「だ、旦那様が前線に行くなど」

「情報部門の私を戦場に駆り出すとは、上も余程人手不足のようだ」

「嫌ですっ、行かないで下さい」

「心配ない、必ず戻るよ」





引き留められなかった日の話





私の大切な人はもうこの世に一人しかいないのだから、私が抱く焦燥や懸念は仕方の無い事のはずだった。
両親と死別して引き取り手の無い私を遠縁というだけで快く迎え、まるで本当の家族のように育てて下さった旦那様を私も心の中では父だと思っていた。軍人である旦那様に戦争という国同士の争いはいつまでも付いて回る、だけどそれに喜んで送り出すような事など私には出来なかった。泣いて泣いて旦那様を困らせ、それでも優しく私の頭を撫でると、必ず帰ると約束して下さった。そして私はこの約束を糧にして日々を生きてきた。



「お帰りなさいませ」


指先から床に手をつき、深く頭を下げた。あれほど言いたかった言葉なのに、いざとなれば声は情けないほど震える。


「ただいま、名前」


その声を聞いた瞬間に大きく肩が跳ねた。懐かしさで視界が滲み、すぐには顔を上げられず手が震える、すると旦那様が私の肩をゆっくりと起こした。奉天会戦で旦那様が頭に銃弾の破片を受けたと聞かされた時は卒倒してしまったが、こうして無事に帰って来て下さったのだ、なんて幸運な事、


「……っ」

「ああ、先の戦いで頭蓋骨と前頭葉の一部を吹き飛ばされてしまってね」


痛ましいお姿に堪えていた涙が零れてしまい、嗚咽が漏れる。どんなにお辛かった事だろう、どれほどの痛みだったか私では想像する事も出来ない。涙でくしゃくしゃな私の顔を見て旦那様は笑った。


「たまに、変な汁が漏れるんだよ」


旦那様はこのような目をしていただろうか。底の見えない真っ黒な瞳が私を映していた。


「名前、今日は一緒に食事をしようか」







湯気が立ち上る鍋をぼんやりと見つめながら出発の日から今日までの日数を数えてみる。旦那様の戦った場所は一所ではない、中でも二〇三高地は激戦地だったと聞いた。死者も多く、帰った者の中には精神を病んでしまった者もいるという。ならば旦那様がご無事で帰って来て下さっただけでも幸運な事、今はゆっくりとお身体を休めていただきたい。
止まっていた手を再び動かすと包丁が滑り指に軽く当たった。すぐに玉のような血が浮き上がったが痛くはなかった、旦那様に比べれば。すぐに水で洗い流して布を宛てがう、じわりと赤色が滲んだのでそこを強く押し続けた。


旦那様が着替えて私室を出る頃には食事の準備を整えていた。
配膳を終えると席に座るよう促され、ふとその光景に懐かしさを覚える。旦那様のお帰りが遅くても、私が食事を用意する日はなるべく一緒に食べれるように配慮して下さっていた。そして必ず美味しいよ、ありがとうと仰って下さった。またこうして一緒に食事が出来るのも本当に幸せな事だ。


「どうかしたかな、随分嬉しそうだが」

「旦那様と食事が出来る事が嬉しいのです」


旦那様は目を細め、私も頬を緩めて席についた。食事をしながらも旦那様は出征先で見聞きしたお話を色々として下さった。


「金塊?」

「夢のような話だろう」

「ええ、まさに夢物語ですね」


突然おとぎ話のような事を仰る旦那様に笑顔を向けると旦那様も静かに口角を上げた。ならこんな話はどうだろう、と軽やかに続ける。


「我々は多くの犠牲を伴いながらも戦争では勝利を収めた。だが米国の介入により賠償金を得られず、負傷兵や戦死者の遺族には何の保障もなかった」

「……」

「今も路頭に迷う彼らを救うには、どうすればいいと思う」


金縛りにあったような心地だった。旦那様からは死の香りしかしなかったから。その瞳に映るのは目の前にいる私ではない。表情を崩さず発せられる言葉には無数の棘があり、それを隠そうともしない旦那様の御心がどちらにあるのかを考える事すら恐ろしい。いや、何を考えているのだ、旦那様が恐ろしいはずがない、恐ろしいはずがない、のに。


「分からないか」


優しげな声に思わず視線を落とし首を振る。どうして私にこのような話をするのか聞くことも出来ない、机の上を見つめたままでも少しずつ肌が粟立ち、旦那様の声に感覚が澄まされていく。


「ははは、そんなに怯えなくていい」


急に笑い出した旦那様はとても可笑しそうに目元を手で覆った。やはり、指の隙間から覗いた瞳は私を映さない。


「だ、旦那様……」

「何だい、名前」

「私は、旦那様の御心や御身体を今は少しでも休めていただきたく思っております」

「ありがとう」

「だから、だからどうか私を置いてどこかへ行かないで下さいませ」


もう嫌だ、旦那様が遠くに行ってしまうのは。旦那様はもう十分国に尽くした、だからしばらく休養を取ったって罰は当たらないはずだ。これ以上手の届かない所へ行かないでほしかった、もう旦那様が戻って来ないような気がしたから。


「なら次は名前も一緒に行こうか」

「え?」

「私はお前を本当の娘と思っている、離れ難いよ」

「いえ、そっ……」


旦那様の笑顔を見て、もう手遅れなんだと思ってしまった。ぎゅっと拳を握ると僅かな痛みと共に指先から血が滲む。ゆっくりと瞼を閉じた。


「戦争の最中にも使えそうな駒を見つけてな」


ああ、この方は私の知っている旦那様ではない。


「頭を吹き飛ばされた甲斐があったよ、ははは」


けれど私にはこの方しかいない。旦那様のお側でないと生きていけないのだ。






END
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