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赤井さんと最後に会ったのは何日も前のことだ。あの日──病室で襲われそうになった日以来、私が彼の病室に行くことはなかった。

『シュウの退院日が決まったわ』

ジョディさんが電話で教えてくれたけれど、私には迎えに行くことができなかった。私は彼に必要とされていない。会ったところでどんな顔をすればいいのかも分からないし、彼自身も私がその場にいることを望んでいないだろう。そして何より、またあの氷のような視線を浴びせられるのが怖かったのだ。

あのとき赤井さんが掴んだ私の手首には、もう彼の手の感触は残っていない。忘れたくないのに、忘れたかった。掴まれた手首を自分の手でぎゅっと握っては、震えないように胸の前で押さえる。

「赤井さん……」

彼のことを想い、何度涙を流したことだろう。どれだけ泣いても胸の痛みが消えることはない。赤井さんが元に戻ることはないのだろうか。もう私に笑いかけてくれる日は来ないのだろうか。

赤井さんが生きていてさえくれればいい。彼が重体だと聞いたときには確かにそう思った。今でももちろんそれは思うけれど、彼の中から私が消えるなんて思いもしなかったのだ。そしてそれがこんなにも辛いということも。

「桜……散っちゃった……」

赤井さんが記憶を失う前、一緒に行こうと約束していた場所。私達が出会った、思い出の場所。病院に行かなくなった代わりに、私は毎日のようにこの公園に足を運んでいた。

「赤井さんと……一緒に来たかったな……」

大きな桜の木を見上げては、ポロポロと涙を零す。あの日と同じだ。涙が落ちないように上を向いてみるけれど、溢れんばかりに溜まった涙はすぐに頬を伝った。

「さよなら、お元気で……」

彼と出会ったこの場所で、彼に別れを告げる。直接伝えることができない感謝の思いを込め、ぽつりと呟いた。止まらない涙が次々と溢れ出すのと同時に、彼との思い出が走馬灯のように流れてくる。

好きだった。本当に大好きだった。きっとこれ以上好きになれる人に出会うことはないだろう。不釣り合いだと思って、不安がって、赤井さんのことを信じなかったから、神様は私にバツを与えた。そしてこれは私なんかが彼の恋人には相応しくない、という神の思し召しなのかもしれない。

赤井さんも私のことを忘れてしまったのだから、私も赤井さんのことを忘れて、思い出も全てなかったことにして楽になりたい。私の記憶も全部、全部消えてしまえばいいのに。



「やっと見つけた」

突然背後から聞こえたのは、聞き覚えのある心地よいテノールの声。いや、聞き覚えがあるどころじゃない。だってその声は、ずっと聞きたいと思っていた愛しい人の声なのだから。泣き腫らした顔だということも忘れて、声がする方へと振り返った。

「やはりここにいたか」
「なん……で……」

赤井さんが、とても優しい目をしてこちらを見ている。あのときの冷たい視線が嘘のように穏やかで、それは記憶を失う前に私に向けてくれていたものと同じ。
まさか記憶が戻ったのだろうか。すぐにでも駆け寄りたいのに、また拒絶されるのではないかと思うと体が言うことを聞かない。

「名前がいるとしたらここだと思ったんだ。一緒に来たいと言っていただろう」
「覚えて……っ、あの……記憶……」
「全て思い出したよ。君が俺の恋人だということも、大切な人だということも。……本当にすまないことをした」

再び大粒の涙がこぼれ落ちる。赤井さんの記憶が戻った。私の名前を呼んでくれた。私が恋人だと、大切な人だと言ってくれた。喜びとも安堵とも言えない、でもどこかほっとしたような不思議な気持ちが心の奥から湧き上がる。

溢れる涙を両手で何度も何度も拭い、滲む視界の先にいる赤井さんを見つめた。動けない私に赤井さんが少しずつ近づき、どんどん私達の距離が縮まっていく。
そしてゼロ距離になったかと思ったら、ふわりと体が赤井さんの腕に包まれた。久しぶりに感じる彼のぬくもりに涙が止まらない。

「名前……」

私の耳元でそっと赤井さんが囁く。愛おしげに、大切そうに優しく囁く。その声で本当に赤井さんが思い出したのだと確信めいた気持ちが沸き起こり、私も赤井さんの背中にゆっくりと両手を回した。

「約束、守れなくて悪かった」
「いいんです……赤井さんが、いてくれるなら……」

赤井さんがぎゅっと抱きしめてくれたので、私も同じように彼を抱きしめ返す。再び一つになった私たちの影。太陽が私たちの未来を明るく照らしているような気がした。



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