「はい、今すぐにでも」
「一体どうして…この前の事件の後でもずっと勤めてくれていたじゃないか」
「事情がありまして」
胡蝶しのぶという女性に会った次の日、私は喫茶店のオーナーに、辞めさせて欲しいと嘆願した。
それを聞いてオーナーは青ざめ、あの手この手で私を引き留めようとする。
私はそれに首を振り「事情がある」と答えるので精一杯だ。
そう、自分の命がかかった事情だ。
また来る、と胡蝶さんは言った。
まだ私に聞き足りないというような顔をして。
そう言われてしまったら、私がする事はただ1つだ。一刻も早くこの店から逃げ出し、彼女と縁を切ること。
さすがにこの店から離れればもう会うこともあるまい。
折角見つけた優良な勤め先だったが、命には替えられない。
「急にそう言われても…ただでさえ、雇っていた人達が皆出てこなくなったのに、苗字さんまで辞められてしまったら、お店は続けられないよ」
「本当に申し訳ないのですが…」
「せめて、次の人が来るまで続けてはくれないか」
「…うーん」
確かにオーナーにとっては、非のない事でお客さんが途絶え、従業員までも出てこないという事態で、気の毒ではあると思う。
今は私が殆どの日中に出ていることで、なんとか運営出来ているが、私が辞めればこの店がどうなるのか想像に容易い。
折角良くしてくれたお店、私もこの店が無くなるのを望んでいるわけではない。
「…次の方が見つかるまで、ですから」
「ああ、恩に着るよ、名前ちゃん」
私がそう言うと、オーナーは白髪の髪を揺らし、本当に安堵した表情でこちらを見た。
罪悪感で胸が痛む。
果たして、この状況が改善する時は来るのだろうか。
それまでには、無関係な人間になりたいけれど。
「鶴子さんはまだ出て来れないんですか?」
「若い娘さんで珍しく遅い時間から働いてくれていたけど、やっぱり怖いみたいだ」
「…まあ、そうですよね」
このお店は現代で言うシフト制だ。
歳の近い鶴子さんは基本的に夜勤務。
お嬢さんにとって夜遅くまで働くのは危ないと思うけど、いつもお家の人が迎えにきてくれるそうで、時給単価の良い夜に入ってることが多い。
でも事件の後で今までと同じように働くことは出来ないだろう。
その後はオーナーとなんとも言えない空気になって、そのまま店を閉めて家路についた。
帰り道にぐるぐると思考を巡らせて、必死に考えた。
色々思うところはあるけれど、一先ず考えるべきなのは、私が辞めるまでに鬼殺隊の人達に会った時は、どう逃げればいいか、ということ。
もう2度と、胡蝶さんに会わないために、その後ろにいる彼らに会わない為に。
◇◇◇
その日も普通に起きてきて、出勤する準備を整えて。
仏壇に願うは「どうか今日も無事に平和でありますように」という平凡な願い。
でもこの時の私は知らなかった。
この小さな願いさえ、叶わないことに。
「名前ちゃん、今日は店を閉める事にするよ」
店に着いて早々、オーナーの表情が暗いなと思ったら、開口一番がそれだった。
私はポカン顔でオーナーの悲しげな眼を見つめて小首を傾げる。
オーナーの手元にある新聞がくしゃりと握られた。
「何かあったんですか?」
口にしないままオーナーがこくりと頷く。
黙って私に潰れた新聞を寄越し、空いている客席に腰かけた。
私はいつものオーナーとは考えられない態度に戸惑いつつも、渡された新聞を開く。
最近の街の様子や流行のファッションなどの記事が並んでいたけど、小さなスペースに「神隠し、再び」の文字。
一瞬にして血の気が引いていく。
「向かいの雑貨店の娘さんだそうだよ」
はあ、と頭を抱えるオーナー。
新聞記事には名前しか載っていなかったが、年頃の娘さんが数日前から行方不明と書いてあった。
確かに掲載されている名前には見覚えがあったし、名前だけじゃなくて容姿まで頭に思い浮かぶほど。
そう言えば、数日前から雑貨店は閉まっていた。
店番をしながら、珍しいなと思っていたけれど、まさかそんな事になっていたなんて。
「1件目の時はただの偶然かと思ったが、立て続けに近所で事件があると、店は続けられない。何より、折角残ってくれた名前ちゃんの身が危険だ」
「でも…」
「いいから、今日はもう店を閉めたから、そのまま帰りなさい。決して、寄り道なんてしちゃいけないよ」
力なくそう言われてしまったけど、どう考えてもそんなオーナーを一人にすることなんて出来なかった。
特にオーナーは向かいの主人と仲が良かったから、ショックも大きいだろう。
自分の身に危険が迫っていて、キリキリと痛んだ気がしたけど、私は気づかない振りをして、厨房から牛乳を持ってきた。
2つ分のコップに注いでそれをオーナーの前に置くと、オーナーは小さな声で「ありがとう」と呟く。
私は、オーナーの向かいに腰かけて、ただ時が過ぎるのを待った。
時刻は夕方を過ぎたあたり。
オーナーが「自宅まで送るよ」と言ってくれたそのタイミングで、店の扉が乱暴に開かれた。
「咲江が! 咲江が見つかったらしい!」
大きな声で必死に叫びながら入ってきたのは、紛れもない向かいの雑貨店のご主人だ。
ここ数日見かけなかっただけで、頬がこけ酷く憔悴している様子だ。
「本当か!」と続いて立ち上がったのは、先程まで項垂れていたオーナーである。
とても今から自宅まで送迎してくれ、とは言い難い雰囲気に、私はオーナーに丁重にお断りをして、一人で家に帰ることにした。
オーナーからは引き留められたけれど、行方不明だったお嬢さんが見つかった事の方が一大事である。
私の事はいいから、と言えば「ありがとう」と言ってそのまま向かいのご主人と一緒に店を出て行った。
一人残された私は、店の前ではあ、と溜息を吐き日の沈む空を見上げる。
手荷物カバンをきゅっと握ると、そのまま自宅に向かって歩き始めた。
なんだか嫌な予感がするんだよね。
背筋が凍りそうなそんな予感が。
自然と足は早足になっていた。
◇◇◇
「ねえ、炭治郎。店ってここのこと?」
気の進まないまま、炭治郎と伊之助に連行され到着したのは、繁華街の喫茶店だった。
外観からは洋風な雰囲気漂う、落ち着いた佇まい。
鬼と何か関係があるかもしれないと聞いたけれど、俺の耳にはそれらしい音は聞こえてこない。
むしろ、人の音すら感じない。
「閉まってるみたいだけど」
「そうみたいだ」
「あぁ? だったら、無理やりこじ開ければいいだろうが!」
「馬鹿かよ! 中には人がいないのにそんな事したら、強盗だと思われるだろ!」
フンと鼻息荒く、店のドアを一蹴りする伊之助の肩を押さえ、溜息を吐く。
炭治郎は辺りをキョロキョロと見回して、様子を伺っているけれど、今この店には人がいないのは間違いない。
しのぶさんに言われてきたけど、遅かったみたいだ。
「なあ、誰もいないなら帰ろうぜ」
「善逸、まだ何も調べていないだろう」
「調べなくても分かるよ! きっと何もないし、鬼なんていないって!!」
「それは紋逸の願望じゃねーのか」
二人して俺に向かって呆れた顔を見せたその時だった。
俺の耳に入った小さな小さな、女の子の悲鳴。
へらへらと笑っていた表情が一瞬で固まった。
「…嘘だろ」
考えるよりも足が動いていた。
勿論、何かを感じ取ったのは俺だけじゃなかった。
炭治郎と伊之助が続き、一目散で同じ方向に向かって駆けだした。
それは、紛れもない鬼の気配。