女性のノートに文字を書き連ねる音を聞きながら、私は笑顔で口を開いた。
「丈先生に看てもらえるなんて。これで良くなりますね」
ちらりと女性へと視線を移す。
私は彼女の目が一瞬ぴくりと痙攣したのを見逃さなかった。
ああ、何かあるんだ。やっぱり。
我妻さんも違和感を感じ取ったようで「…だね」と一言呟いた。
女性は夜まで丈先生が戻らないため、その間に可能であれば輸血に協力して欲しいと言った。
確かにこの時代の輸血はとても貴重だろう。
それは良く分かっているけど、この人の雰囲気からはとても人助けするように感じ取れない。
無表情に近い顔から、何も読み取れない。
「あら、お怪我をされているのですか?」
視線を女性の腕に向けたら、着物の袖からチラリと包帯が覗いているのがわかった。
思わず口からそんな言葉が出ていたけれど、女性ははっとなりつつ顔を背ける。
お料理事をして指を切ることは良くあるけど、腕を切る事って何があるだろう。
しかも傷は深いようだ。
袖から見える包帯もうっすら血で滲んでいる。
「え、ええ。少し、」
そう言ってさっと腕を隠すように袖を伸ばす女性。
その傷と顔色が異常に悪いのと関係がありそうだな、と思いながら我妻さんに目配せをする。
だけど、我妻さんは廊下の方が気になるようで、後ろに首を持って行ったきり。
そう言えばさっき二階の階段を見てたよね。何かいたのかな。
「こちらには沢山患者さんがいらっしゃると伺いましたけど、私たち以外いらっしゃらないのですか?」
素知らぬ顔で女性に尋ねると、女性は「皆元気になって家に帰りました」という。
確かお団子屋の奥様は、一度皆帰ってきたが書置きを残して家を出たと言っていた筈だ。
私の予想が正しければ彼ら皆は“ここ”にいるんだろう。
それがどういう状況でなのかは、わからないけれど。
ただただ時間だけが過ぎていく。
今は一体何時だろう? 時計もない部屋で何も喋らない女性。
私たちも軽々しく口を開く空気でもないので、黙っていた。
部屋の中が薄暗いお蔭で、外の雰囲気が分からない。
そんな事を考えていたら、急に女性が立ち上がった。
「丈先生が戻ったようです。こちらでお待ちを」
そう言って、入ってきたドアから出ていく女性。
その時カチャリと鍵がかかる音がして、私と我妻さんの顔が凍り付く。
我妻さんが慌ててドアのノブに手を掛けたが、ガチャガチャとなるだけでドアが開く事はない。
しまった、閉じ込められた!
私は慌てて薬品棚の横にある窓に手を掛けたけれど、全く開かない上にこのガラス、中に針金が入っている。
これは簡単には割れないだろう。完璧に逃げ場を失った。
「うわぁああ! だから俺、入るの嫌だったんだよぉお!」
「うるっさいですね! それよりも考えてください!」
この状況にいち早く発狂した我妻さん。
彼の恐怖心は先ほどからドンドン悪い方に悪化している事は分かっていた。
でも、このまま恐怖に震えていたら、私たちは今日、鬼のディナーと化してしまう。
どうしよう。考えて、考えて。何か、打開策を。
私も背中に変な汗が伝っていくのがわかった。
人生の中で一番の危機的状況。必死に頭をフル回転させる。
何か、ここから出る手は…。
ギシ、と床板が軋んだ。
ふと視線を下に向け、床板へ注目する。
薬品棚で隠されているが、床下収納らしき扉があるのを見つけた。
「我妻さん! これ、どけて下さい!」
「無理無理無理、俺ここで死ぬぅぅ」
「早くしてこの馬鹿!」
泣き叫ぶだけで全く役に立たない彼の頭をポカポカ殴って、薬品棚へと誘導する。
情けない涙を流しながら、我妻さんは薬品棚に手を伸ばす。
ぬうう、と汚い声を上げて、必死に棚を動かそうと全身を使う我妻さん。
途端、廊下を歩く足音が私の耳に入った。勿論、我妻さんの耳にも。
誰か来る、やばい。
「ぎぃやあああ! 来た来た来たぁぁぁああ」
恐怖で頭が一杯の我妻さんが叫ぶ。
その叫びと同時に薬品棚が前へと倒れ、中から薬品ガラスが飛び出してきた。
それにより床板の扉が顔を出す。
顔が真っ青で汗まみれの我妻さんが、震える手で扉を持ち上げる。
「早く、入って! 名前ちゃん」
「はい! 我妻さんも」
私が言い終わらない内に廊下へと続くドアがズシンと振動する。
あ、と思った時には素早く我妻さんに床下へと投げ込まれ、扉が閉じられた。
「あ、我妻さん! 我妻さん!」
閉められた扉をドンドン叩いても、上から我妻さんに押さえられているのか全く反応しない。
小さな悲鳴と荒い呼吸が聞こえている、それは我妻さんのものだ。
私だけ逃がすために。
ダメだ、このままでは、我妻さんが死んじゃう!
「ひぃい!」
ドアが吹っ飛ぶ音が聞こえて、上から我妻さんが叫ぶ。
私は血の気が引いていくのを感じた。
鬼が入ってきたんだ……。
さらに力を込めて扉を叩く、何の反応もない。私は、無力だ。
「あん? 女はどこ行った?」
男の人のような声が聞こえた。
普通の人間の声じゃない。低く唸るような、獣に近いそれは私が想像していたよりも、耳障りが悪くて恐怖心を煽った。
「おい! 女いねえじゃねえか!」
酷く、苛立ちを含んだ声色だった。
その言葉が聞こえたあと、女性の声で「きゃああ!」と悲鳴が響いた。
先程の女性だろうか。何か、あったの?
「や、や、やめろぉ…女の人に手を出すなっ…」
我妻さんの震えた声が聞こえる。
その感じからどうやら女性は鬼に何かされたんだろう。
鬼の興味が我妻さんに向いたと思う、さらに「ヒィィ」と小さく悲鳴を上げてる我妻さん。
だめだ、このままじゃ我妻さんが死んじゃう。ここを開けて欲しい、でも開かない。
どうにもならなくて涙が零れてくる。
私が言い出したから、私が着いてきたから。
私の所為で、我妻さんが死んでしまう。
いやだ、それだけは。誰か、助けて。
あの人を、助けて。
バタン、と扉の上で何かが倒れる音がした。
一瞬間を置いて、鬼の笑い声が響く。
「コイツ、気絶しやがったぜぇ」
頭に血が上る、目の前が真っ白になった。
嘘、嘘。
だめ、だめ。
我妻さん、起きて。寝ちゃダメ!
扉を更に叩いてもびくともしない。
右手にぬるっとした感触がする。
強く叩きすぎて自分の手から血が出てるのかもしれない、でもそんなことはどうでもいい。
我妻さん、我妻さん!
「女の方は、ゆっくり探すとするかァ。嬲って苦しませてから食ってやるよ」
ドン、ドンと重厚感ある足音がこちらに近づいてきている。
もうだめだ。このままじゃ。
最悪な光景が頭を過ったその時。
扉が急に軽くなりキィと音を立てて開いた。
まるで上に乗っていたものが、取り払われたように。
少しの隙間から目だけを出すと、倒れていたと思っていた我妻さんの足が見えた。
我妻さんが、起きた!
ゆらりとゆっくり立ち上がった我妻さんの前には、角の生えた巨体の鬼。
どことなく白衣を身に纏っているように見えるから、この人が“丈先生”だったんだろう。
我妻さんの身体との差に私は驚愕する。
あんな大きい鬼、初めて見た。本当にあの太い首が、切れるのだろうか?
声が漏れそうになるのを、慌てて口元に手を当てた。
我妻さん、逃げて……!
「守るよ」
力強い、芯の通った声が上から降ってくる。
「ぜん、いつさん」
私の声は弱々しくて、彼の耳に届いたかどうかわからない。
彼が、我妻さんが前傾姿勢をとり、日輪刀へと手を掛ける。
すうっと息を吐く音が聞こえた。
「雷の呼吸」
周囲の空気が変化する。
ビリビリと感じるそれに、私はただただ目を見開く事しかできなかった。
「壱ノ型 霹靂一閃」
穏やかな声だった。
瞬間、目の前にいた筈の彼は、目の前から消えて。
更に前にいた筈の鬼は、首が宙を舞っていた。