「……ごめん、月島くん。私、疲れちゃった」

そう言って今にも泣きだしそうな顔で、教室を出て行った名前。
完全に僕の足は止まったままだった。
いや、本当は追いかけようとした。
一歩前に足は出ていた。
なのに、心臓に走る痛みに許されるならその場に蹲りたくなった。

前に「嫌いだ」と言われた時と同じ、いや、その時よりもまるで僕を突き放すような言葉。
あの時は確かに一時的に距離は離れたけれど、それでも名前は合宿まで追いかけてきて、いつもの僕らに戻った。
今回は、何が原因だろう、と冷静に思考する自分に嫌気がさす。
考えなくとも分かっているのに。
そう、全ては僕の所為。

疲れた、その言葉の意味に気づかないほど馬鹿なつもりはなかった。

名前はとうとう僕を見放した。
手元にいることで満足だった。日向も蹴散らして、僕だけの事を考えてくれる名前に酷く安心していた。
僕は何もしなかった。
ただ名前の傍に居ただけだ。
新たに虫がつかないように目を光らしていたけれど、逆に言えばそれしかしてなかった。
名前に自分の気持ちを伝えることも、何も行動しなかった。
今から追いかければ間に合うか、なんて考えているのに止まったままの足。
その太ももを強く殴って舌打ちした。

追いかけたところで、名前の気持ちは僕にはない。
最後のプライドを捨てて、縋ったとしても。

これが、名前と最後。
嘘だ、そんなの許さない。

今更後悔しても遅いことは分かっているが、後悔が止むことはなかった。

結局、僕を探しに来た山口が教室に入ってくるまで、僕はずっと呆然と立ち尽くしていた。



◇◇◇



テニスの部活ばかりだった夏休みがやっと終わって、やっと月島くんに会える二学期が始まった。
月島くんと同じクラスなのに、あまり関わる時間が無いのは、月島くんがバレー部に入っているということと、やたら月島くんの周りをウロチョロする女子がいるから。
何度か釘を指したけど、あの子は平然とした態度で私に向き合った。
正直ムカツク。私がどんな思いで毎日同じ教室で過ごしているか知らない癖に。
だから、二学期になったら私は本気で奪いに行くつもりだった。
でも二学期が始まってすぐに噂が流れ始めた。

『月島が彼女と別れたらしい』って。

あの子は付き合ってないって言ってたから、厳密には彼女ではないのだけれど、この噂の彼女とはあの子の事だ。
最初は嘘だと思ったけど、それもすぐに信憑性を増した。
何故なら、月島くんの周りにあの子がいなかったからだ。
月島くんの周りには山口くんとバレー部の一年しか居なくて、どこをどう見ても、いつ見かけても、あの子はいなかった。
心臓が喜びで跳ねた。
やっと、邪魔だったあの子がいなくなってくれた。
どんな心境の変化があったかは知らないけど、もしかしたら、私がこの前呼び出したのが影響しているのかもしれない。
あの時は目を逸らしてこないあの子に正直引いてしまったけど、今は感謝する気持ちすら抱いている。

自分の容姿には自信があった。
部活の誰よりも、クラスの誰よりも、そしてあの子よりも。
今まで私から告白して断られたことはないのだから、邪魔が居なくなった今、余裕を持って距離を縮めて行けばいい。
二学期はじめの授業や、席替えでなるべく近くの席を勝ち取って。
話しかける回数を徐々に増やして、私をあの眼鏡の奥の瞳に映せれば。
それはもう勝ちが確定するのだ。

「月島くーん。ねえ、これからバレー部でしょう? 私、見学してもいいかな?」
「……」

放課後。
いつものようにバレー部に向かおうとする月島くんの背中に、なるべく甘い声を掛ける。
そうすればきっと無視することなく、反応してくれるはずだから。
我ながら策士だなぁ、なんてほくそ笑む。

くるりと振り返る月島くん。
その表情はいつもと同じように見えたけど、少し沈黙。
考えているんだろうか。だったら、もう少し揺さぶってみよう。

「月島くんのバレー、見てみたいなぁって。ダメかな?」

ここまで言えば断ることなんてしないだろう。
もう笑う事を隠すことなく、私は目を細める。
月島くんは何も言わない。まだ迷っているの?
あの子は新聞部だからと言ってほぼ毎日、見学していたのに。
そんな事を考えると少しイライラしたけれど、でももうあの子はいないんだから、気持ちを静めよう。

「ねえ、月島く…」
「うざい」

最後のひと押し、口を開いた私に平坦で冷たい声が発せられる。

「え?」

何を言われたのかすぐには理解できなかった。
だって、目の前の月島くんの表情はいつもと同じで。
私が声を掛けているというのに、そんな冷たい言葉を掛けるはずがない。

「君、うざいよ」

もう一度、月島くんはゆっくりと言葉を紡いだ。
幻聴だと思ったのに、一瞬で打ち砕かれた願望。

なんで、どうして。

どうして、月島くん。
そんなに冷たい瞳をしているの?