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 髪型を変えた、だとか。年頃の話題には疎いほうだ。変えたと言っても、微々たるものがほとんどで。どこが違うのか相手が言うまで分からず、不機嫌にさせてしまったりもする。あたしは細やかな気配りに欠けているのだ、と思っているつもりだった。最近、アニの顔色が悪いのに気づきさえしなければ。
 化粧品で隠そうとしていても、ただでさえ肌が白いアニには隈が目立っている。ああ見えてアニは人を観察しているのに、ぼーっとしている姿もよく見るようになった。寝起きの機嫌がすこぶる悪いのは、あたしのせいかもしれないけれど。極め付けに、夜間の外出だ。これが発覚したのはつい最近だった。ハンガーの位置が夜と変わっていることもあり、睡眠を犠牲にして待ってみたのだ。そのうちの何日か、アニは一晩中横にいた。日常生活で異常をきたし、教官に怒鳴られる回数が多くなってきて、やめようかと思い始めたある日のことだ。指に爪を立てて眠気を堪えていると、みんなが寝静まった真夜中になってアニが体を起こした。ジャケットすら着ないで出ていくアニの背中を見送る。数時間後、空が青白くなって鳥が囀り始めた頃にアニは戻ってきた。夜の闇が幕を引いていったお陰で、こっそり盗み見れたアニの表情は疲れ果てていたのだ。何をしていたのか、と問う気分にもなれなくて、ベッドに入ってきたアニの横で狸寝入りを続けた。

「ま、また四人で星空とか眺めたいね!夜間の外出って規律違反だっけ?」
「私はそんなリスクを冒してまで眺めたくない」
「だよねー……」

 翌朝のアニにそれとなく外出について聞いてみたけれど、望んでいた答えはなかった。むしろ、自分が寝不足でフラフラだ。立体機動術では模型に掠りもしない、座学は何一つ頭に入ってこなかったし、対人格闘は散々で投げ飛ばされた地面の上で寝てしまうところだった。一人では体力が持たない。夜間に活動して、訓練を難なくこなしているアニとの差をまざまざと思い知らせられる。誰か相談できる相手でもいたらいいのだが、他の人にアニの様子を聞いてもあたしと同じような反応は得られなかった。相談と言えば、同郷の二人に相談を持ちかけはしたのだが。

「アニの様子?普通だぞ」
「夜に一人で外出してるみたいなんだよ。二人は何か知らない?」
「すまんが、知らないな」
「ベルトルトは?」

 ライナーの隣にいたベルトルトは首を横に振っている。同郷の二人も知らないだなんて。アニは一体何をしてるんだろう。

「そっかぁ……」
「それにしても、規律違反か。全く、兵士とは何たるかが足りない奴だ」

 ライナーが腕を組んで眉を顰める。同意を求められたベルトルトも、冴えない顔で頷いていた。あたしよりアニに詳しいはずの二人への事情聴取も芳しくない結果で終わってしまったのだ。

「おい、まさか死んだんじゃねぇよな?」

 頭に振ってきた意地悪な声はユミルのものだ。ならず者で地面に叩きつけられたものの、横になっただけで眠気に誘われていた。うとうとしたまま、突っ伏しているあたしは痺れを切らしたユミルに足先で突かれる。

「どうせ死んじゃいねぇんだから、さっさと起きろ」
「うん……」

 あたしは睡眠を十分に取らないと動けないタイプの人間だ。短時間で一日中動き回れる人間もいると聞くが、あたしからしたら信じられない。ユミルが舌打ちするくらい、怠慢な動作で起き上がった。

「やる気あんのか?ねぇのか?」
「ある、よ」

 なんでユミルと組むことになったんだっけ。思考に耽ろうとして、すぐ分かった。ユミルはクリスタに対して手加減ばかりするらしく、クリスタ自身がユミルとは組まないと宣言して別の所へ行ってしまったのだ。虫の居所が悪いユミルの目に留まったのが、組む相手を探しているあたしだった。
 ユミルに声をかけられるのが珍しくて承諾してしまったが、組んだ後ならわかる。ユミルは対人格闘術を本気でするつもりがなくて、ジャンが得意なそれっぽいことをしていたい。寝不足なあたしが全力で飛び掛かってくるのを、軽くいなせばいいだけだ。

「っはは!んだよそれ、攻撃してるつもりかよ」

 ユミルがあたしの動きで声を上げて笑った。足が上がらなくて、蹴りがまるでただの足払いだ。睡魔が瞼の上にのしかかっているかのようで、頭の芯を削り取ろうとする頭痛も強さを増していた。遂には、木剣が手から滑り落ちて転がる。拾おうとしゃがむのすら一苦労で、木剣に伸ばした手はユミルの足によって遮られた。

「ユミル、足どかしてよぉ…」
「どうだろうな。教官も回ってこないし、しばらくはこうしてるか」

 懇願しても素直に飲み込んでくれるとは考えていなかったので、膝をつくのをやめて休憩の姿勢に入る。すっかり胡座をかいて空を仰いでいるあたしが気に食わないのか、ユミルはやれやれと苦労人ぶって首を振っていた。

「やる気がねぇなぁ」
「ごめん…」

 ベルトルトの寝相占いは晴天だったな、と頭の片隅で考えながら瞼を閉じる。真っ青な空と程よい日差しが眠気を誘った。涼しげな風が頬を掠めて、心地よい。

「サボってんじゃねぇよ」

 組み合っている同期の掛け声が遠くに聞こえてきたところで、頭がズシっと重くなった。首だけでは支えきれない負荷が掛かり、逃れるように体を前へ倒す。見上げると、あたしの頭を膝置きにしていたユミルがいた。

「あだだだっ!おも、重い!」
「サボってぶっ倒れてる奴には私の膝置きがお似合いだろ。光栄に思え」

 ユミルの全体重を乗せられて、前屈みになりながら声を上げる。地面に手をつき、抵抗を試みるが、思うように力が入らない。数秒後、ぐえと汚い悲鳴をあげて倒れ込んだ。

「ユミルも、サボりなのに……」
「私とお前を一緒にすんなよ。お前が木剣を拾わないから仕方なーく、暇潰してんだ」

 額から倒れた拍子についた砂利を零しながら顔を上げて、抗議するも言葉巧みにかわされる。悪どい顔をしたまま、嫌な笑みを浮かべているユミルの言葉に突っ込む気力は続かなかった。このまま地面に突っ伏して、野晒しの状態で寝てしまいたいのを堪える。ふらつく足に軸を入れるつもりで、立ち上がった。

「今度は、ユミルがならず者ね」
「おいおい、まだやんのか?人様に見せられねぇ顔してんぞ」

 地面に落ちている木剣を指差しながら、構えたら、ユミルがゆらりと立ち上がったあたしの顔を見て不快そうに皺を寄せた。そこまで酷いんだろうか。目を擦ったり、髪の毛についた砂埃を払ってから、もう一度向き直ってみる。ユミルの顔は変わらなかった。

「ただでさえ変な顔を悪化させて、クリスタを怖がらせるんじゃねぇよ」

 拾った木剣の先を突き付けられる。そんな、化け物みたいな顔面になっているだろうか。隈ができているのを同室の子に指摘されたので、アニのように化粧で薄めたつもりだったのに。

「ひどい?」
「見せられた私が慰謝料を貰いてぇくらいにな。気になることがあんならさっさとどうにかしろ」

 頬をかきながら聞き返してみると、思わぬ言葉をユミルが口にする。心底面倒臭そうな表情ではあるが、あたしには背中を押してくれているように感じた。

「寝不足でうろうろされたら、こっちが迷惑なんだよ」

 チッと舌打ちをするユミルがあたしを睨みつける。ユミルの言葉通りだ。アニに何も聞こうとせず、ただ時間だけを消費していた自分が馬鹿らしく感じた。今日の夜。余計な詮索はやめて、真正面からアニに問いただしてみよう。

「ユミル、あたしやるよ!」
「は?」

 感謝の意も込めて決意を伝えたつもりだったのだが、ユミルからは何言ってんだこいつ、と言いたげな目を向けられて、さっさと距離を取られる。言葉選びを間違えたあたしが手を伸ばしたまま固まっていると、通りすがりのマルコが励ましてくれた。
 アニが出掛ける日には規則性があり、あたしの予想が合っていればそれは今日だ。夕食を済ませて、誰よりも早くベッドに入った。弾力のある寝具が疲労を吸収して眠気を誘うが、睡眠不足の状態で一度目を閉じたら朝まで起きれない自信がある。いつも通り、指に爪を立てたり、壁のシミを数えたり、キース教官が怒鳴る姿を思い出して耐えた。やがて同室の人間が寝息を立て始める。入団初日、一人で寝るのが怖くてアニにねだったな。月光で輝くブロンドを眺めながら、目を細めていると、アニの体が動き始めた。ジャケットは着ないまま、部屋から出て行く姿を見送る。廊下にアニが出たのを見計らって、あたしもベッドから躍り出た。
 部屋で呼び止めて、同室の子たちを起こすわけにはいかない。一体どこへ向かっているのか、という好奇心もあり、人がいなさそうな場所へ出たら呼び止めようと考えた。暗闇の中でブロンドはよく目立つ。尾行なんて人生で一度もしたことがないけれど、見失う心配はなさそうだ。覚束ない足取りで物音を立てないように細心の注意を払いながら、アニの背中を追った。
 まるで、暗闇でも目が見えているみたいにアニは迷いなく進んでいく。置いてきぼりになりかけながらも、木造の宿舎から出て行ったアニを追いかけた。慣れない尾行で神経を張り詰めているからか、木造の床が軋む音がやけに大きく聞こえる。宿舎の扉に手をかけて、窓の外を覗いた。

 アニがいない。

 左右を見ても人影はなく、煙のように消えてしまったようだ。隙間風が体を冷やして、鳥肌がたった。他の人に音を聞かれないよう、ゆっくりと出入り口の扉を開ける。静かに扉を閉めようと、手を離した。

「ッんー!?」

 背中に何か当たったと思ったら、腕を纏められて口を塞がれる。急に引き伸ばされた筋肉が痛み、モゴモゴと言葉にならない声を上げた。目を見開きながら、状況を確認するが、自分を拘束している人物は伺えない。体の力が抜ける。慣れない鼻呼吸で息を吸って、吐いた。生理的な涙が頬をつたう。雲で隠れていた月が夜空に浮かび上がるのが見えた。

「あんたは…」

 月光が空から差し込んで、あたしたちを照らす。聞き慣れた声が耳元で聞こえ、体を離された。その拍子に前のめりになる。体制を立て直し、膝に手をついた。ケホケホと咳をして呼吸を整える。顔を乱暴に拭った先で浮かび上がったのは、アニの姿だった。攻めるような目つきを前にして、挙動不審にまごつく。当たり前だ。尾行されるのは心地のいいものではない。体の節々が痛むよりも、アニの気持ちを考えず、行動したことに後悔した。

「それで?聞かせて貰うよ」
「ごめん…」

 言い訳は目立たない宿舎の影に移動してからにした。宿舎の前で堂々と話していたら、いつ見つかってもおかしくない。アニによると夜間の巡回はないらしいが、念のためだ。なにより、長丁場になりそうだから。
 想像とは違う形で、アニと一緒に星空を眺めることになってしまった。壁にもたれかかっているアニの前で、怒られた子供みたいに小さくなる。

「つまり、私が夜な夜な出て行くのをあんたは見つけて尾行しただけ?」
「は、はい」
「……はあ」

 アニの体調が悪そうなので、原因を探したら夜にいなくなるアニを見つけたこと。今日こそ問いただそうとして、尾行していたこと。事の顛末を全部白状した。アニは最初こそ怖い顔をしていたのだが、話していくほど表情が崩れていって、最終的には眉間を抑えていた。

「気分悪いよね。ほんと、反省してる……」
「尾行は大した事じゃないから、どうでもいい」

 無断で尾行したことでアニの表情を曇らせてしまったのだと思っていたのに、軽く一蹴されてしまう。思いの外、無関心そうな声を聞いて安堵しつつも、頭を恐る恐る上げた。下から眺めるアニは、憂いを含んだ瞳で星空を眺めている。
 
「そ、そう?」
「深刻に考えた、私がバカだった」
「アニはバカじゃないよ」

 天を仰ぎながら紡がれた脱力感のある言葉に反論する。アニがバカだったら、あたしはどうなるんだ。バカ以下の家畜。いや、家畜以下かもしれない。
 
「ちょっと黙って」
「あ、うん」

 余計なことを言ってしまったようだ。怖い顔をしたアニに凄まれ、大人しく口を噤む。アニが自分の額を確かめるよう、こつりこつりと叩いたりしているのを何も言わずに待った。考え事が整理されたのか、崩れていた前髪を横に流したアニは改めてあたしに口を開く。

「アイツらにも聞いたんだって?」
「ライナーとベルトルト?うん、だけど何も知らないって言ってたから……」
「へぇ」

 何か含みのある言い方に疑問を感じながら答えていくと、アニは嘲笑を含んだ声で返事をした。気に食わなさそうな言い方はあたしが知らないところで何かあった風だ。
 
「二人とも関係あるの?」
「いいや、私が気になっただけさ」

 なんだか納得がいかなくて表情も曇ってしまう。開拓地であの三人が大喧嘩しているのは見たことがないけれど、大切な三人には仲良くいて欲しいと願ってしまうものだった。
 
「いつも、どこ行ってるの?」
「あんたには関係ない」

 アニからは聞き出せないと判断して、話題を変えてみる。連日気になっていたことなのだが、ハッキリと距離を取られてしまった。拒絶の意思をこうも見せられれば、あたしも踏み込めない。
 
「あ、あのさ!もうちょっとだけ自分を労わるっていうか……」

 あたしは食い下がらなかった。ここ数日で、睡眠不足がどれだけ苦しいのか身に沁みたのだ。慣れているアニはあたしほどじゃないかもしれないが、確実に疲労は蓄積されている。
 
「できるなら労りたいよ、私だってね」
「それなら」
「無理なんだよ」

 アニは低い唸り声であたしに告げると、瞳孔を縮ませて威嚇するように睨んだ。視線が交わったのは少しだけで、あたしが声をあげられないでいると、宿舎とは逆の方向に歩いていってしまう。建物の影から出たアニの体が、ぼうっと月明かりに照らされた。
 
「あんたさ。最近ぼんやりしてたのは元々じゃなくて、睡眠不足だったからなんでしょ」
「そ、その通りだけど……」

 後ろを慌てて追いかけようとして、振り返ったアニと目が合う。変化に気づいていたのはあたしだけじゃなかったらしい。アニの言葉が図星だったあたしはドキリ、と心臓が跳ねさせた。
 
「他人を心配する前に自分を振り返ったらどう?」

 地面を踏み締める音が遠くなっていくのに、後を追おうとは思えず、宿舎の影で立ちすくむ。名前を一言呼ぶだけでもいい。それなのに、声が出せない。喉がつっかえてしまったみたいだった。
 
「今のあんたに心配される筋合いはないね」

 身を削りに行くアニを止められるのは、あたししかいないのに。この役目が世界で一番似合わないのもあたしだ。建物の影で亡霊のように突っ立って、アニが夜の闇に消えていくまで一言も発せなかった。
 終に、アニが何をしているのかも、止めることもできず、あたしは宿舎に戻ってきた。唯一上手く行ったのは、宿舎に出るまでだったな。自身の不甲斐なさに落胆しながら、自室へ向かう。帰りの足音で誰か人を起こしてはいけないので慎重に歩を進めていると、視線の先でないはずの灯りが見えた。お手洗いだろうか。静寂を保たなければいけないのは変わりなく、できるだけ物音を立てずに自室へ向かっていく。灯りが、こちらに近づいてきているようだ。こちらには、手洗い場はないはず。夜間の巡回をしていた教官に、屋外へ摘み出される想像が脳裏を過った。身を固くして隠れられる場所がないか探すも、あたしがいるのは一直線の廊下だ。悩んでいる間にも、灯りは距離を詰めてきている。後ろ向きでじりじり下がるけれど、限界だ。灯りが一歩前で揺れていた。闇に慣れてしまった目が、光に当てられて手で覆い隠してもチカチカする。
 眩しさが治った目を開けた先にいたのは、恐ろしい形相で佇んでいる教官ではなく、二つに結われたおさげだった。

「み、ミーナ!?なんでこんなところに?」
「ノエル、しーっ!声、声!」
「ご、ごめん……」

 まさか、ミーナがいるとは思っていなかったので驚いて大きな声が出てしまった。人差し指を立てたミーナに慌てて嗜められ、ハッと声を潜める。運よく誰も目覚めなかったようで、静寂を取り戻した辺りから物音は聞こえない。こんなに心臓が縮み上がったのは、アニの関節技を喰らって腕が骨なしみたいになった時以来だ。ほっと一息ついているあたしに疑いの目を向けながら、一体何をしていたのかとミーナが問いただす。
 
「手洗い場に行く途中で、窓の外にいるノエルを見たからね!一人で何をしてたの?」
「アニと話してたんだ」
「アニ?」

 窓からはアニの姿を伺えなかったらしく、ミーナは小首を傾げている。不思議がっているミーナを前に、あたしはアニが夜間に外出していることを相談するのが良いかどうか悩んでいた。ミーナ・カロライナという人物は分け隔てなく人と接していて、同室であるあたしもその中の一人だ。少し話せば、その人柄が良いことも分かった。彼女はすぐに教官へ報告したり、言いふらしたりしないだろう。友だちだとあたしは認識しているけれど。アニが同郷の二人にすら隠し通していたことを、果たして真面目に取り合って貰えるだろうか。

「悩み事があったら、私でよければ聞くよ?」

 ミーナの気遣いに溢れた一言で、うじうじと悩んでいたことが吹き飛んだ。一人じゃ大したこともできないのに、どうにかしようとするのはあたしの悪い癖だ。ここはミーナの優しさに甘えよう。誤魔化そうと笑みを浮かべていた口を閉じて、あたしはアニとのやり取りを話し始めた。

「――そんなこんなで、振られちゃって……」
「あちゃあ……だから、最近フラフラしてたんだ」

 自室に戻ったあたしは、ミーナのベットで腰掛けながら先ほどまで起きたことを説明していた。掛け布団が乱れたまま、空っぽになったアニのベットを眺めながら、物悲しさが胸に湧き上がってくる。どうしようもない出来事を話している間、ミーナは相槌を入れながら聞いてくれた。肩を落としていると、あたしの背を励ますように叩いてくれる。

「正直。私もアニと同じ意見だわ」

「人の心配する前に自分は?ってなる」とミーナの言葉が非常に痛いけれど、耳を塞ぐ訳にもいかない。誰にも相談せず、突っ走った結果がこれだ。乾いた笑いを浮かべながら、自分の惨状を振り返る。アニにちょっとでも休んで欲しくて、それを伝えるために自分の体調を崩した。何をやってるんだか。アニに自分の状態を指摘されて、彼女を止める言葉すら発せなかった。

「でもさ。それでアニが苛々するのは、ノエルが大切だからだよ」
「うん……」

 どんなに呆れ顔をしても、鬱陶しいことをしても、隣にいるのを許してくれるアニが好きだ。言葉で直接伝えられなくても、これだけ一緒にいれば行動だけで読み取れることは多くある。アニは本気で嫌っている相手と並んで食事を取ったりしない。何の利益もないのに、自分の感情を押し殺したりなんかしないと知っている。自主練で食事の席を確保できないと、一人分の空間を空けてくれる。その優しさは、あたしに向けられたものだ。アニの不器用な優しさを受け取れるあたしが、物凄く幸福なのも知っている。
 
「どうでもいい人相手にそんなこと言わないもんね。私なら放置する」
「アニはあたしがすっごい好きだからさ」

 本人には何十回と言った言葉が、他人となると照れくさい。表情を伺われないよう、膝に顔を埋めて隠す。側のミーナはそんなあたしを見て、くすくす笑っていた。
 
「あははっ、分かる。アニって対応変わるから」
「ちょっと雑になるんだよね」

 誰にでも無関心で冷たく思われがちなアニだけど、細やかな気配りをよくしている。対人格闘術でアニの動きを盗みたいと申し出た兵士が豪快に投げ出されていたものの、受け流すような仕方だった。アニとしては手早く終わらせたかっただけかもしれないが、付き纏われないよう立ち上がれなくしたっていい。なのに、本気で殴り合おうとしないのだ。
 あたしと言えば、訓練兵団へ入団したらアニに教えてもらうつもりだった。対人格闘術が始まった一日目、一番に申し込んで訓練兵の中で一番先に投げ飛ばされたのだ。そこに一切の手加減はなく、あたしは数分意識を飛ばして起き上がったあたしに、あんたに教えるつもりはない、と一言。擦り傷のみで済んだのは、アニが力加減を調節していたからだろう。
  
「投げ飛ばされてるのとかって、手加減されてるの?」
「めっちゃ痛いよ。関節が外れたことある」

 抱きつこうとしたり、あたしが安易に触れようとしたり。あたしが何かやらかして、腕を捻りあげられる痛みは尋常じゃない。変な風に飛びついて体から変な音が鳴った経験もあるが、手加減をしなくて良いくらいに心を許してくれているんだろう。そう思えば、ほんの少しだけ痛みが軽くなった。絶対に揶揄われるのでユミルやジャン、コニーあたりには話すつもりはないのだが。
 
「ええっ、関節は?」
「アニが入れてくれた」

 関節が外れたのは、あの一度だけだ。何が起こったのか分からない内に、信じられないような手際でアニが元に戻してくれた。しばらくはライナーやベルトルトが率先して重い物を持ってくれたりしたのを思い出す。アニもさりげなく外れた肩を気にかけてくれた。
 
「そこだけ優しいんだ」

 友だちに関節を外された、脳裏で文字に起こしてみると喜劇の題名になりそうだ。ミーナもアニの不器用さがおかしかったらしく、声をあげて笑っていた。あたしも吊られて口角をあげる。
 
「まずは自分の体調を整えてさ。アニに言ってやりなよ」

 窓の向こうに浮かぶ月は傾き始めていた。ミーナが再び、背を叩いて激励してくれる。お互いのベッドに戻り、布団から顔だけ出す。未だ空っぽのベッドの向こうで横になっているミーナにお礼を言った。
 
「ミーナ、話を聞いてくれてありがとう」
「いいよ、面白かったし!」

 あたしに睡眠時間を削られたにも関わらず、ミーナは屈託のない笑顔を見せてくれた。おやすみ、と最後に告げあって布団を被る。枕の埃くさい匂いをいっぱいに吸い込んでいると、あたしが夢に取り込まれるのはあっという間だった。


 あたしはミーナの言う通り、回復に専念していた。朝はよく食べ、夜はしっかり眠る。たった数日でも、その効果は眉唾ものだった。睡眠がどれだけ人間に必要なのか理解したと同時に、やはりアニが気にかかる。突撃した翌日の朝は何事もなかったのようにしたので、あたしとしてはほっとした。アニの隈は以前暗いままで、短時間の睡眠に慣れてきてはいるが、体が追いついていないようだ。
 あたしが完全回復してから、頃合いを見て想いを伝えてみよう、そう考えてはや一週間経った。寝不足はすっかり回復して、ユミルに弄られることもなくなっている。成績は変わらず、アニとの関係も相変わらずだ。普段通りに過ごしてはいるけれど、伝える勇気が出ないでいた。しつこいかもしれない。今度こそ、嫌われたら。決心してからすぐに言ってしまえば良かったものを、何かと理由をつけて裂けてしまっている。今日も一緒のタイミング、誰一人起きていない早朝で目を覚ましたというのに、アニのパーカーの色違いを買ってお揃いにしたい、なんてくだらない話をしていた。お揃いは普通に拒否された。

「例の件、言えた?」

 あれから何かと気にかけてくれるミーナへ首を横に振る。額に手を当てて、呆れているミーナから逃げるように視線を逸らした。顔を動かした先に、言い合いをしているエレンとジャンがいた。

「死に急ぎ野郎と一緒だと?!誰がこんなイカれた班分け考えたんだよ」
「こっちのセリフだ。お前なんかといたら腕が鈍っちまう」

 堂々と噛みつき合っている二人を班のメンバー全員が苦笑しながら見守る。朝の食堂でもピリついていたのに、一定の熱量を保ったまま喧嘩できるのは二人ぐらいじゃないだろうか。
 
「あの二人を一緒にするのは、私も反対。ミカサ……せめてマルコあたりを入れてくれれば良かったのに」
「ほんとね」

 切実なミーナの言葉に、心から大きく頷いた。
 あの喧嘩が止まるのには大抵のパターンが決まっている。ミカサがエレンを宥めてジャンが何も言えなくなるか、興奮しているエレンをアルミンが落ち着かせ、うやむやになるか、マルコが割って入ってジャンを止めるか。今回はそのどれにも当てはまらない。教官の口から告げられた班には、抑止力だけすっぽり抜けていたのだ。
 
「二人とも。喧嘩で体力使っちゃって、最下位にならないようにね」

 親切心から言ったつもりだったのだが、エレンはともかくジャンにはそう捉えられなかったようだ。あたしに忠告されたのが気に食わなかったらしく、目を吊り上げたまま突っかかってきた。
 
「こっちからしたらお前に聞きたいぜ、ヘタクソ。エレンもお前も足引っ張んじゃねぇぞ」
「ノエルはテメェと違って自主練してんだよ」

 どう言い返そうか思案していると、思わぬ援護射撃があった。庇ってくれるのは嬉しいが、このタイミングでは火に油を注いだようなものだ。

「いつまでもヘタクソ呼ばわりしてんじゃねぇ」
「い、いいよ!ジャンからのあだ名みたいな感じだし!」
「あだ名だったとしても、もっとマシなのがあるだろ。お前が良くても、オレが気にくわねぇ」

 顔の横で手を振って必死に平気だとアピールするも、エレンの心情は変わらなかった。冷や汗をかいているあたしの肩を叩いて、怖い顔をしているジャンに向かっていく。隣にいるミーナに助けを求めたが、やれやれと言いたげな表情で完全に諦めている。周囲にいる同期は、ミーナ以外付き合いが薄い。喧嘩を面白がっている人もいるし、どうしようもなかった。

「内地に行きたい腰抜けが、よく言えたもんだよな?ははっ笑えるぜ!」
「調査兵団に入って、わざわざ死にに行くお前の方がよっぽど馬鹿で笑えるけどな」

 一発触発の煽り合いが始まってしまった。皮肉混じりで笑い飛ばしたエレンにジャンがすかさず応戦する。エレンは調査兵団に憧れを抱いているらしいので、そう言う話は御法度だ。ジャンも重ねてきた経験を活かして、エレンにとって耳障りな話題を選んで挑発しているようだった。
 
「っんだと!?」
「事実を言っただけだぜ、俺は」

 見事、策略に嵌まったエレンが歯軋りをしながら、威嚇する。言葉を巧みに使って優位なジャンは余裕がありそうだ。
 
「もう一回言ってみろよ」
「やるんならやってみろ」 
「ストップ!ストーップ!」

 エレンが体術の構えに入ったのを見て、二人の間へ割って入った。言い合いだけならまだしも、訓練の最中に暴力沙汰が見つかったらお互いが不利になるだけだ。第三者が介入しても、中々熱が下がらなかった。現に、二人があたしを挟んで睨み合っている。
  
「二人とも、落ち着いてよ。今からあたしたちはこの崖を綱一本で登らないとなんだから」

 このままでは埒があかないので、現実を思い出してもらうことにした。頼りない縄が一本づつ垂らされた断崖絶壁、あたしたちは立体起動術の一環でこの崖を登らなければならない。縄は一人につき一本で、一見したら個人の訓練に見えるがそうではなかった。各班に分かれる訓練でも、各個人でこなす訓練でも、訓練兵団では集団行動が絶対だ。この騒ぎで訓練ができないとなれば、連帯責任も避けられない。
 
「いつ合図が来るかも分からない。ね、一旦落ち着こう?」

 教官は先行した班が使った縄の点検をしているので、下にいるあたしたちに注意が向いていない。怒りを収めるなら今しかないのだ。

「……ああ、分かった」
「ッチ、こんなとこで評価を下げられたくねぇからな」

 二人にも伝わったらしく、エレンは素直に、ジャンは渋々と言った様子で頷いてくれた。ミーナがグッドサインを送ってくれるので、笑顔で仕返す。

「ナイスよ、ノエル!」
「猛獣使いになった気分」
「おい、聞こえてんぞ」

 こっそり伝えたつもりが、ジャンの耳に入ってしまったようだ。頭をそれなりの力で小突かれてしまった。アニの強烈な技を喰らっているからか、そこまで痛くないのが恐ろしい。
 なんとか喧嘩を収めた矢先、崖の上から教官が顔を覗かせた。位置に着くよう命令が下され、あたしは頼りない縄を握る。何もつけない状態で一度登ったことがあった。動きやすい服装で挑んでも、普段使わない筋肉で不安定な足場を歩くのは体力を消耗させる。壁登りをした翌朝は、腕やら脚やら全身が筋肉痛になった。またも同じ経験をするとなると、憂鬱だ。風が強い中で立体機動装置を腰につけての訓練となるので、明日はもっとひどいはずだ。未来を考えたら、登るのが億劫になってしまう。横並びになったミーナとガッツポーズを送りあってから、教官が開始を告げた。
 あたしは平均より背が高い分、地面から自分の支える手と壁に体重を移す作業が一番大変だ。縄をピンと張らせて、勢いよく重心を変える。影の壁と体を垂直にして、姿勢を整えれば後は登っていくだけだ。体が重い男性陣の踏ん張る声が聞こえて来る。登る姿勢に変えて、一足先にすいすい登っていくエレンの背と負けずと追いかけているジャンが見えた。あたしも負けてられない。縄が手に食い込むくらい掴んで、一歩一歩登り始める。数分して、肌寒くなってきた。地面との距離を確認する勇気はないが、命綱があってよかったと心から思える。足をかける場所を間違えて、宙ぶらりんになることだけは避けたいので、呼吸を整えつつ進む。これだけ時間が経つと、周りとの差も大きくなってきた。エレンとジャンはとっくに先の方だし、同時に出発したはずのミーナも一歩先だ。ジャンみたいに成績上位者になりたい訳でもないから、評価を気にしなくていいのは気が楽だった。自分のペースで、確実に登らなければ。尻に火がつくという意味でも、ジャンの目標は悪くないのかもしれないが。
 額をつたい落ちていく汗を腕で拭う。希望を胸に、崖を登って数十分後。崖の頂上が見え始めてきた。最初は信じられないほど遠くに思えた頂上が、今や目と鼻の先だ。上に上がるにつれて、立体機動装置の重みが体を引き摺り下ろそうとして来る。足が動かなくなりそうになるのを耐えながら、頂上を見据えて歯を食いしばった。左上にいるミーナも、あと少しで到着しそうだ。
 頂上に教官が見えたと思ったら、すぐ先に登っていたミーナの体がぐらついた。

「えっ」

 その声がやけに大きく聞こえ、支えのなくなった縄がうねる。ミーナのおさげが顔のすぐ横を通り過ぎていくのが、まるでスローモーションのように見えた。あたしは何も、考えられなかった。無我夢中で立体機動装置のアンカーを射出する。自分の命綱を断ち切り、崖を滑り降りながら力なく落ちていくミーナの体目掛けて手を伸ばす。空振り、服の裾を掴めた。引き上げて、抱え込む。衝撃に備えて、硬く目を瞑る。

 暗闇の中に、あたしはいた。目と鼻の先にいるアニがあたしの肩を揺さぶって、何かを伝えようとしている。聞き返したいのに、声が出ない。アニが必死に訴えかけてくれている。口だけ動いていて、声が聞こえない。よし、口の動きで読み取ればいいんだ。以外にも、すぐその言葉が分かった。あたしの名前だ。肩を揺さぶっているライナーやベルトルトにアニが話しているのは、あたしの名前だ。確信してから、脳内に声が反響して大きくなっていった。

「……ノエル………ノエル!」
「ミーナ…?」

 重たい瞼を上げると、険しい表情であたしの名前を叫ぶミーナがいた。肩を強く揺さぶられて、徐々に意識がハッキリしてくる。ミーナの後ろに冴えない表情をしたエレンとジャンが見えた。あたりを見渡して、いないはずの人間で目が止まる。ミーナの隣に、艶やかなブロンドと碧眼を鋭く歪めたアニの姿があった。起き上がろうと力を入れるが、気だるさが邪魔をして失敗する。体を思うように動かせず、愕然とするあたしにアニがその正体を伝えた。

「多分、脳震盪だよ。あんた」
「脳震盪?あれ……あ、ミーナは!?」

 朧げだった記憶が目を覚ます。あたしは上から落ちていくミーナを助けようとして、立体機動装置を使ったんだ。自覚した途端に、鈍い痛みが回ってくる。

「ノエルが助けてくれたから、私は平気。ノエルこそ、怪我はないの?」

 ミーナを観察しても、頬の擦り傷の他に怪我は見当たらない。涙目にさせてしまって心が痛むが、混乱している様子はない。あたしが眠っている間に、ミーナは自分にされたことを理解したんだろう。ほっと安心したのも束の間、背中が焼けるように痛んだ。擦れたような痛みは壁を滑り降りた摩擦だろう。訓練兵のジャケットが体を守ってくれたらしく、ほとんどの革が剥げて刺繍は酷い有様になっていた。

「着る服って大事なんだね…」

 革製のジャケットは支給品の中でも高価だ。そこまでする必要があるのか、と疑問に思っていたけれど。ジャケットが丈夫に作られていなかったら、あたしの背は岩に擦られてぐちゃぐちゃになっていただろう。考えただけで身震いする。

「教官は数分休ませておけばいいって言ってたけど、念のためにマルコが担架を持ってきてくれるわ」

 あたしたちが足止めされていたので、後続の班が到着してしまったらしい。落ちる前はこの場にいなかったはずのマルコやアニは、後から到着して闇討ちを受けたあたしたちに合流したようだ。
 
「ノエル、立ち上がれる?」

 ミーナが手を差し出してくれて、それを頼りに立ち上がる。多少足元がおぼつかないけれど、特に気になるところはない。軽く準備運動をしながら、腕を伸ばしたり、しゃがんだりとして体の調子を確認する。背中が擦れている他に怪我はなかった。あたしが起きてからずっと不安そうだったミーナはやっと表情を和らげて、何度も頭を下げた。言われてみれば、あの高さから落下したのを自分でもよく受け止められたな、と感じる。これも、自主練のお陰だろうか。ミーナに礼を言われながら、一人の人間を救った、という事実が現実味を帯びてきた。ミーナが目を潤ませて手を握ってくる。受け止めきれないくらいの感謝を伝えられ、隠れて狼狽えた。
 人を助けること。心優しいあの子はこんな光景を望んでいたのだろうか。あの子の目指した夢の片鱗を見ている気分だった。あたしなんかにできるはずないと否定し続けていた光景。心の奥底から喜びが満ち足りていくようだった。あたしが、一生を賭けて目指す夢。あの子ほどじゃなくても、あたしにもできるかもしれない。

「ノエル、本当に怪我はねぇのかよ」
「大丈夫。どこも変じゃない」

 あたしに外傷がないことに安心して、力が抜けてしまっているミーナを今度はあたしが起こす。あたしはいいから、闇討ちを受けた本人の方が救護室に行くべきだとミーナに説得し、マルコが読んできてくれるらしい担架を待っていると、エレンが声をかけてくれた。眉を下げて気遣ってくれるエレンにはひらひらと手を振り、笑ってみせた。

「運が良かったよ」
「お前の実力だろ。落ちた瞬間、誰も反応できなかったんだからな」

 空気を和まそうと冗談を言ったつもりだったのだが、エレンにはそう捉えられなかった。さっきまで登っていた崖を見上げるエレンの横顔は、何か思うところがありそうな表情だ。

「これでもうヘタクソじゃねえだろ?テメェも反応できてなかったんだしな」
「……まあ、悪かねぇ」

 こちらの様子を眺めていたジャンが、ぼそりと呟いた。ジャンにしては譲歩した褒め言葉に、胸が熱くなって二度見したら、怖い顔をしてから顔を逸らされる。
 
「まだ認めねぇつもりかよ」

 あたしには十分過ぎる言葉だったのだが、エレンにはそうでもなかったらしい。素直に認めようとしないジャンに詰め寄って、ピリついた空気があたりに立ち込める。こんな状況にも関わらず、勃発しそうな喧嘩に対して、ミーナがうんざりと文句を言っていた。このまま、流れに任せてマルコに任せてしまってもいい。ただ、これ以上ミーナに負荷をかけるのは酷だろう。そもそもの、ことの発端であるあたしが仲裁しよう。二人の中に割って入ろうと、歩き出した腕を掴まれた。

「やらせておけば」

 あたしを引き止めたのはアニだった。有無を言わせないかのように、強い力で掴まれていて動けそうもない。振り解く理由もないので、腕はそのままにして口を開く。

「でも、ミーナが可哀想じゃない?」
「私の知ったことじゃない」

 灰色がった青色と視線を合わせて、表情から苛立ちが滲んでいるように見えた。いつものアニらしくない、少々乱暴な言葉であたしの言い分を退いたアニは、掴む力を強めた。引き締められるような痛みを感じて、顔を顰めているあたしをアニが冷え切った視線で眺めている。

「アニ……?」

 アニが不機嫌になる理由が思い当たらない。恐る恐る名前を読んでみるも、返ってくるのは冷ややかな眼差しだけだった。ミーナに助けを求めてみるけれど、彼女も首を横に振っている。誰もアニがこうして感情を露わにする原因がわからなかった。

「あんたの立体機動じゃ、受け止めきれなくて圧死してもおかしくなかった」

 低く唸るような声だ。アニが言っている言葉を完全に把握するまで時間がかかって、あたしが脳内で処理しているうちにアニは言葉を重ねた。

「あんた、わかっててやったんでしょ」

 変化に気づくのは、あたしだけではなかったようだ。アニの言う通り、アンカーを射出したと同時にある可能性が頭を過った。無闇に飛び込んでは二人とも壁に激突する。あたしはミーナよりも身長が高いので、下から抱え込むようにして助けあげれば、立体機動に失敗してもあたしが圧死するだけだ。いつもは上手く回らない頭が驚くほど早く回った。結論付いた瞬間、命綱をブレードで切ったのだ。
 アニが言うのはこのことだろう。でも、いくら下手とはいえ成功する見込みがあったから実行したのだ。現に二人とも無傷だし、アニをそこまで不快にさせるとは思えなかった。

「あたしはピンピンしてるよ?」
「そうじゃない」
 
 自由に動く腕を開いてあげたり下げたりして見せるも、真正面から否定されてしまった。何をどうしていいかわからず、お得意のへらへらとした笑みを浮かべてみる。アニも気を緩ませてくれるかな、と期待して浮かべた笑みはアニの表情を一層険しくするだけだった。

「自分の心配をしろって、言ったのに」

 吐き捨てるようにアニは言った。その言葉を耳に入れた途端、あの夜の会話が脳裏で鮮明に思い浮かぶ。行動と発言を振り返れば、読み取れなかったアニの気持ちが手に取るようにわかった。アニはただ単に、あたしを心配してくれているのだ。答えに辿り着くと、わからなかった数分前の自分が滑稽に思える。こんな簡単な感情を、なんであたしが最初に気づけなかったんだろう。全て理解してからアニを見ると、額に刻まれた皺も腕を掴んでいる手も、まるで違うように感じた。あたしを思った行動だと思えば、愛おしさすらする。ジャケットに皺がつく程、力が籠っている上から自分の手を重ねると、アニの手は簡単に外れた。

「アニ、心配してくれてありがとう」
「……別に。そういうんじゃないよ」

 華奢だけどしっかりしている手をとって微笑む。アニが呆れたような声色で返事をして、うんざりしたような目つきに変わった。体が解放されたので、喧嘩寸前だったエレンとジャンの様子を伺う。簡易的な担架を地面に置いたままのマルコが、今にも殴りかかりそうな二人の仲裁をしていた。

「でもね。あたしも……今のアニに心配されても嬉しくないよ」

 今のアニはあの夜のあたしと同じだ。自分を大切にしないで、他の人だけ心配している。アニがあたしを想ってくれるのを素直に喜びたいのに、できないんだ。

「言うようになったってのは本当らしいね」

 誰から話が伝わったんだろうか。悪くなったみたいな言い方で、あまり好きじゃないのに。はぐらかすように笑ったら、アニは何が言いたげな雰囲気で目を逸らした。
 
「……あんたに何を言われようと、やめるつもりはない」
「やめさせたいんじゃないよ。ただ、もうちょっとだけ休んで欲しい」

 アニの行動を制限したり、束縛したいんじゃない。アニ自身を気遣って欲しいだけ。休息や外出を控えるといった行動は必要ですらないのかもしれない。手を組んで懇願するあたしに向かって、アニは口を開いた。
 
「私にそれをさせて、あんたは何がしたいの」
「アニが無理をしているのに、何も言わないでいる……なんて、あたしにはできないから」

 あたしは面倒くさい奴なんだろう。アニの好きにさせておけば、こうやって彼女に迷惑をかけることもないのに。要らないお節介ばかりして、自己中で我儘だ。アニだけじゃない。ライナーやベルトルトにもこんなことばっかりしている。それでも隣に居させてくれているのは、あたしがみんなに甘えているんだろう。

「まあ、あたしがアニをどれくらい好きなのか、改めて伝えたかっただけなのかも」
「そう」

 あたしへの返事は淡白だったけれど、アニは考えるように目を伏せて、横髪を指先で弄んでいる。あたしたちの間に、長い沈黙が流れる。あたしたちの真柄では珍しくもないのに、アニの言葉を待っていて妙に心がざわついた。アニが視線をあたしに向け、前髪をさらりと流す。
 
「わかった。してるつもりは全くないけど、私はこれから無理をしない」

 想いが伝わったようで、アニは小さく頷くてくれた。飛び跳ねそうなほど、心が軽くなる。浮かれるあたしに念を押すようにして、アニが一言付け加えた。
 
「私がするんだから、あんたもするんでしょ」
「うん!」

 心配する側の気持ちも、される側もそれはもう良くわかったつもりだ。相手へ心を配る前に自分を大切にしなければ、本来の気持ちが相手に伝わり辛くなってしまう。嬉々として大きく頷いたあたしを前にして、アニは僅かに口角を上げた。
 
「……あと、そう思ってるのは少なくともあんただけじゃない」
「ノエル!ミーナを庇ったって聞いたよ」

 エレンとジャンの二人組を宥め終わったマルコが話しかけてきて、無事なのか確認される。気遣わしそうなマルコも、あたしが大した怪我がないことを伝えると、表情を和らげた。

「無事でよかった」

 マルコの優しさに触れつつ、喧嘩の仲裁ですっかり疲れているミーナが目に入った。外傷がなくとも、精神的に疲弊しているだろう。訓練兵は中々休む機会もないし、休息を取った方が良さそうだ。
 
「ミーナはどうする?」
「私、やっぱり休みたいかな……」
「よし。じゃあ、ノエルも一緒に診てもらうといい」

 マルコの提案であたしは遠慮するミーナを言いくるめて乗せた担架を運びつつ、救護室に寄ることになった。布と木でできた頼りない担架の上に寝転がってもらい、マルコと二人で運び出す。

「ノエル、何かいいことでもあったの?」
「うーん、たぶんね」

 アニの言葉を聞き返すことは出来なかったけれど、ミーナを運んでいる最中も頬が緩みっぱなしでマルコに指摘され、笑われてしまったのだった。