星の欠片
あの日のことを教訓にした私は、あれから一ヶ月が経った今でも毎日、必ず折り畳み傘とカーディガンを鞄に入れて持ち歩いている。どうやらあの雨の日に"知らない男の人から傘を借りた"ということが、私の中ではちょっとしたトラウマになっているのかもしれない。

あのとき貰ってしまった傘はどうすることもできないので、今も自宅の傘立てに置いたままにしている。傘の持ち主の男性の顔なんて一目見ただけだし、もう覚えていない。……と、思っていた。


「ありがとうございましたー」

私の職場は都内のとあるコーヒーショップ。シフト制なので朝早く出勤したり、夜遅くなったりと日によって勤務時間はまちまちだ。女性の帰りが遅くなるのは危険だから、と店長が気遣ってくれるおかげで普段は専ら早番要員とされているのだが、今日はどうしても入れる人がいないからということで久しぶりの遅番勤務だった。

「苗字さんごめんね、帰り遅くなるけど大丈夫?」
「終電に間に合えば大丈夫ですよ〜」

閉店は午後九時。そこからクローズ作業をして帰ったとしても、終電には余裕で間に合う。この時間に入るのは久しぶりなのでどんな感じなのかと思っていたけど、閉店の一時間前ともなると客足は思っていたよりも落ち着いていた。ちょっと前までの混雑が嘘みたいだ。

時間が違うと来るお客さんももちろん違う。朝には見かけない人がいたり、逆に朝来る人が夜にも来ていたり。今入ってきたスーツ姿の男性も後者の一人。

「いらっしゃいませー」
「あれ!? 苗字さんこの時間にいるの珍しくない? 今日どうしたの?」

慣れたお客さんならお店に入ってすぐレジに向かってくることは当然のことなのだが、この人、佐藤さんは本当に他に目もくれることもなく、真っ直ぐこちらに向かってきた。朝、仕事に行く前にコーヒーを買いに来る常連さんで、気軽に世間話ができる数少ないお客さんだ。

「たまたまですよ。佐藤さん、夜も来てくださってたんですね。いつもありがとうございます」
「この時間に来るのは時々なんだけどね。でも苗字さんがいるなんてラッキーだなー。ねぇ、今度一緒にお茶しない?」
「はいはい、そんなことばっかり言ってると奥さんに怒られますよ?それよりご注文はどうされます?」
「ははっ、つれないなぁ。じゃ、いつものお願いできる?」
「分かりました」

男性と話すのはまだ少し苦手。だが仕事となれば話は別。マニュアル通りのことなら話せるし、ある程度慣れた人に対しては人並みには話せる。苦手というよりは、どちらかというと人見知りなのかもしれない。

佐藤さんとも今でこそこんな風に冗談を言い合えるけれど、最初の頃は本当にひどいもので。先ほどのようなことを言われた日には、なんて返したらいいのか分からず黙り込み、思わず逃げ出したくなったりちょっと泣きそうになったり。佐藤さんに「冗談だし悪気はないから」と散々謝られて、逆に迷惑をかけてしまったことも記憶に新しい。

それが今ではこんな風に気さくに話せるようになった。あの出来事があったから話せるようになったというのもあるけれど。佐藤さんのおかげで男性と話すことに以前より抵抗はなくなった。私の苦手意識を克服させてくれた人。だから佐藤さんには感謝をしている。

「お待たせしました」
「ありがとう苗字さん。また会いに来るからね」
「ふふっ、またお待ちしてます」

出来上がったコーヒーを佐藤さんに渡すと、爽やかな笑顔を残してお店から出ていった。

「ありがとうございましたー。いらっしゃ……あっ!」

佐藤さんと入れ違いのタイミングで入ってきたのは、ニット帽を被った背の高い男性。


── 一ヶ月前、私に傘を貸してくれた男性。


私が思わずあげてしまった声に向こうも気づいたようで、この間のグリーンの瞳とばちりと目が合った。雨の中、コンビニの逆光ごしに見たときよりもはっきりと見えた男性の瞳は、まさに翡翠が埋め込まれているかのように綺麗な緑をしている。

「あのときの……!」

ポケットに手をつっこみながらこちらに向かってくる男性は、やはり先月傘を貸してくれた人で間違いないと思った。コンビニでたった一目見ただけだったし、あの日からもう一ヶ月も経っている。どんな人だったかなんて忘れたと思っていたのに、この人が入ってきた途端、「あのとき傘を貸してくれた人だ!」と私の脳が瞬時にそう判断した。一ヶ月も前のことなのに、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。

「君は……この間コンビニにいた子か。ここで働いていたんだな」
「まぁ……」

カウンター越しで私の目の前に立つこの人は本当に背が高くて、顔を見るにはまぁまぁ見上げなければならない。あのときは隣にいたためそうも高いとは思わなかったが、こうやって正面で向かい合うと少し威圧感がある。

「風邪引かなかったか?」

無愛想なのに、かける言葉も口調も別人のように優しかった。まさか気遣ってくれるなんて思ってもみなくて、突然の優しさにどうしても戸惑いを隠せない。心なしか自分の鼓動がいつもより早くなっているような気がした。

「大丈夫、です。あの……傘、ありがとうございました」
「大したことはしていない。コーヒーひとつ、もらえるか?」
「はい、あ、三百円です」

男性からお金を受け取り、奥へとオーダーを通す。最初に顔を見たっきり、なんとなくこの男性の顔を見ることはできなかった。半分は"男性"という存在への恐怖感、もう半分はこの人の目を見つめることへの緊張感。後者は何故だが分からない。ただ、目を見たらきっと逸らせなくなる。私の本能がそれを無意識の内に察知していた。

「ずっとここで仕事を? 一度も見かけたことはないが」
「えぇ、まぁ……。普段は朝からのシフトが多いので、この時間にはいないんです」

今の口ぶりからすると、この人はどうやらこの時間によくここに来る常連さんのようだ。もう二度と会わないと思っていた人に、こんな身近な場所で再会するなんて思いもしなかった。いつかお礼は言いたいと思っていたけれど、それがこんなに早いなんて。

お客さん相手とはいえ、やはり慣れない男性とこういう風に話すのは妙に緊張してしまう。早くこの空間から解放されたい。そういう思いで後ろを振り返ると、ちょうど男性が注文したコーヒーが入ったようだ。

「お待たせしました」

いくら恐怖感があっても今の私は店員で、この人はお客さん。さすがに渡すときまで下を向いている訳には行かず、コーヒーをカウンターに置いてから顔を上げると簡単に目が合ってしまった。あぁ、思った通り。やっぱり目を逸らせない。吸い込まれそう。

「ありがとう。これからは君がいる時に来るとしよう」

ずっと無愛想だったのに、最後にそう言ったときには男性は微かな笑みを浮かべていて。コーヒーを受け取った後、また片手をポケットに入れて、何食わぬ顔でお店から出ていった。


今の表情は何……?

無愛想だと思っていた人が笑顔を見せた。それだけのこと。本当にそれだけのこと。なのに、どうして私の心臓はこんなにも大きな音を立てているのだろう。

全身の血液が顔に逆流しているのではないかと思えるくらい熱くて、耳までジンジンしている。多分顔は真っ赤。他のお客さんが誰もいなくてよかった。

心臓の音は大きく、速くなるばかり。何かが変。自分が自分ではなくなってしまったようなこの感じ。私、とうとうおかしくなってしまったのかもしれない。

佐藤さんにも何度か同じようなことを言われたことはあるけれど、佐藤さんのときとは全然違う。いつも佐藤さんにしているのと同じように聞き流せばいいだけなのに、なぜかそれができなかった。

今もまだあの人の言葉がはっきりと耳に残っている。

何より、先程彼が見せた笑顔。笑わないと思っていた人が笑った。こういうのをギャップと言うのだろうか。あの人のあの笑顔が頭から離れない。本当に私、どうしてしまったのだろう。


ぐるぐると回り続ける思考のまま、はっと気づいて頭上の時計を見上げると、その針はもう九時を指している。

長い夜の勤務時間がいつの間にか、一瞬で終わりを迎えていた。


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