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撫子伯母さん。
昔はそう呼んでいたような気がするけれど、もうはっきりとは覚えていない。
母が「なでちゃん」と呼ぶから自然と私もなでちゃんと呼んでいた。その度になでちゃんは「なでちゃんじゃなくて、伯母さんでしょう?」と優しく笑っていたのだ。
そうやって笑いかけてくれるのが嬉しくて、私はずっとなでちゃんと呼んでいた気もする。
でももう、長らくその名を口にはしていなかった。
なでちゃんが居なくなってから、ずっと。

「何で…なでちゃん」

なでちゃんは最後に見た時と同じ格好で、立っていた。
大好きな着物を着て、背筋をぴんと伸ばし、僅かに首を傾げて。
表情さえ、いつも通りだ。まるで太陽のような笑み。その笑みにどれだけ助けられたかわからない。
懐かしい気持ちが頭を独占していく。

わなわなと震える私に向かって、なでちゃんはにこりと笑って「どうしたの?」と何でもなかったかのように言う。
おかしい事は分かっている。
こんなところに居るはずもない人だという事も、なでちゃんはとっくにこの世の人じゃないという事も。
でも、あまりにもなでちゃんがなでちゃんだったから、もしかして嘘なんじゃないか、なんて。
本当は生きていて、ずっと私達を見守っていたのでは、なんて。
五条さんが私に嘘を言うはずないけれど、それだけ目の前のなでちゃんが本物のように見えた。

でも、本心では分かっている。

なでちゃんを見て、懐かしい大好きだと思う気持ちの奥底に、冷たい何かが湧き上がってくるのを。
昔は感じる事の無かった感情が少しずつ溢れ出てくる。
きっと今の私なら分かるはずだと分かっているのに、心が拒否している。
信じたくない事実を、見る事を恐れている。

「どうしたの、名前?」

びくりと私の身体が揺れる。
同じ声で、同じトーンで、呼ばないで。
自然と私は、笑うなでちゃんに目を凝らし、じっと見つめる。

見えた。

見えたくないものが。

なでちゃんの身体を取り巻くように、白い霧が渦巻いている。
そして、霧の中からぎょろっとした黒い目玉がこちらを見ていた。
ああ、そうだよね。
そんなわけなかったよね。

「……なでちゃん、」

私はベッドの前に出て、なでちゃんに向かい合う。
右手は自然とネックレスに伸ばしていた。
ぎゅっと石を握ると、手の中で石が熱を持つのを感じる。

「名前?」

名前を呼ばれて、私は唇を噛んだ。
耳から入るなでちゃんの声。
そんなものに気を許しては駄目だ。だってもうなでちゃんは、私の知るなでちゃんじゃない。


『死んだはずの人間が、生きていた時のように立っていたら、それは間違いなく化け物だよ』


五条さんのお家で晩御飯を食べていた時。
前に聞いたことがあった。前に行った病院での出来事のように、人間に化けられてしまったら、どうすればいいのか、って。
死んでいるのか生きているのか分からないくらい、普通にそこに居たらどうすればいいんですか、って。

そうしたら、五条さんは上記のように言ったのだ。
ぱくり、と私が作ったカレーを食べながら。

『本当は生きていた、なんて神様が起こしたような奇跡はないと思う事だね。大体は死んでる』

その言葉は酷く軽く聞こえたけど、五条さんの経験から言っていることは明白だった。
私はその時は、何と答えればいいか分からなかったから、何も言わずにカレーを食べ続けた。


本当にその通りだね、五条さん。


キっとなでちゃんに向かって鋭く睨みつける。
こんな事、今までなでちゃんにしたことなんて無かった。
でも、”これ”はなでちゃんじゃない。
なでちゃんであるはずがない。

「そんな怖い顔しないで。早く安全なところに行きましょう?」

一歩ずつ前になでちゃんが近づいてくる。
心の底から後退したいけど、私が逃げればきっとこの部屋にいる人たちは、死んでしまうことが嫌でも分かった。
そうはさせない。私はこの人達を助けるために、ここにいる。

パシュ、と私の顔の横に何かが飛んでくる。
が、それは頬を掠める前に黒い渦巻となって空中で停止した。
なでちゃんはその様子を見て、驚いた顔をしていた。

「あら?」

まるで髪を耳に掛けるような仕草をした瞬間。
なでちゃんの細くて白い手から、私の方に向かって無数の何かが鋭い速さで飛散する。
それらは私に当たる前に全部が空中で止まった。

私の身体の前にできた黒い渦巻から、ゆっくりと顔を出す大きな鋭い針。
それは、方向を変えて、なでちゃんの方へ一斉に発射されていく。

止めようとしたのか、なでちゃんの手が前に出てきたけれど、針たちは容赦なくなでちゃんの手を貫通し、その先の身体へ突き刺さっていく。
一瞬息を飲んだが、目を逸らさなかった。
まるで銃で乱射されたかのような音を立てて、なでちゃんの背中にあった壁は穴だらけとなる。
全ての針がなでちゃんの身体を貫通したのだ。

「なぁに、これは」

いつもと同じだった。
肌と着物を穴だらけにしているというのに、血が一つ出てこない。
それだけじゃなくて、いつもと変わらない声で、さも不思議そうに自分の身体を見つめている。
その異常な様子が気持ち悪くて、吐き気が湧き上がってくる。

「名前。あなた、何をしたの?」

ゆっくりと視線が私の目にあって。
そして、笑っていた表情が無になる。
ぞくりと身体が震えた。

それと同時に、私は安堵していた。

なでちゃんが、この現象を知らないはずがないからだ。
私の為に残したネックレス。
これは呪具だけれど、その効果をなでちゃん自身が知らないはずがない。

この呪いはなでちゃんのものだから。


もう目を凝らさなくても、よくわかる。
なでちゃんの周りに隠れていたはずの気味の悪い目玉。
そして、細い触手のようなものが穴の間肌からしゅるしゅると顔を出した。
なでちゃんの顔色が血色のいい色から、真っ白へ。

「とても酷い事をするのねぇ。”私”相手に」

なでちゃんの声に重なるように聞こえた、男の人のように太い声。
それは聞いたことがなかったけど、聞くだけで悪寒が走るものだった。

なでちゃんじゃない。
そうはっきりと分かってしまう。
怖くて足がすくみそうになる、でも逃げない。
後ろにいる人たちを置いて、逃げる事は出来ない。

「…どり、くん…虎杖くん…!」

無理だと分かっていても、助けを求めるために叫んでいた。
きっと二階の私の声は聞こえないだろうけど、このままじゃみんな死ぬ。
虎杖くんじゃなくても、伊地知さんでもいい。
誰でもいいから、早くこの場に来て。はやく、はやく。

この間にも触手の先から何かがずっと私に向かって飛来している。
それをネックレスの力で弾いているけれど、違う攻撃をされてしまえば、一巻の終わりだ。

「…ああ、そう言う事なの」

なでちゃんの姿をした、化け物。
それが私の足元の床に視線を落とす。

「貴女には当たらないのね、”あなた”には」

化け物の背中からひときわ大きな触手が私に向かって口を開ける。
そして、その口の中から出てこようとする太い針。
その狙っている先は、私の足元、床。
足場を崩そうとして、いる…?

嫌な予感が脳裏をよぎる。
まずいまずい、駄目だ。
慌てて寝ている化け物に背を向けて、ベッドで転がる人達を起こそうと揺り動かす。
だけど、やはり誰一人目を開ける事はない。

「さようなら、名前」

背後で聞こえる、良く知る声。
その直後、触手から吐き出された針は、二階の床に向かって飛んでくる。
この後に起こる事を予想して、私はぎゅっと瞼を閉じた。
せめて、この人達だけでも助かれば…。
覆うように彼らの身体の上に重なり、私は頭を屈める。

だれか、助けて。


次の瞬間。
世界が一瞬、無音となった。


最初に聞こえたのは、家が崩れる音でも、私の叫び声でもなかった。



「そこは、僕の名を呼んで助けをこう場面だと思うけど?」


自信ありげに、でも少しだけ焦ったような、私の大好きな声だった。

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