一番星に気付かない
「あー……やっぱり雨降ってきちゃった」
朝の天気予報の"今日は一日曇り"というのを信じ、折り畳み傘を持たずに家を出たものの、仕事が終わって帰宅する頃にはお天気お姉さんの予報は外れて小雨が降り始めた。やっぱり天気予報なんて信じるんじゃなかった。でも降水確率まで見なかった私も私だから文句は言えない。
まだ駅まで少し距離はあるけど、これくらいの雨なら走ればなんとかなる。黄昏時、ただでさえ雨のせいで辺りはいつもより早く暗くなり始めているので、これ以上暗くなる前に帰りたい。そう思って小走りを始めたが雨足はどんどん強くなる一方で、あっという間にどしゃ降りになってしまった。
今私が履いているのは5センチくらいヒールがあるパンプス。サイズが間違っている訳ではないが、それは歩いているときのことなので走ることまで想定して購入していない。何度も踵の部分が抜けるので靴が脱げそうになってしまい、とてもこれ以上走り続けるのは不可能だった。
しょうがない。これ以上走って公衆の面前で転ぶ方がよっぽど危険だし、それこそ恥ずかしい。ちょうど数メートル先にはコンビニが見える。あそこで飲み物でも買って少し雨宿りさせてもらおう。
突然の雨に慌てて駆け込んだ人が多いのか、スーツを着たサラリーマンや制服を着た学生達は、多少差はあるものの私と同じように頭から濡れていた。こんな状況の中、さすがに店内に長居をするのは気が引けるので、ホットコーヒーを購入し、軒下の喫煙者と横並びになりながら雨が弱まるのを待った。
「……っくしゅん」
雨に濡れた体に当たる風はより冷たく感じ、びしょ濡れのブラウスは体温さえも奪う。持っていたタオルで軽く水気を拭き取ってはみたものの、ほとんど効果は感じられない。
春が来たとは言ってもまだ三月半ば。いくらホットコーヒーを飲んでいたって、冷えるものは冷える。しかも今日に限って、いつもは鞄に入れて持ち歩いているカーディガンを家に忘れてしまった。雨にも降られるし、今日は本当についてない。胸の前で両手で紙カップを持ち、猫背になりながら寒さをしのいだ。
「うぅ……寒いー……」
さすがにこの寒さに耐えられず、思わず「寒い」と声に出してしまった。口にしたところで、寒さが和らぐどころか更に寒く感じるだけなのに。
未だに大粒の雨が降り続ける。傘を買って帰ろうにも、やっぱり同じ考えの人が多いようで傘はもう売り切れていた。これでは早く帰りたいのに帰れない。
この雨の中もう一度靴が脱げるのを覚悟で走るか、いっそのこと諦めてびしょ濡れになりながら駅まで歩くか。でもまだこれから電車に乗らなければならないことを考えると、できればどちらも避けたい。だからと言って、雨が降る度にタクシーなんて使っていたらお金がもたない。やっぱり小雨になるのを待つしかないか。
「これを使うといい」
空を見上げて雨が降る様子をずっと眺めていると、隣から声をかけられたような気がした。本当に突然のことだった。どうするべきか悩んでいる私の隣でタバコを吸っていた男性が、手に持っている黒い傘を差し出してきたのだ。
あまりにも突然のことすぎて、返事をすることもできなければそちらを向くこともできない。仕事以外で男性と話す機会もそうそうないし、こんな突然声をかけられることだってまずない。そもそも男性と話すこと自体に少し苦手意識がある。なので、こういうときどうすればいいのか、どうするのが正解なのか分からなかった。
……というか、いきなり知らない男性から傘を借りるのって相当危険なことなのではないか。何か良からぬことでも企んでいるのではないか、という疑念しか浮かばない。
「君に言っているんだ」
全く反応を示さない私に対して男性は、再び私の目の前にぐいっと傘を差し出す。ここで私は初めて、恐る恐る横に目をやった。隣にいる男性がどんな人なのか確かめるために。
長身、ニット帽、全身黒っぽい服装、そしてちょっと怖そうな、でもまるで翡翠が入っているかのような綺麗なグリーンの瞳。私が瞬時に把握した外見の特徴だ。怖い、関わっちゃいけない。彼の第一印象だった。
「あ……いえ、大丈夫です」
「そのままだと風邪を引く。それに……」
「……なんですか?」
男性は少し口ごもりながらも無愛想な様子で、強引に傘を手渡してきた。ここまで強引に渡されてしまうと、断ったら何されるのだろうという考えが働き、逆に怖くて受け取らざるを得ない。怖々とその傘を受け取ったとき、少しだけ男性の手が触れた。氷のように冷たかった。
「今日の雨は止まないかもしれない。あと、鞄を前に抱えて歩いた方がいい」
「え……?」
鞄を前に抱えて歩け。なぜそんなことまで知らない人に命令されなければいけないのだろう。怖くて一度その男性から目を逸らしたのに、思わずまたそちらに視線を向けた。
「そんな格好で歩き回るつもりか?」
男性は私の方をじっと見ながらそう口にした。でも見ているのは私の顔ではないようで、私の目からは少し視線が外れている。どういう意味だろうと思いその視線の先を追うと、行き着いたのは私の肩……いや、どちらかというと胸元に近いような気がする。よく見ると、雨に濡れた白いブラウスが肌に張り付き、下に着ているキャミソールが透けて見えていた。
「〜〜〜っ! この、変態っ!」
「善意だというのにひどい言われようだな。それは君にやる」
吸い終わったタバコを吸い殻入れに捨てながら、そう言い残して男性は雨の中へと入っていく。声をかけようとしたが男性は目の前に止まっていた赤い外車に乗り込み、すぐに車を走らせて行ってしまった。
どうしようかとそのまま少しの間呆然としていたが、やっぱりあの男性が言っていたとおり、未だに雨が弱まる気配はない。辺りの街灯は灯り始め、外はますます冷え込んできた。このままでは本当に風邪を引いてしまうかもしれない。せっかく渡されたんだ、この際ありがたく使わせてもらおう。
女性が持つには明らかに大きすぎる傘をさし、さっきの出来事と最低男のことを思い出しながら、駅に向かって早歩きで足を進める。癪だけどあの人に言われたように、傘を持っていないもう片方の手でバッグを胸の前で抱えて。
一体なんだったんだ、あの人は。信じられない。あんなにジロジロ見なくたっていいのに。知らない人にあんな恥ずかしくてはしたない姿を見られてしまっては、もう一生お嫁に行けない。……嫁入りするようなところもないけど。
脳内でさっきの人に対して「気持ち悪い」だの「変質者」だのある程度文句を並べ始めたところで、傘に落ちる雨音を聞きながら、少しずつ冷静な思考の自分も戻ってきた。
……あの人に教えてもらっていなかったら、私は自分の服の状態など何も気にしないまま、何事もなかったかのように普通に満員電車に揺られていた。
この傘を渡されていなければ、私は雨が弱まるまであのコンビニにいて寒さに耐えていたか、雨に降られながら帰り、もっと全身びしょ濡れになっていた。透けるのはキャミソールだけじゃなかった可能性も十分ある。それこそお嫁に行けないどころの話じゃない。
あの人……まさかそこまで考えて、あえてあんなことを言ったのだろうか。私があのまま電車に乗って、もっと恥ずかしい思いをしたり、痴漢にあったりしないために。
私のこの推測が当たっているかは分からないけれど、私、何も考えずに勢いのままあの人に「変態」なんて口走ってしまった。当然傘のお礼も言ってない。名前すら聞いていなければ、どこの誰かなんてもっと分かるはずがない。偶然降ってきた雨のせいで、偶然コンビニに寄り、偶然あの男性がいた。あの人とは、きっともう二度と会うこともないだろう。
もしかしたら私が自分に都合よく解釈しているだけで、あの人はそこまで考えてなんていなかったかもしれないし。傘を貰ってしまったのは申し訳ないけど、だからといってあの人にこれを返す術もない。お礼を言えなかったことと、暴言を吐いてしまったことが少しだけ心残り。
そんなことを考えている間に、気付いたら私の足は駅に着いていた。その頃にはあんなにどしゃ降りだった雨は上がり、雲の切れ間からは三日月が見える。
「なんだ、雨止んだじゃん……」
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