見えないことには慣れた。今は見えないくらいがちょうど良いと思えるのだから慣れというのも馬鹿にできない。
「何か欲しい物はあるか」
後方から声を掛けられたので笑顔のまま振り返る。
「いいえ、何も」
「そうか」
靴を履く、立ち上がる、戸を開ける、一度だけ振り返り私を見て、歩き始める。閉められた戸には鍵が掛けられた。これがいつもと同じ一日の始まりだった。
男が出掛けた後は特に何もすることが無く、本を読んだり眠ったり、起きたら少し食事を摂ったりして静かな時間を過ごす。男が何をしているのかは知らない。そればかりか仕事も年齢も名前さえ知らない。
家から連れ出されたと言うよりは拉致されたと言う方が近いかもしれない。親の同意や承諾があってここにいる訳では無いから、見つかれば連れ戻されるだろう。ただ、この生活が私にとって苦痛ではなく、不思議と恐くもなく穏やかに過ごせていることが私をここに留まらせた。
人より敏感な聴覚が遠くの足音を捉えた。鍵が開けられ戸が開く。
「おかえりなさい」
「ああ」
「魚、ですか」
「鰆だ」
「大好きです」
ふっと息を吐く音が聞こえた。笑っているのかと思い顔に手を伸ばすとそれはあと少しのところで阻まれた。
「……」
男はこうして私が触れるのを拒否する。見えなくても触れればどんな顔か分かるのに、私は男の顔も知らない。声を聞く限りでは二十代の青年、私より少し歳上かもしれない。この人は私に乱暴することも、奴隷のように扱うこともなく、ただ家に置いておくだけ。
「すみません、すぐに鰆を焼きますね」
******
「欲しいものはあるか」
「お昼は暇なので新しい本を読みたいのですが」
「何が読みたい」
「お任せします」
「……分かった」
靴を履く、立ち上がる、戸を開ける、一度だけ振り返り私を見て、歩き始める。閉められた戸には鍵が掛けられた。それを見送り、離れていく足音を聞いていた。
昼過ぎには家を出た。合鍵の置き場は知っていたのでしっかりと鍵をかける。白杖を持ち、壁や手すりに指を這わせながらゆっくりと歩く。階段はあるが気を付けながら降りると不意に外の匂いがした。
午後特有の太陽の光の温かさ、風に音を鳴らす木々、土の匂いや子供の声が聞こえるのは公園だろうか。辺りをぐるぐると歩いて公園に入る。隅にあった長椅子に腰掛けて一息ついた。深呼吸をすると身体の中の酸素が全部入れ替わるような気がする。
しばらくすると子供達の声がだんだんと疎らになってくる。少し外気も冷えてきた。こんなに季節が進んでいたんだ、ずっと家にいると気付かなかった。何か羽織るものがあれば良かったけど。
辺りはすっかり静かになって偶に通り掛かった人の声や足音が聞こえるだけになった。肌寒さに少し身震いする。どのくらいここにいただろう、椅子の背にもたれて足を伸ばす。固まった身体が小さな音を立てた。
もう家に帰ろうか、でもこのまま帰っても。
不意に足音が耳に届く。段々と大きな音になる、その方向に顔を向けた。
「はぁ、はぁっ」
激しい息切れが聞こえたかと思うと腕を急に掴まれて体制を崩す。それはすぐに耳元にまで近付いた。
「何してるっ」
「すいません、迷ってしまって」
抱き締められたまま答えると締め付けが強くなった。熱い身体、きっと沢山走り回って探してくれたに違いない。
「ありがとうございます、見付けてくれて」
汗ばんだ頬に手のひらを添え、指を滑らせると顔の輪郭が分かる。整わない呼吸でそれどころではないのか、いつもと違って私の指を受け入れていた。
「外に行きたいなら連れて行ってやるから、一人でどこかにいくな」
「はい」
私のことを何とも思っていないのかと思ったが、そうではないらしいらしくて安心した。
もっと私に執着してほしい、もっと私を望んでほしい。自覚はしていたつもりだが、私には昔からそういう癖がある。この人にももっとそうなってほしい、これは悪癖だろうか。
束縛される日の話
END
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