が弧を描く。

「……ほら、僕って愛が強い方だから、さ」

自分の頬に片手を添えて、少し恥じらいを見せながらそんなことを言われて、私は背中に変な汗が伝うのを感じた。
え、意味わかんないし、全然答えになっていない。
ガチの不審者だ、と私はそこでやっと青ざめた。

私の青白くなった表情に気づいた男は、両手を軽く上げながら「ごめんごめん、僕の愛が強すぎちゃったね」と意味の分からない謝罪をする。
さらに血の気を失った私は、ずりずりと男からゆっくりと離れた。

「まあ、いいや。僕は仕事があるから、この辺で失礼するね。お友達と楽しんできて」

不審男はふふ、と最後に意味深な笑みを残し、そう言って次の瞬間には私の目の前から姿を消した。
突然目の前から人が消えて、私はあまりの事に小声で「ヒッ」と声が漏れてしまう。
さっきまで不審者男の立っていた場所で、地団太を踏み落とし穴がない事を確認した。
…いや、普通にアスファルトの地面だし、穴なんてあるはずもない事は分かっているんだけれど。


「……あれ、私、友達と遊ぶって言ったっけ…?」


消えただけでなく男の残した言葉に、もう青白いを通り越して土色に変わり果てているだろう、顔色を心配する余裕もなく。
私はキョロキョロ辺りを見回し、急に私に降りかかった意味の分からないストーカーに恐怖した。


◇◇◇


「何をしているんです」
「何って、愛の尾行だよ」

人様の屋根の上から、未だ青ざめて僕の姿を探す愛しい女の子を見ていたら、七海の面倒臭そうな声が後ろから掛かったから、僕は振り返りもせずに当然の如く答えた。
七海は一瞬言葉を失ったようだけれども、盛大な溜息を吐いて言葉を続ける。

「尾行に愛もクソもないでしょう。それは立派なストーカーです」
「ストーカーだなんて、そんな下品な事言わないでさぁ。僕は僕の守りたいものをただ見守っているだけだよ」
「セリフだけは一丁前ですが、教鞭を取っている人間とは思えない行動です」
「これも愛だよ」

くす、と笑って首だけ七海の方に向ければ、七海は自身の特徴的なメガネをくい、っと指で押し上げ、肩を分かりやすく下げた。
きっと僕に何を言っても無駄だと理解したんだろう。失礼しちゃうなぁ。

「愛でも何でも結構ですが、相手は一般人だということをお忘れなく」
「……一般人なんかじゃないよ。もう完全に、彼女は標的となった。もう二度と彼女は平穏な生活には戻れない」

視線の先の彼女がやっと、その場を後にする。
その足が何かから逃げるように走っているのは、きっと僕のせいじゃない。


「彼女にとっては、地獄の始まりだ」


まあ、それを守るのが王子様の役目だけど。

そう呟けば、背後で七海が盛大な溜息を零したのが分かった。

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