◇ アイノチカラ 弐
嫌な予感がしていた。
不自然な点はいくつもあった。
抱きしめた時、最中、そして日本酒…
然し、目先の幸せに溺れ、冷静な思考は呼吸を止めた。
それが間違いだった。
如何して予測できなかった。
彼女が、なまえが姿を消すなんて事、考えた事もなかった。
考えたくなかったからだ。
もぬけの殻となった自分の隣にある空白に手を叩き付ける。
最後に見たのは、ぼんやりとした意識の中の泣きそうな顔。
あの時、何故そんな顔をしているのか問い掛けたかった。
それなのに意識は沈んでいって…頭を殴ってでも起きて問い掛けていたのなら、現状とは違った“今”が在ったのだろうか。
なまえと連絡が取れない。
一寸買い物に出ただけかもしれない、偶々携帯端末の充電が切れているのかもしれない。
そんな甘ったれた考えは気休めにもなりはしなかった。
なまえが自分の意思で動いているのなら…良くはないが、まだ良い。
最悪は何かの事件に巻き込まれているかもしれないという事だ。
嫌な汗が流れるのを感じながら、なまえの自宅へ走った。
「なまえ!!」
玄関を開けて叫んでみても何一つ返ってこない。
ふんわりとなまえの香りだけがそこに在った。
胸が締め付けられる想いでいっぱいになりつつ部屋に上がる。
何か手掛かりがないかと見渡す。
………いやに片付いている。
箪笥を開くと不自然な隙間が在った。
私がなまえに贈ったワンピースを探すが、見当たらない。
物干し竿には何も下がっていない、洗濯機も空。
状況から考えて、なまえは自分の意思で此処を去ったのだろう。
服は半分以上残されているし、家具もそのままという事は、急を要していた…?
ふと視界に映る、いつもとは違う位置に置かれた掃除機に触れると、ほんのりと熱が残っていた。
息をのむ。
まだそう遠くへは行っていない。
だがもう少し手掛かりが欲しかった私は、引き続き部屋を調べる。
塵収集の日でもないのに塵箱は律儀にも空っぽだった。
居間を除いて。
藁にも縋る思いでそこから数枚の紙を拾い上げる。
…どうやら移住の地を探していた様だ。
いくつも候補を挙げ二重線で消されている。私はそれを握り締め玄関へ向かう。
何気なく見た下駄箱に、なまえがお気に入りだと言っていたピンヒールが置き去りにされていた。
履いていた姿が簡単に脳裏に蘇る。
歯を食いしばり、駅へ向かった。
途中、国木田君へ連絡を入れる。
『こんの唐変木!何処をほっつき歩いている!いくら此方から電話しても出んで』
「国木田君、文句は後でいくらでも聞くから。緊急事態なんだ。」
簡単に説明すると、国木田君は渋々了承し協力を得られた。
駅に着いて駅員室へ向かう。名前を名乗ると駅員の男性がどうぞと案内してくれた。
案内された先は、九分割され其々が別の場所を写し出している画面の前。
国木田君に警察へ協力要請を申請してもらい、監視カメラの映像を閲覧できるように手を回してもらった。
時間を遡り、瞬きをする間も惜しんで映像を見た。
すると、予想通り映し出されるなまえの姿。
眉に皺を寄せ、何故と考えるのは後にした。
残された紙に書かれた場所を思い出す。
場所はバラバラだったが、どれも遠方。
となれば、新幹線か。時間を送り、ホーム上になまえの姿を映し出したカメラを見つける。
直ぐ様、駅員にその新幹線の行き先を尋ねた。
「その新幹線は…」
◇
初めて降り立つ地"青森"は、空気が澄んでいる気がした。
人もヨコハマに比べると少なくて、緑が多い。
改札を出ると、居る筈のない人が立っていた。
吃驚し過ぎて声が出ず、硬直する。一体どんな魔法を使ったのだろうか。
「やァ、なまえ。私が居る事に相当驚いている様だね。」
結構、結構と嗤う人、治がそこに居た。
唯、その笑顔は作り物で、屹度怒っているに違いない。
「如何して此処に居るのかって顔してるねぇ。私から逃げられると、本気で思っているのかい。」
冷たい笑みだった。
こんな笑みを向けられたのは初めてだ。
哀しくなって、思わず目を伏せた。
その瞬間、ふわりと優しい腕に包まれる。
鼻先を蓬髪が擽るから、目頭が熱くなる。
「身を隠す先にこの地を選んだのは"しゅっぱい"だよ。」
優しい手が私を撫でる。
堪えきれずに零れた涙を見られないように、治の背中に手を回した。
「ねぇ、なまえ。君との繋がりは電話や電子文書だけだなんて、脆弱なものだとは私は思っていないよ。けれど、そんな脆弱なものに頼り、挙句君と連絡がつかない事が不安で仕方なかった。」
「ごめん、なさい…」
「違う、謝罪がほしい訳じゃあない。私が納得のいく理由をおくれよ。そうしたら…なまえを解放してあげてもいい。」
一度抱き締める力が強くなってから、二人の間に距離を作った治は、少し屈むようにして、私と目線の高さを合わせ、真っ直ぐに見つめてきた。
濡れた目元を見られたくなくて俯く。
「この際、なまえが事件に巻き込まれた可能性が杞憂で終わった事は良しとして、黙って自ら姿を消したんだ。それもこんな北の地まで。それ相応の理由くらい貰えなければ、私は君を忘れられやしない。」
まったく酷い話だろう、と治は笑った。
これ以上、黙っておくことは無理だと思った。
卑怯だと、思った。
意を決して前を向く。
治はずっと私を見ていたのか、直ぐに目が合った。
「迷惑を、掛けたくなかったの。」
「迷惑だって?私はなまえにどれだけ迷惑を掛けられても相殺できないくらい、迷惑を掛けてきたと思うけれど。」
溜め息交じりに治が言った。
確かに、治には沢山迷惑や苦労を掛けられてはきたが、なんというか、種類が違う気がする。
首を左右に振って続けた。
「治の人生や、仕事の足枷になりたくないの。」
暫くの沈黙。少し治の顔が怖くなった、怒っているのかもしれない。
聡明な彼の事だから、屹度、私が全て話す前に気付いたのだろう。
だけれど敢えて黙った。
私から、私の口からハッキリと言わせる為に。
「……妊娠、したの。治との子を、授かったの。」
絞り出すように放った言葉を言い終わると同時に、再び治の腕に包まれた。
「君と君との子が、私の足枷になるって?それならば、喜んで両足とも差し出そう。それでも足りないのならば、全身を。」
治はそう言うと、私の額と自分の額をぴたりとくっつけ目を閉じた。
「そんなに私は頼りないかい。愛した人と、我が子すら守れない程に。」
「毎日、自殺自殺って言っている人が頼れると思う?」
珍しく大真面目な治が可笑しくって、少し意地悪を言ってみた。
「ふふ、それなら大丈夫。たった今、もう少し生きてみてもいいと思えたから。」
治は更に腰を落とすと、跪く様な格好で私の腹部に額をつけた。
私はそっと、そよ風に靡く蓬髪を撫でる。
「なまえ、君が存外強情なのは知ってる。けれどね、君を手放す事は死ぬ事と同義だ。否、それ以上…。君の傍に居る為なら、なんだってしてみせる。この際だ、なまえが私から離れる理由を総て論破してみせよう。」
治は言いながら立ち上がると、自信に満ち溢れた笑みを向けた。頭脳戦で治に敵う筈がないのは、誰よりも知っている。
「一つだけ。」
諦めた私は、一つだけ疑問をぶつけることにした。
「如何して、私より早くここに居たの?」
治はきょとんとした顔を見せる。
「そんなこと?そんなの決まってる。」
得意げにふふんと鼻を鳴らす治に、嫌な予感しかしなかった。
治は目的の為なら手段を選ばない事がある。
不自然にヘリが飛んでいたし…屹度、国木田さん辺りに迷惑をかけているに違いない。
戻ったらお詫びの連絡をいれよう。
軽く溜息を吐いた私の心中を知ってか知らずか、治は触れるだけの口付けをしてから言った。
「愛の力、だよ。」
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2019.09.05*ruka
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