規則正しい寝息が聞こえる。
微かに表情が変わった気がした。どんな夢を見ているのか起こして聞いてみたいけど、この寝顔を今しばらく見ていたい。そっと名前の額に触れて、体温を確かめるようにゆっくりと撫でた。





ある日の話






微睡みの中で温もりを感じる。何て優しい、誰だろう。瞼に降る光が沈んでいた私を引っ張り上げる。起きないといけないのに、もう少しこの微睡みの中にいたい。額の温もりに手を添えて重たい瞼を僅かに開く。この優しい顔をした人は誰だろう。ばらばらになっていた思考が集まり始めて形になる、途端に心臓が大きく跳ね、勢い良く身体を起こした。


「おはよう、気分はどう?」

「……」


私を気遣う男の人、白い服を着た私、顔から血の気が引いていく。怖くなって口を開く。


「ど、どなたですか……」

「名前……、」

「私はどうしてここに」


腕ごと身体を引き寄せられて温かさに包まれる。知らない人のはずなのに嫌だと思えない。ぎゅうっと力のこもった腕から伝わる震えは、押し止めようとした感情の為せるものなのかと他人事のように考えた。


「どうして貴方の事が分からないのでしょう」

「……大丈夫、ちゃんと説明するよ」


哀感を孕んだ声は私の中にすとんと落ちた。そして私はきっと大切な事を忘れてしまっているのだと理解した。
ゆっくりと身体が離れて自然と目が合う。


「俺の名前は蒙恬」

「私達は……」

「俺達は結婚の約束をしてたんだ」


それからしばらく、蒙恬は私の事や自分の事を色々と話してくれた。私を気遣いながらゆっくりと丁寧に。話を聞いて気付いたが、私はここ三年ほどの事を忘れてしまっているようだった。
蒙恬と共に戦場で戦っていた私は、敵の攻撃によって落馬し、しばらく意識が無かったのだと言う。蒙恬は親のいない私の為に部屋を一つ用意して、世話をしてくれていたようだ。時折遠くを見ながら話す彼を見て胸が痛んだ。どうして思い出せないのだろう、どうしてこんなに悲しいのだろう。本当に悲しいのはきっと記憶のある彼の方なのに私の様子を窺いながら言葉を選ぶ。


「ごめんなさい」

「謝る必要なんか無いよ」


指先で私の頬の涙を拭い頭に手を置くと、形の良い目元を緩めて微かに笑った。


「今は混乱してるだけで、きっとすぐに思い出すよ」


優しげな瞳で見つめられると息が詰まる。


「気分転換に外へ出ない?」


頷くと手を取られ、導かれながら部屋の外へ出る。中庭のような場所には綺麗な花が沢山咲いていた。


「わあ、すごいっ」


花を撫でながら蒙恬を見上げると瞬きをしながら私を見ていた。何に驚いているのか分からず首を傾げると優しく抱き寄せられ、心臓が痛いほど鳴る。ごめんねと呟かれたのと同時にぎゅうっと力が増すのが分かる。


「最初にここを見せた時と同じだったから」

「あの……」

「うん、覚えてないって分かってるのに、ごめん」


蒙恬の腕の中で首を振る。恐る恐る彼の身体に腕を回した。私も力を込めてみる。私はきっとこの人の事が大好きだった、その気持ちは今も私の中に残っていて忘れてしまった訳じゃない。


「名前、大好きだよ」


息が苦しくなるような気持ちだった。大切でずっと側にいたくて、溢れそうだ。こんな風に思った事が前にもあっただろうか。何か思い出せそうなのに。



「早く思い出したい」

「うん」

「蒙恬と一緒に歩いていきたい」

「うん、ありがとう」


耳元で聞こえる涙声はなんて愛おしいんだろう。明日はきっと思い出す、そしてもっと蒙恬を好きになる。





***





夕食を済ませると眠そうにしていたので寝台に横にならせるとすぐに寝息が聞こえ始めた。

戦で落馬して以来、名前は毎朝眠りから覚めると前日までの事を全て忘れてしまうようになった。頭を強く打った所為だと医者は言った、治らないかもしれないとも。毎日のように俺の事を忘れてしまう名前を見るのは辛かった。けれど名前の側にいられない事はそれよりも耐え難かった。
最初のうちは毎朝それを説明していた。名前はいつも涙を流した。自分を責め、嘆き、忘れてしまう事に怯えながら記憶を失くしていく、それを繰り返すうちにみるみる衰弱していった。何度かそれを繰り返したが見ていられなくて、毎日記憶を失くす事だけ隠すようになった。
不思議な事に毎日同じように接していても反応は様々だった。けれど一日の終わりは決まって明日を楽しみにしながら穏やかに眠る、明日はきっと全てを思い出せると信じて。

忘れてしまう事が悲しくないと言えば嘘になるけど、それでも一日を懸命に生きる名前を大切にしたかった。そっと額を撫でると気持ち良さそうに表情が緩んだ気がした。ああ、なんて愛おしいんだろう。


「また明日も、俺を好きになって」


君が何度忘れてしまっても何度同じ事を繰り返しても、何度でも君を抱き締めるから。






END
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