別にどうこうするつもりなんてさらさらなかった。
今までみたいに放置していても、何ら問題はないハズだった。
どうしても、目の前にいる女子に苛立ちを隠せなかった。普段なら絶対にそんなことはしないのに。
きっと名前がこの状況を見れば、後でブツブツと小言を言うだろうから。
でも、そんな事はもう二度と起こらない。
ただの八つ当たりだっていう事も理解している。ただほんの僅かでも名前が離れた原因に繋がっているのであれば、僕は容赦しない。
……自分が一番悪いって分かっているけど。

「何で…」

絶句。
テニス部だという女子の表情からは色が抜け落ちていた。
ざまぁみろと笑いたくもなったが、笑うよりも先に怒りが先走る。いつから僕は感情の制御が出来なくなったんだろうか。
きっと名前の所為だ。あの鈍感娘を相手にするには、多少感情が伝わる方が良かった。
今となっては、もっと分かりやすく言葉にしなきゃいけなかったんだけど。

思い出したように手の甲に走る痛み。
ああ、そうだった。感情の赴くままに近くの壁を殴ったんだった。
最後の良心で女子を殴ることだけは避けたようだ。いっそのこと殴ってもよかったのかもしれない。
だってこのテニス部の女子(名前すら頭に入っていない)は、名前の頬をぶったんだから。
僕に見せる心底心配するような表情。胡散臭いというのはこういうのを言うんだろうな。
その仮面の下はどれだけ醜いんだか。

女子は手首を掴まれたそれと、壁に衝突したそれを、目をキョロキョロと動かし確認する。
もう胡散臭い表情すら見せる余裕もないようだ。

「僕が何も知らないとでも思ってた?」

さも自分が何でも知っているような口ぶり。
だけど目の前の女子を震え上がらせるには十分だったらしい。
完全に言葉を失った女子は、するすると廊下の冷たい床にへたりこんでしまう。
そこでやっと僕は女子の手首を解放し、まるで汚いものを見る様に女子を一瞥する。

「名前に手を出したのが、間違いだったね」

口に出した声が自分でも分かるくらい冷え切っている。
全身をガタガタと震わす身体、怯えたように僕を見る目。
暫くじっと目を逸らさずに見ていたら、彼女は腰を抜かしたまま後ろへ後退し、そして「ひぃ」と情けない声を上げて、まるで生まれたての小鹿のような体勢で僕から離れていった。
女子が僕の視界から完全に消えた頃、僕はやっと重めの溜息を吐いた。


やっと理解してくれたらしい。あの女子は頭は悪くないんだろう。
ただどうせならもっと早く気づいて欲しかったけどね。僕の手が負傷する前に。

怒りのまま壁を殴ってしまった手首の甲を見つめる。
僅かに出血している様子を見て、怒りが冷めつつある頭で考えた。

「試合前に何やってんだか」

バレーの試合で怪我することはあっても、バレー以外で怪我をするなんて、持っての他だろう。
だけど、とてもじゃないけど自分が冷静でいられなかった。

名前の事になると、自分がこうなってしまうことに驚きを隠せない。

「……日向の事、言えないのが腹立たしいけど」

考える前に行動する癖はまさに日向だ。
傍にいたつもりはないけど、いつの間にか染まってしまったのか。
それは早急に改善するべき癖だ。

「まあ、勢いで好きと言えるくらい馬鹿になれれば、」


今も隣に名前がいたのかもしれないけどね。


止めていた足をやっと動かして、今更だけど体育館へ向かおう。
きっと僕の手の有様に気づいた日向達が馬鹿みたいに反応するんだろうと予想して、何と言い訳をしようかと考えを巡らせることにした。



◇◇◇



「え? 何て言ったの?」

お昼ご飯を食べようと、お弁当の巾着に手を伸ばした私に、隣に座る日向くんがいつも同じテンションで、同じ表情で言い放つ。
その言葉を聞かなかったことにしたら、日向くんは言った言葉を改めてくれると思ったけど、その考えは甘かったらしい。
ここ最近バレー部に顔出さなくなった私を見て、きっと日向くんはなんとなくわかってしまったんだろうと思う。
日向くんは数秒前と寸分変わらずに、呟いた。
私が話を逸らせないように、わざとそうしているんだと気づいた。
そして、私の反応を待っていることも。


「月島の事、嫌いになったの、苗字さん」


お昼休みでザワついているはずの教室。
なのに、雑多な声はその瞬間から聞こえなくなって、私と日向くんの声だけが耳に残る。
数か月前に、その声で「月島のこと、好きなの?」と聞かれた事を思い出した。
その時と違うのは、日向くんの表情。
あの時は、とても苦しそうで、今にも何かを吐き出したいようなそんな表情をしていた。
でも、今はそれとは全然違う。
ふと思い出したような、そんな程度の。
それが日向くんなりの気遣いなんだろうとは思うけど。


「…嫌いじゃないよ?」


だから、私はあの時と同じように答えるしかなかった。
嘘は言ってない。
嫌いになれればどれだけ楽か、身に染みて理解しているのに。
嘘でも「嫌い」と言ってしまえるくらい、気持ちが冷めてくれればいいのに。