◆ 優しい狼が欲しいもの 壱


朝九時、約五分前。
私はゆっくりと瞼を上げた。
いつもの携帯端末から聞こえる電子音で無理やり起こされたのではなく、自然と脳が覚醒していく。
今日が仕事だったら確実に遅刻のこの時間、慌てないのは休日だからだ。
私はのっそりと上体を起こし、カーテンが引かれた窓を見る。
遮光性が高い訳ではない布なのに、外の光をほとんど感じられなかった。
その理由は、ずっと聞こえている窓を叩く音で間違いないだろう。
寝起きの鼓膜にどこか心地よく響くあの音。
少しの間、その音を聞いてから小さく息を吐いた。
買い物にでも出掛けようかと思っていたが、外は雨。
出掛けるのはまた次の休みか、と息を吐きはしたが、内心は然程ガッカリはしていなかった。
どうしても必要なものはないし、食べ物は買い置きのものがある。

枕元に置いた眼鏡をかけ、布団の端に適当に放られていた小説に手を伸ばす。
掛け布団を再び被ると、俯せに寝転がる。
暫く読み進めると、若干の空腹を感じ、何か甘いものが食べたくなってきた。
脳内で、台所の食べ物を思い浮かべる。
残念ながら甘いものは先日食べ切って在庫はなさそうだ。

そんなことを考えていると、今度は急激に睡魔が襲ってきた。
なんと人間の欲深いことか。
私の煩悩は尽きることを知らないらしい。
眼鏡同様、枕元に置いていた携帯端末を手に取り、ある人物に電子文書を送ろうと思う。
然し睡魔が操作する手を阻み、中々文章を打ち込めずに瞼が落ち、遂に夢の中へとおちていった。



ピンポーン

頭の奥で、呼び鈴が聞こえた気がする。
こんな日に訪れるのは勧誘か営業か。
私は起きるどころか目を開くこともせず、居留守を決め込んだ。

ピンポーン

再び聴こえる呼び鈴。
最初の音が夢でなかったことを確認しつつも、私は布団から出る心算は欠片もない。
唯、二回鳴らしたということは、何か荷物でも届いたのだろうか。
だとしたら配達員の方には申し訳ないが、不在票を投函しておいていただこう。
私はいませんよ、心の中で呟いて布団に潜る。

ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポーーーン

……何の嫌がらせだ。
呼び鈴が鬼のように連打される。
煩い。
こうなってくると、意地でも玄関を開けたくなくなる。
すっぽり布団を被ると、幾分か騒音は和らいで、三度うとうとしてきた。
意識が朦朧としてきて眠りの淵にたった頃、呼び鈴の雨が止んだ。
ほっとして全身の力が抜け、一気に眠りにおちた。



暗闇の中、雨が降っていたけれど、不思議なものでちっとも寒くもないし、生温かい。
変なの。
辺りを見渡すと、真っ暗な空間に狼が一匹。
それも、あちこちに包帯を巻いている。
変なの。
否、若しかすると、この空間においての異質は私か。
狼と目が合うと、私を目掛けて一直線で走ってきた。
私はあっさりと押し倒され、自由を奪われる。重い。
狼は顔を近づけると言った。

言ったのだ。

「ねぇ、食べちゃうよ。」

やけに優しい言い方をする狼だ。
でもそうか、私はこの狼に食べられてしまうのか。
身近に自殺だなんだと騒がしい奴がいるから、自分の最期はどんなものか、何度か考えたことがあったけれど、真逆、狼に食べられる最期とは予想できなかった。
下から見上げると牙が光った。
でも不思議と恐怖は一切ない。
痛々しい包帯が、彼の人に似ているからか。
死にたいのに中々死ねない、彼の人に恨まれそうだ。
狼は口から涎を垂らし、私の頬に落ちた。
冷たい…
ゆっくりと目を閉じ、その時を待つ。

さよなら、太宰…



「なまえ、ねぇ、食べちゃうよー?」

聞き覚えのある声に目を開く。
何度か瞬きをして、目の前に見えたのは狼ではなく、ずぶ濡れの太宰だった。
髪から雫が滴り、私の頬に落ちる。冷たい…

狼は、夢?

「それに何、"さよなら"だなんて、随分ご挨拶じゃないか。来たばかりだというのに!」

状況が飲み込めず、何も言い返せないでいると、太宰が怒りながらも触れるだけの口付けを落とした。

「まぁったく、人使いが荒い恋人を持つと苦労するよ。あッ!これで帳消しなんて思わないでよね。」

「えぇと、太宰…なんでいるの。」

「………は?」

暫くの沈黙が流れる。
聞こえるのは相変わらず窓を叩く雨音だけだった。
恐らく太宰は、この雨の中、傘もささずに来たのだろう。
だからこのずぶ濡れ具合は理解した。
然し、抑も何故太宰が私の部屋に居て、私に覆い被さっているのだろうか。
私は記憶を逆戻しして考える。
狼が夢だったとしたら、私は眠っていた。
眠る前に何をしていただろうか。

あ。

呼び鈴を嫌がらせの如く鳴らしていた犯人は此奴か!
犯人は解ったが、行動の動機が解らない。
今日は誰とも会う約束はしていなかった筈。
ちょっと待て、太宰はどうやってこの部屋に入ったのだろう。
私は結局、鍵を開けていない。

「…特殊解錠ピッキングしたの。」

「いつものことでしょう。」

セキュリティ上大いに問題有りだ。
鍵、変えようか。
否、変えたところで、また突破されるのがオチか。

「なまえ、真逆とは思うけれど、私がここに来た理由が解らないのかい。」

図星をつかれて息を飲んだ。
何か言い訳を、と考え目を泳がせた。
太宰の視線が痛い。

「酷いな、君が私を呼んだのに。」

怒っていた太宰が、ふと悲し気な表情をするものだから、急に胸が締め付けられる。

「…本当に、覚えていないのかい?」

申し訳ないと思いつつ、私は一度頷く。

「少しも覚えていないの?欠片も?」

なんだかしつこいな。再び頷きながらごめんと謝った。
太宰は溜め息を吐いて、じとりと私を睨んだ。

「なまえの為に、この雨の降り頻る中、難問を解き、こうして訪れたというのに…私は正解が欲しい。」

正解と言われても、それ以前に、難問とは一体何のことだろうか。
それが既に難問である。
困惑する私はお構いなしに、太宰が耳元に唇を寄せる。

「そして私はなまえから、御褒美が欲しい。」

耳元で聞こえる、心地よく響く低音。
次の瞬間には、ぬるりと生温かい舌が耳をなぞる。
艶っぽい太宰の息遣いで、時折かかる吐息がこそばゆい。

「ん……太宰、待って」

「厭だ、待てない。」

ああ、夢の狼は太宰で間違いないらしい。
髪から滴る水滴が冷たい。

「そのままだと風邪ひくよ、体も冷えているでしょう。」

太宰の垂れる蓬髪を掬いながら頬に触れると、案の定、冷え切っていた。
顔を上げた太宰の表情は、それだけで私の体温を上昇させるほどに色気があった。

「そう思うのなら、なまえで私を暖めておくれよ。」

私の手に自分の手を重ねると、そのまま深く口付けられる。
呼吸すら許されず、受け入れるだけで精一杯だった。
そして包帯塗れの狼に、全てを貪られていった。




2020.03.09*ruka


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*confeito*