息が詰まるような暑苦しさで、アニは目を覚ました。
 二段ベットの木目が視界に入り、真っ先に絡みつく暑さの原因を探す。起きた勢いで上半身を起こそうとして、原因はすぐに分かった。首筋にあたる髪の毛の感覚や生暖かい吐息。ノエルが体に抱きついていた。こっちは蒸し暑くてたまらないのに、目は硬く閉じていて起きる気配がない。腕を引き剥がすにも面倒なので、それをベットの外に蹴り飛ばした。派手な音を立てて、ノエルの体が床に落ちる。さっさと着替えているとその騒音で、同室の人間も起き始めた。ベッドから降りてくる人は私たちの関係を理解しているので、床で倒れている人間の姿に驚きつつ身支度を始めている。兵団の服を着終わってもノエルは未だに寝ていた。私が蹴り飛ばしたままの体制だ。伸びているノエルを踏まないように避けても、声をかけている人間はいない。思うところがあって、側にしゃがんだ。

「いつまで寝てるんだい」

 至近距離で話しかけても、反応はない。起きたらどう文句をいってやろうか。呆れ果て、頬を軽く叩こうと顔に手を添える。
 触った指先からツンと熱くなった。反射的に手を離し、ノエルの額を触る。確信とは言えなくて、ノエルの額と自分の額を合わせた。背後できゃあと黄色い声が鬱陶しい。改めて、ノエルの顔を見る。半開きの口から荒い呼吸音が聞こえた。のぼせ上がった頬、苦しそうな表情。

「あんた、馬鹿じゃなかったの」

 問いかけても、答えはなかった。


 窓の外から聞こえて来る訓練の号令が別の世界のように感じられた。視界はぼやけ、体が信じられないくらい重く怠い。足のつま先すら出さず布団にくるまっても、寒気で震えが止まらなかった。体の中から襲って来る吐き気に眠れず、救護室のベットで寝ているあたしは絶賛風邪っぴきである。おそらく原因はアルミンと話し込んだ夜の雨だ。あの日はアルミンの提案でジャケットを頭に被って帰った。思ったより風が強くて、ほぼ意味をなさなかったけれど。救護室のベッドは空室だから、アルミンは大丈夫そう。
 どうやら、熱を出して倒れていたあたしをアニが救護室に横抱きで運んでくれたらしい。訓練が始まる直前まで看病してくれていたとか。額に乗っている濡れたタオルもアニが用意してくれたのだろう。話を聞いた時は本当にアニだったのか聞き返してしまった。今日は予想外のことばかり起きる。訓練が開始される時刻の前に、教官が救護室にやってきた。怒られるかと身構えたけれど、意外にも淡々と休養を命じられた。
 よって、あたしは信じられないくらい暇だ。目を瞑ろうとしては開け、瞑ろうとしては開けを繰り返す。眠った方が良いと言われたが、気持ち悪くてそんな気分になれない。気を逸らす手段をできる限り探して、最終的にたどり着いた。外から流れ込んでくる掛け声を子守唄代わりにするのだ。普段の情景を詳細に脳内で思い描いていると、いつの間にか意識は途切れていた。

 ひやりとした感触で瞼を開く。視界に飛び込んできたのは瞳だった。金色の瞳孔がきゅっと小さくなって、即座に離れる。視界のぼやけがすっかり治っていたあたしには、目の前の人物が誰だか直ぐに分かった。

「ライナー?」
「すまんな、起きちまったか」

 額に乗っているタオルはひんやりと冷たくて気持ちがいい。顔を動かしてしまって、ズレたところをライナーが直してくれる。節々がしっかりをしている手の動きがしっかりと目で追えた。
 
「ううん、平気。だいぶ良くなったよ」

 訓練兵の紋章がよく見える。心配そうにしているライナーの表情もよく見えた。目眩も収まり、吐き気もなりを潜めている。睡眠がこれほどまでに効果を発揮するとは思っていなかったので、無理矢理にでも眠った自分自身に感謝だ。
 
「無理するな、休める時に休んでおいた方が良いぞ」
「ん」

 回復したとは言え、今すぐ訓練に復帰できるような気分ではないので、大人しくライナーに従った。短く返事をすれば、ライナーも満足そうに頷いている。
 
「ライナーはどうしてここに?」

 寝ぼけた思考がハッキリしてきて、やっとそんな疑問を口にした。寝起きだからか、声が掠れている。ライナーが手渡してくれた水をありがたく飲みながら、耳を傾ける。
 
「見舞いに決まってるだろ」

 当然と言えば、そうだ。あたしが逆の立場でも見舞いに行っていただろう。だとしても、不服なことがあった。上半身を起こして、口を隠しながら話す。
 
「風邪、うつっちゃうよ」

 あたしは病人なのだ。だからこそ、救護室に隔離されている。見舞いは飛び上がるくらいに嬉しいけれど、ライナーにうつしたらそれどころじゃない。
 
「いいや、平気だ。お前の風邪なんて俺には大したことないさ」
「そうかもしれないけど…」

 細菌の宿主がへなちょこだったら、細菌も同様になるんだろうか。妙に納得感がある言葉だったけれど、食い下がる訳にはいかなかった。モゴモゴ言っているあたしに向かって、ライナーが口を開く。
 
「…もし俺が風邪引いても、お前が看病してくれるんだろ?」
「クリスタじゃなくていいんだ」

 最近、クリスタ・レンズという名前の女の子が男女の間で注目の的だ。気遣いができる優しい子で、何度か話す機会があった。噂では女神のあだ名で知られているようで、ライナーが目で追っていることがあるもの知っている。
 
「看護師か……悪くないな」
「ふーん……」

 ライナーは顎に手を添えて考え始めている。自分で提案しておいて、いざいらないと言われると悲しいものだ。自業自得だけど。風邪のせいかわからないが、感情の浮き沈みが激しくて、しゅんとするあたしを見てライナーが笑った。
 
「冗談だ。看病されるならお前の方が休める」

 「クリスタか……」クリスタへの未練を捨てきれないでいるにライナーの言葉なんてすっかり頭に入らず、パッと胸が明るくなる。たちまち、寂しかった空っぽの気持ちがいっぱいになって、元気よく答えた。
 
「人に看病して貰うつもりで風邪になるのはずるいよ!」
「そりゃあ残念だ」

 わざとらしく残念がるライナーが可笑しくて口角が上がる。こうして、ライナーと二人きりで話すのは久しぶりだ。いつもはベルトルトが隣にいて、訓練兵になってからは尚更だったので、なんだか新鮮だった。
 
「ふふ、訓練は終わったんだね」

 窓から差し込む光は茜色だった。赤く染まって落ちていく夕日は死角になっていて見れないけれど、段々と濃さを増している。見張り台から眺める夕日なんか、訓練場の中では絶景だった。アニを引っ張って一緒に眺めたことがあるけれど、憂を帯びた黄昏色が暗闇に吸い込まれていく光景はその日の疲れが吹き飛ぶようで。ライナーやベルトルトとも見てみたい。
 
「ああ。ベルトルトは当番があるから俺一人で来た」

 ライナーの言葉を聞いて、今日が自分の番ではないことに安堵する。風邪一つで、みんなにこれ以上迷惑をかけたら胃が捩じ切れてしまいそうだ。訓練終わりで疲労が溜まっていのに、わざわざ足を運んできてくれたライナーに感謝をしつつ、朝に見た顔の行方を尋ねる。
 
「アニは?」

 救護室にあたしを運んだ張本人だ。起きたら側にいる、なんて期待していなかったが、その後の動向が知りたくなってしまった。元気なのか、という意味合いも込めて聞いてみる。
 
「さっさと消えちまった。まあ、朝の取り乱しようが見られちゃな」

 取り乱す。アニとは一生縁のなさそうな単語だ。聞き返したそうにしているのが分かったのか、ライナーは当時の状況を話してくれた。
 
「お前を運んできたと思ったら、救護室の場所を教えろ、の一言だけで行っちまった」

 普通だったら、冷たく見えてしまうかもしれないけれど、あたしたちにはそれがどれたけのことか分かる。ライナーもあたしと同じように感じているようだった。二年間、極限の状態で一緒にいたお陰で、言葉を交わさずとも互いの気持ちが読み取れることがある。訓練兵になってからは四人一緒に過ごす時が減り、そんな機会もなくなっていた。妙に懐かしくて、目を細める。

「明日は雹でも降るのかな」
「いや、快晴だ」

 アニの行動は異常気象の前触れかもしれない。本人に言ったら、はっ倒されそうな冗談を口にしたら、ライナーにすかさず否定されてしまった。確固たる自信を持っているような言い方に、心当たりが浮かんだ。
 
「ベルトルトの寝相占いでしょ?」

 男女別に分けられていても、ベルトルトの寝相はすぐに訓練兵の間で評判になった。毎朝コニーやらジャンが高らかと予測を話しているから、密かな楽しみにもしている。ベルトルトにこの話を聞くと、不服そうにしていたので本人の前ではあまり言えないけれど。

「あの芸術的な寝相、まだ治ってないんだってね」

 開拓地にいた頃から、ベルトルトの寝相は酷かった。四人で薄い布切れを引いて川の字で寝て、ベルトルトが横にいると全ての布が巻き込まれてしまう。全ての寝具を奪われた人は凍えて寝れなかったので、一人だけ離れた所で寝てもらったりしたのだ。寝床が硬い床と布切れ一枚だから、寝相が悪くなっていたんだと思っていた。訓練所のベットは開拓地と比べれば、信じられないくらい良い寝床なので、改善を期待していたが、従来のものだったらしい。
 
「ああ、こっちでは評判だぜ」
「見に行きたいなぁ」

 一緒に寝ていた頃は布団を取られないよう必死だったのに、恋しく感じてしまう。毎朝、起きたらベルトルトの寝相占いができる男子寮が、なんだか魅力的に感じた。
 
「駄目だぞ」
「わかってるよ」

 念を押されてしまい、頬を膨らませて不貞腐れる。半分は冗談のつもりで言ったのに。ライナーには、あたしの真意を感じ取られてしまったようだ。
 
「お前ならこっちに来かねん」
「バレてる……」

 男子寮への侵入方法を頭の中で模索していたあたしを、まるで知っていたかのように止められる。女子寮と同じ作りをしているなら、簡単に侵入できそうなのに。ライナーとベルトルトは同室らしいので、直接見るのは叶わなそうだ。初めて、ベルトルトの寝相を惜んだ。
 もしかしたら、風邪を引いたあたしの寝相も酷かったかもしれない。体に霜が降りてしまったようで、温かい何かを抱きしめていた記憶がある。そうだったら、アニに悪いことをしてしまった。運んでくれたのも含めて、どうやってお礼をしようか。
 
「ねね。ライナーは、さっきまで何してたの?」

 きゅっと縮まった瞳孔を間近で見たのは初めてだった。タオルを変えるにしても、顔を近づける必要があるとは思えない。何か顔についているのだろうか。自分の頬や鼻筋をペタペタ触りながら、問いかけてみる。ライナーは不意を突かれたみたいに押し黙ったあと、絞り出すように言った。
 
「……顔が、真っ赤だったからな。見たことねえくらい……」

 窓から差し込んでいる夕日のせいだろう。差し込んだ光に照らされ、ライナーの頬が仄かに赤くなっていた。深刻そうな割には言い訳じみた答えが面白くて、くすくすと笑ってしまう。
 
「そりゃあ、熱出してるから」
「それもそうだ」

 肯定の言葉を返しながら、ライナーも自分の言っていることが可笑しくなってきたようだ。小刻みに肩を揺らして、二人でしばらく忍び笑いを続けた。もうすっかり、腹の底がしくしくと泣いているような体の震えではなくなっている。
 
「変なライナー!」
「変か……そうかもな」

 遠くを見ているような目つきで、息を吐くように言ったライナーの表情は読めない。それでも、どこか疲れが滲んでいるような気がした。
 
「じゃあ、ライナーも寝とく?」

 一人分横にずれると、掛け布団を捲って場所を示す。病人用だからだろう。あたしが寝ているベッドは自室の物よりも横幅が広い。体が大きいライナーと横になったら窮屈だろうが、開拓地の頃に戻ったみたいで楽しそうだ。
 
「な、なに言ってんだ。寝るわけねえだろ」

 開拓地では子供の立場がすこぶる弱い。よく食べる癖に大して働けないからだ。だからこそ、子供は纏まって寝るのが常で、添い寝なんてしょっちゅうしていた。あたしが考えていたよりも、狼狽しているライナーが滑稽だった。
 
「風邪うつってもいいんでしょ?ほらほら」

 人一人分の余白をぽんぽんと叩いた。まだ乗り気じゃなさそうなライナーの手を取って、引いてみる。他の人がしていたらすぐにやめるのに、ライナーの困り顔が愉快で、なんだか可愛かった。
 
「……見られたらどう言い訳すんだ」
「寝ぼけて巻き込みましたーって言うよ」

 その声色に諦めの色が滲んでいて、悪戯が成功したような気分になる。隙を逃さず、ベッドの中に引きずり込んだ。考えていた通り、ベッドの幅はギリギリで、落ちないようライナーの腕に縋り付く。一緒に過ごしたのに、あたしの腕とは圧倒的な差があった。鍛えれば、望みがあるのかな、なんて考えつつ人肌のぬくもりに眠気が誘われる。
 
「お前ってやつは……俺たち以外にするなよ?」 
「しないよ。みんなは特別だから」

 訓練兵になってから出会った人たちに、同じことをしようとは思えなかった。いきなりやったら迷惑だし、嫌われるだろう。エレンなんかにしたら、ミカサが飛んできそうだ。なにより、この安心感を得られない。
 
「……そうか」

 人肌に顔を埋めていたから、ライナーの表情は分からなかった。ゆらり、ゆらりと夢に手招きされながら、強く抱きしめる。
 
「風邪でも一緒にいてくれるライナーが好き、大好き」

 風邪になって、救護室で一人残された。壁が壊されるより前から、一人で生きてこなかったあたしには、一人で生きる方法を知らない。だから、一匹狼で生きられるアニを尊敬していたりする。
 
「お前は……特別だからな」 
「ふふ、うん。おやすみ、ライナー」

 三人はあたしにとっても、特別だ。言われた言葉を脳内で反響させて、噛み締める。見舞いにしてはあまりにも遅いライナーを迎えに来たベルトルトが、この惨状を見て仰天するとは知らず、呑気に目を閉じた。