襖から差し込む光で目が覚めた。師匠から渡された時計を見れば、今の時刻は五時半。思っていたよりも早く目が覚めたとゆっくり伸びをして、菫は顔を洗いに縁側へと出た。
庭の井戸でばしゃりと顔に水をかけ、手拭いで水気を拭き取る。振り向くと、昨日の騒がしさが嘘のように静かな屋敷から魚を焼く良い香りが漂ってきていた。ひさが朝ごはんを作ってくれているのだろう。
戻って身支度を整えようと歩きだした所で、騒がしい足音が近づいていることに気付いた。
「猪突猛進!猪突猛進!!」
「…え?」
ゴシャッと鈍い音を立て、近くの岩へと頭突きをしたのは猪頭を被った昨日の少年ーー伊之助だった。
伊之助は頭突きをしたままピクリとも動かず、菫はそれを呆然と見つめた。
「(…ものすごい音がしたわ…。)」
大丈夫なのかしらと少し近寄ってみると、ずるりと伊之助の体が傾き、ポロリと猪頭が外れそのまま地面に倒れ伏した。
「え?…ええ!?」
あわてて駆け寄るが、伊之助はうつ伏せに転がったままピクリとも動かない。
どうしたものかと、ひとまず仰向けにしてやろうと伸ばした菫の手を、突然起き上がった伊之助ががしりと掴んだ。
「(え、女の子!?)」
「俺様は強いんだぞ鳥女…!」
「…そ、そう。(違ったわちゃんと男の子だったわ。)」
まさか猪頭の下に美人さんがいるなんて、と思わぬ衝撃にどきどきと焦る菫だったが、話を聞いていないと感じた伊之助がいっそう掴んだ手の力を強めた。
「俺は強い!」
「わ、分かった、分かったから!昨日もずうっと言ってたものね。
君が強いのは分かったから、そのおでこどうにかしましょう?すごく血がでてるわよ。」
ボタボタと滴る血は見るからに痛々しいが、伊之助は尚も菫に向かい吼えている。
「権八郎に出来る事は俺にも出来る!」
「(権八郎って誰…)はい、分かったわ。じゃあその権八郎さんに張り合う為にもまずそのおでこどうにかしましょう、お願いだから。」
菫が頷き続けたことでようやっと気がすんだのか、伊之助は静かになった。
でこが痛むのか…顔がすごいことになっているわと内心呆れてしまった菫は、とにかく手当てをしてやろうと、伊之助の手を引き縁側まで連れた。
「…もしかして、私が君の事を弱いと思ってると…?」
「てめえ俺様が弱いから心配なんざしやがったんだろ…!!」
「嗚呼、そういう事だったのね…。勘違いさせてしまってごめんなさい、怪我をしている人を放っては置けないから、つい心配をしてしまったの。」
今もあの時もね、と伊之助の額の血を拭いながら笑った菫に、伊之助はなんだかもやもやとしたものが胸の中に広がった。
「…心配は強いやつが弱いやつにするもんじゃねえのか。」
「あら、それは違うわ。だって、強い人も弱い人も傷つく事はあるでしょう?
そういう人を心配してしまうのは、人として当然の事よ。」
懐から出した痛み止めの塗り薬を塗ってやりながら菫は、弟か妹が生まれていたらこんな風だったのだろうかと顔を綻ばせた。
「だからね、私は、自らが大変な時に誰かの心配が出来る人は、強い人だと思ってるの。」
薬を懐に仕舞い、にこりと笑った菫を見て、伊之助はホワホワとしたものを感じた。ひさに世話をされている時にも何度も感じるそれに気付き、にこにこと笑う菫を睨みながら声を張り上げた。
「…そんなもん、俺だって出来る!」
そんな姿が可愛らしいと思ってしまっただなんて、言ってしまったらきっと怒るわ。菫は真っ直ぐに伊之助を見ながら、きっと彼はもっと強くなって行くのだろうと感じていた。
「…ひささんが、朝ごはんを作ってくれているみたいだから、戻りましょうか。」
「…おう。」
菫は世話を焼くのがなんだか楽しくなり、岩の近くまで駆けて猪頭を拾い上げ、伊之助の頭に被せてから、縁側に座らせた時と同じように手をとり歩きだした。
一方伊之助は、甲斐甲斐しく世話を焼いてくる菫に困惑していた。ひさが世話を焼いてくる時と同じでホワホワする。でも悪い気はしない。なんなんだ?此処に来てからというもの不思議なことだらけだ。
「嗚呼、そういえば名乗っていなかったわね。私は三鷹菫、鳥女じゃなくて、名前で呼んでくれたら嬉しいな。」
あなたの名前は?と聞いた菫に、もう考えるのが面倒になった伊之助は、いつもの調子で名乗ってやった。
「俺は!嘴平伊之助様だ!!」
「そう、よろしくね伊之助。」
◆ ◇ ◆
弟か妹が生まれていたら、きっと沢山世話を焼いてやっただろう。
禰豆子を思う炭治郎のように、千寿郎くんを思うお師様のように。
あの日、炎に焼かれた母の腹にいた、この世に生を受けるはずだった顔も知らない弟妹がふと過った。