◆ kiss my cheek 弐


「あ!芥川くん、こんにちは。今日は早いのね。」

次の日、僕は昼頃なまえに会いに行った。昨日の祈りが神に届いたか、一握りの希望を胸に。
その希望は、あっさりとなまえの第一声で、指の隙間をすり抜け零れ落ちていった。

「今日は幾分顔色が好いな。」

落胆の色は出すまいと、無表情の儘なまえの寝台横の丸椅子に腰掛ける。
するとなまえは楽しそうに、その日あった出来事や、見舞いに来てくれた者のことなどを聞かせてくれる。
最初こそ警戒されてしまっていたが、今となっては以前のように自然体で接してくれるようになった。
軽く相槌を打ちながら、なまえの話に耳を傾ける。

「そういえば、昨日は顔を見なかったからか、芥川くんの夢を見たよ。」

心臓がドキリと跳ねた。
確かに起きているなまえとは会っていない。僕が一方的に眠っているなまえを見舞っただけだ。
どんな夢だったか尋ねると、なまえはうーんと唸り、ハッキリは覚えていないと前置いて、ぽつりと零すように言った。
その一言が、如何なる刃物よりも鋭く突き刺さった。

「恋人だった頃の夢、かな。」

呼吸が乱れ激しく咳き込んでしまう。
なまえは背を摩ってくれているが、その小さな手から伝わる体温は、恋人としてのものではないのだ。
なまえにとって僕との関係は、既に過去のものになってしまっているのだ。

「そうだ!昨日ね、紅葉さんとリハビリがてらお散歩に行ってきたの。」

咳が落ち着いてきた頃合を見計らって、なまえは寝台を抜け出す。
視線で追うと、部屋の隅に配置された、腰くらいまでの小さな冷蔵庫を開ける。
ごそごそと取り出したのは、僕の好物の無花果だった。
記憶を失ってから、好物の話はしていない。偶然か。

「一緒に食べようと思って、市場で買ってきたの。芥川くん、好きでしょう?」

思わず目を見開いてなまえを見る。
今日は感情が激しく揺れ動く一日だ。
なまえの言葉に、一喜一憂してしまうくらいには惚れている。
驚愕したのは此方なのに、なまえも何故か不思議そうな表情を浮かべている。

「え、あれ……嫌い、だった?」

咳払いをして答える。

「否、無花果は僕の好物だ。尾崎さんに聞いたのか。」

僕の言葉に小首を傾げるなまえ。
そんな反応されるとまた、期待してしまう。

「聞いてないよ。でもそんな気がして…これって、記憶の断片かな。」

そう言うと柔らかく微笑むなまえが愛しくて、記憶が戻るまではと抑えていた感情が溢れ出す。
思わず立ち上がり、なまえを抱き締めてしまった。
当然、戸惑わせてしまうだろうとは思ったが、予想と反してなまえは僕の背に手を回してくれた。

嗚呼、暖かい。

この体温も、鼓動も、息遣いすらも愛しい。
抱き締める腕に力を込めた。

「ごめんね、頑張って思い出すからね。」

まるで赤子をあやすかのように、僕の背を摩るなまえに何度か頷く。

「時間はかかってしまうかもしれないけれど、付き合ってくれる?」

「愚問だな。」

少し力を弱め、なまえを見つめる。

「そう簡単に解放してやらぬ。仮令、この身が朽ちようとも。」

「ふふ、朽ちるだなんて怖い。」

なまえはそう言うと、少し背伸びをして、僕の頬に口付けた。
悪戯に笑うなまえはどこか、楽し気だった。

記憶をなくす前、なまえがするこの行為は、口付けが欲しい時の合図だった。
それを思い出したのか、無花果と同じ断片なのかは不明だが、なまえの輪郭に手を伸ばす。
嫌がる素振りもなく、なまえは静かに瞼を落とす。
ゆっくりと、唇を重ねた。

若しもこの先、僕のことを思い出すことがないとしても、また僕を刻み込んでやる。

そう決心するくらいには、惚れている。


後書

2019.01.12*ruka


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*confeito*