◇ kiss my cheek 壱


正直、生きた心地がしなかった。

昨夜の取引で、よもや銃撃戦になるとは思ってもいなかった。僕だけならば、如何とでもなる。
僕に向けられる、弾丸を払うなど造作も無い。
一刻の気の緩み。
敵の目標は僕ではなくなまえだったのだ。
完全なる僕の油断が原因で、こんな事態を引き起こしたのだ。なまえに合わせる顔がない。
尤も、なまえはその顔は疎か、僕の存在すら忘却してしまった今となっては、意味のない感情かも知れぬが。



取引も終盤、密輸品の警備をしていた僕が離れた隙を突かれた。
同じく警備にあたっていた、なまえを含む数名を狙って発砲された。無論、瞬時に対応し事なきを得たものの、負傷者が多数出てしまった。
なまえも例外ではなく、腹部と側頭部に一発ずつ受けていた。

急所は免れたが、昏睡状態が続いている。
手術を終え、寝台に横たわるなまえの顔は皮肉にも美しく、今にもその瞼を上げ、栗色の双眸で見つめてくれるのではないかと思わせた。
愛らしい声で、僕の名を呼んでくれるのではないかと。
掛け布団から出ているなまえの手を握る。当たり前にある体温に酷く安堵して、両手で包み込んだ。

「なまえ……」

無様にも、何かに祈るような格好で、何かに縋るような思いで、なまえの名を口にした。
当然返事はない。
下唇を噛み、両の手に力がこもる。
すると、僅かだが確かに、ぴくりとなまえの手が反応した。

「なまえっ!?」

瞬時になまえの顔を見ると、いつも通り朝目覚めるかのように、ゆっくりと瞼を上げた。

暫くは天井を見つめ、次第に僕へと移される視線。
この瞬間を、どれ程待ち侘びたか。
幾千年もの時を超えたような、そんな気分だった。
視線がぶつかり、なまえの顔に手を伸ばす。

「なまえ、やっと目を」

「どちら様、ですか。」



医者によると、記憶障害らしい。
所謂、記憶喪失だ。
人間の記憶とは曖昧かつ繊細で、その記憶が一時的に失われている可能性もあれば、一生戻らない可能性もあるという。
今までの人生全ての記憶を失うこともあり、また一部分に限定された事項のみの記憶を失うこともあるという。
記憶が戻る確証はなく、何時戻るかも解らない。全ては神のみぞ知る、というやつか。

なまえの場合は、今までの記憶は一部分を除いて確りとあった。
己の存在も、身を置いているポートマフィアのことも、現状に至った経緯も。

唯一。
……僕の存在だけを、綺麗に切り取って忘却してしまっていた。

恋人である、芥川龍之介という人間は、なまえの中には欠片も存在していなかった。欠片も、だ。

言葉を失った。
こんな事、誰が予想できよう。
何故か考えても答えはなく、何故だと声を荒げてもなまえを怖がらせるだけだった。

僕はそうして居場所を失った。
なまえの中にあった、かけがえのない居場所を。



なまえ自身の経過は良好で、以前のなまえに戻りつつある姿を見ると安堵する癖に、手放しで喜べない己が恨めしい。
なまえは僕を思い出せないことに、少しの戸惑いを感じながらも、日に日に回復している。
僕は毎日なまえの元を訪れた。どんなに忙しくても、遅くなっても。

任務の後、なまえの居る病室を訪れる。
深夜故、既に眠りに就いていたなまえの頭をそっと撫でる。
眠りの中にいる筈のなまえが、微かに発した言葉に耳を疑う。
それは何よりも、僕が聞きたかった言葉だった。

「……りゅ、のすけ」

僕の名を呼んだのだ。
僕を忘却したなまえが、僕の名を。

無論、記憶を失ってから僕の名は教えた。
然し以前のようには呼べないと、"芥川くん"と呼ばれていた。
寝惚けていたのだとしても、待ち望んだ言葉に手が震えた。
まだなまえの中から、僕という人間が完全に消えてしまった訳ではないのだと、僅かな期待が生じた。
震える手でなまえの頬に触れ、眠るなまえに触れるだけの口付けを落とす。

どうか、次に目を覚ます時には全てを…僕を、思い出してくれるように祈りながら。




2019.01.11*ruka


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*confeito*