ガラス窓に叩きつける雨粒が轟々と唸っている。木造で出来ている建物が軋んで鼓膜を揺らした。外からの光は闇に溶け、夕方とは言えない暗闇の中で蝋燭の光が温かく顔を照らしている。眠気が覆い被さっているように体が重い。書庫の片隅で、一人何度目かの欠伸を溢した。
 今日は座学が早めに切り上げられ、自由時間が増えた。立体機動の練習を行うにも風が強く断念。することも思いつかなかったあたしは、書庫で勉強しようと考えた。名案には違いなかったが、天候が悪化して外は大雨。宿舎まで帰るにしてもびしょ濡れになってしまう。誰もいない書庫の緩やかな時の流れと雨の丁度良い騒々しさが着実にあたしを眠りへと誘っていた。

「ノエル?」

 誰もいない闇の中から話しかけられて、ハッと上体をあげた。入り口付近に灯りが灯っている。靴音が一歩、一歩と近づいてきた。弱々しい炎が照らしている顔は、丸い瞳を持ったあどけなさを持つ少年。アルミンだった。

「もうすぐ就寝の時間だよ」
「もうそんな時間?!」

 アルミンは。大抵の人が自由時間を終えて宿舎へ向かう頃だ。うとうとしていたら、随分と時間が経っていたらしい。睡魔が抜け切れていない顔を隠すように伸びをする。机の上に散らばった本を重ねて、立ち上がった。本棚の空いた空間を埋めるように、本を一冊づつ返していく。人が歩いて巻き上がった埃臭さに鼻が痒くなる。同じように本を返しているアルミンの咳き込みが聞こえた。書庫と言っても名ばかりで本が無造作に積まれている。簡易的な長机と椅子はあるものの、埃が積もっており、置いてある本も年季が入った技術書や歴史書が多かった。若者が好む物は殆どないので書庫があること自体知らない者が多く、あたしも最近までその内の一人だった。

「アルミンは本を返しに?」
 
 蝋燭の僅かな光で浮き上がったアルミンは分厚い本を数冊抱えていた。ちらっと見ただけでも自分が手をつけられないであろう厚みを持つ本ばかりだ。最初の頃はそのような本を盗み見たことがあったけれど、序論を読むのすら精一杯。読み終えるのにあたしの持つ脳みそでは何ヶ月かかるか分からず、そっと本棚に戻した。
 
「君は、座学の復習?」
「えっ、どうして」
「君の本は今日の座学で教えられた範囲が載っているから」

 一言も伝えていないのにアルミンは平然と答える。借りていた本といい、訓練兵団に来て数ヶ月しか経っていないのにアルミンなら書庫の本を全て把握していそうだ。
 
「題名を見ただけでわかったの?」
「読んだことがあるから分かっただけだよ」
「そうかなぁ?」

 あたしには本を読み終えても、同じ芸当をできる気がしない。表紙だけなら覚えられても、中身を完璧に把握するのは難しいだろう。少なくともあたしの頭じゃ絶対に無理だ。劣等感を燻らせたため息と共に最後の一冊を本棚に戻した。
 左右を見渡して人影を探すと、背伸びをして高い位置の本棚に手を伸ばしているアルミンが視界に入る。
 
「わあっ!」

 今にも倒れてしまいそうな姿勢を見て駆け寄ったが、少し遅かった。書庫に厚みのある音が響き渡る。床の埃が竜巻のように舞い上がり、埃っぽい匂いを勢いよく吸い込んでしまった。喉に張り付いた埃に咳き込む。前にできてしまった本の山から頭を出すアルミンも、けほけほと肩を揺らしている。しばらく咳をしてやっと治まると、アルミンは真っ先に頭を下げた。

「ごめん」
「大丈夫!そんな顔しないで」

 アルミンの表情があまりにも暗かったので必死に励ましの言葉を並べる。こちらを伺い見る姿に笑顔を見せると、表情が緩んだ。二人で散らばった本をかき集めて、元の場所に戻し始める。書籍の場所を把握しているらしいアルミンに場所は指示してもらい、高い位置の棚はあたしが担当する。ずっしりと中身の詰まった本の重さが手に伝わる。流石はアルミンだ、なんて考えつつも、一冊ずつ棚に戻していく。背はアルミンのつむじを見下ろせるくらいにはあるので、そこまで苦労しなかった。
 次の本を拾おうと屈もうとしたら、倒れた拍子で開いてしまっている本を凝視しているアルミンがいた。
 
「これは…」

 あたしも同じように膝をついて、開かれたページを覗き込む。大部分を図解で占めており、川や水についての書籍だと言うことがわかった。
 
「壁外についての記述がある。ほら、ここ。一文だけ…」

 見慣れない様子のアルミンが声を荒げて、一点を指差す。川を模した複数の図が集まった下方に、溜まったインクで読みづらい一文が記されていた。目を細めて、書かれている通りに読み上げる。
 
「川の下降付近には、我々では想像できない巨大な湖がある?」 
「きっと、海のことだ!やっぱり、海はある……!」

 本の一文をアルミンは目に焼き付けながら、頬を高揚させた。言い聞かせるように呟いたアルミンが、本を握りしめて手に取ってから顔を上げる。
 
「う、み?」
「あ、一人でうるさかったよね……?」

 単語がよく理解できずに復唱していると、アルミンはあたしを申し訳なさそうに見上げた。瞳には不安が見え隠れしている。
 
「そんなことないよ。アルミンの顔、すっごくキラキラしてた。よっぽど好きなんだね、うみって」

 アルミンは大人しくて冷静だ。そんな彼が興奮して我を忘れてしまうなんて、よっぽど凄いものなんだろう。にこりと笑ったら、アルミンは表情を弛緩させた。
 
「っうん!そうなんだ」

 アルミンから壁外の話について教えてもらった。あたしの想像を絶する世界が広がっている事実に、心臓がドキドキする。壁外にどんな世界が広がっているか。考えたこともなかった発想に、引き込まれていく。
 あたしに話しているアルミンの瞳は蝋燭の明かりだけのこの部屋で星のように煌めいて光を放っているように見えた。

「氷の大地、炎の水、砂の雪原……そんなものが壁外にあるんだ」

 復唱してみても、実感が湧かない。ただ、そんなものが世界のどこかにあると思う度、好奇心が胸の内を跳ね回った。
 
「……ノエルは、信じてくれるんだね」 
「当たり前だよ!あたしより何倍も頭がいいアルミンが言ってるんだもん。あるに決まってる」

 間髪入れずに訴える。アルミンはあたしの形相が予想外だったらしく、ポカンと口を開いていた。全ての可能性を精査してアルミンなりに出した答えなら、間違いない。なにより、彼の頭脳は座学で知っているから疑う余地がなかった。
 
「あたしが調査兵団になって、その中の一つでも見つけたら……」

 もし、あたしが巨人たちから生き延びられたなら。鬱蒼とした森を抜け、広がる海が脳裏に浮かんだ。海をじっくり見る前に飛び帰って、きっとあたしはするだろう。

「一番最初にアルミンに見せるね!」
「ふふっ……ありがとう。ノエル」

 山になっていた最後の一冊を、本棚に戻し終える。アルミンの考察も聞いていたからあっという間で、急に体が軽くなったみたいだった。
 アルミンを誘うと、快く了承してくれたので宿舎まで一緒に帰ることにした。こうなると、蝋燭は二つも要らなくなる。あたしは持っていた蝋燭にふっと息を吹きかけ、書庫の入り口に置いて廊下へ出た。窓に打ち付ける激しい雨音が廊下では一層増して聞こえる。木がか細い悲鳴のような音を立てて軋み、風の音と一緒になって生き物が唸っているみたいだ。

「そういえば、二人で話すのはこれが初めてだね」
「あっ、確かにそうかも。アルミンはいつも三人で一緒にいるイメージだから、ちょっとびっくりしたよ」

 幼馴染で仲の良い三人組は兵団内でも目立つ存在だ。楽しそうに談笑する姿をついつい眺めては、ライナーたちに会いたくなる。二人で並んで歩いているのを見ると、違和感を感じるくらいに三人は馴染みの存在だ。

「僕はあんまり意識していないんだけど……不思議だね」
「わかる。あたしもついつい、アニの隣とか座っちゃうもん」

 自分にも心当たりがある言葉に激しく頷いた。無意識のうちにライナーの隣で座っていたり、ベルトルトの大きい背中を探したり、アニに話しかけたり。それはアルミンも同じなようだ。

「アニも開拓地で一緒だったんだ」
「あれっ話してなかった?そうだよ!」
「調査兵団に入るのは、ノエル一人……?」

 あたしの言葉にアルミンは少しだけ驚いている様子だった。てっきり言っていたつもりだったので、勢いよく肯定する。たしかに、アニと同じ開拓地だとは伝えていなかったかもしれない。アルミンの記憶力に脱帽していると、アルミンが伏せ目がちに聞きた。

「うん」
「前から疑問に思っていたんだけど、ノエルはなんで調査兵団に入りたいの?ライナーたちは憲兵団を志望しているから」

 兵団に入る直前からみんなの希望しているのが憲兵団なのは知っていた。いざ、事実を突きつけられると胸がぽっかり空いた気分になる。あと二年ほどで、一人分空いた椅子も大きな背中も辛辣なコメントもなくなるんだ。調査兵団と憲兵団は、まさに矛と盾。内地なんか中々行けないだろうし、手紙でのやり取りが増えるだろう。一度目の壁外調査で生き延びても、古株になれるとは思えない。卒業して次にライナーたちと会うあたしは中身のない墓標かもしれないのだ。
 嫌でも、恐ろしくても。あたしがノエルである限り、調査兵団は変えられない。来たる別れを受け入れるのが、せめてもの抵抗だった。

「…小さい頃からの夢なんだ。アルミンはどこの兵団を希望してる?」

 絞り出したのはある意味での嘘だった。曖昧に笑ったら、アルミンは優しいから踏み込んでこない。

「ぼ、僕は……まだ分からない。卒業まで二年しかないのに……真っ直ぐに突き進んでる君は凄いよ」
「真っ直ぐなんかじゃない」

 言ってから、口を抑えてハッとした。まさか否定されるとは思わなかったのだろう。面食らっているアルミンの様子に気まずくなって目を伏せる。

「あっ、いや…あたしは選択肢がないだけだよ。でも、分からなくて当然なんじゃないかな」

 焦りながら必死に話題を切り替える。綺麗事にしてはあまりにも未熟なアドバイスを並べて捲し立てた。

「まだ二年もあるんだからじっくり検討したらどう?」
「二年も、か……うん、結論を急ぎ過ぎていたみたいだ。ゆっくり考えてみる」

 あたしなんかの言葉もアルミンは真剣に汲み取ってくれたようで、先程よりも表情が明るくなった。

「アルミンなら後悔しない道を選べるよ、絶対に」
「そうだといいな」

 念を押すとアルミンが笑みを浮かべる。彼が悩むのは人よりも視野が広いからだろう。先を先まで考えられるから、その分情報も多くて悩みそうだ。でもアルミンなら情報に振り回されずに、最適な判断を下せると思う。

「こう言う話ってエレンたちにできないから…」
「それもわかる!」

 ライナーたちからどう思われているかは知らないけれど、大切な人たちにこそ話せない悩むもある。二度目のシンパシーを感じて、うんうんと頷いた。

「じゃあ、今度はあたしの話聞いてくれる?」
「僕でよければいくらでも聞くよ」

 脳内に浮かんだ悩み事を相談しようと聞いたら、優しげな瞳で快諾してくれた。こほんこほん、なんて息を整えて誰もいないのに声を顰める。

「…ライナーがあんなにモテてるのに彼女を作らないのはそっちのケがあるからだと思う…?」
「…それは多分…勘違いだと思うよ……」

 今の心情を表すようにそばで雷が落ちて、轟音が鳴る。非常に言い辛そうなアルミンの表情を見て、今すぐ謝りたくなった。