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どこの誰なのかは未だに分からないが、性懲りもなく毎日のようにやって来る女性。最初にここで彼女に会ったとき、ジョディといたのだからFBIの仲間なのかとも思ったが、彼女に見覚えもないしFBI捜査官であるというオーラも感じなかった。
だからといって敵だとか、そういう殺気立ったものすらも感じない。一般人を簡単に連れ込めるような警備体制なのかと本来ならばジョディに問いただしてやるところだが、この女が何者なのか問い掛けた直後の愕然とした二人の表情を見たら、さすがにそんなことはできなかった。
意識が戻る前、夢でも見ているかのような非現実的な世界にいた俺は、遠くから誰かに名前を呼ばれた。その世界には色がなく、俺の名前を呼ぶ人物の顔には靄がかかっているかのようにぼやけている。更に遠目だったのでそれが誰なのかは分からなかったが、どこか懐かしい声だった。この声の主を一人にしてはいけない。頭ではそれを理解しているのに、どうやっても声の主に追いつくことができなかった。
それでも俺は追いかけた。声の主を守るのは俺だという妙な確信と使命感の元、迷うことなく声のする方へと向かった。
声が聴こえる方角からは、こちらに向かって光が差し込んでいる。光に導かれるように更に足を進めていくと、その先に広がっていたのは色づいた世界だった。
そこに辿り着く直前、俺は意識を取り戻した。同時に今見ていた夢のような世界の記憶はなくなり、先程まで俺の名を呼んでいたのがどんな人物だったのか、どんな声だったのか、何一つ俺の中には残っていない。
ベッド、点滴、カーテン。病院にいるということはすぐに理解した。しかし目が覚めたときに俺の目の前にいて、俺の手を握っていたのは見知らぬ女性だったのだ。
「誰だ?」
反射的にそう口にした。見覚えのない女が涙を流しながら俺の手を握りしめているのだから、俺の反応は至って普通だったはず。だが、そう問い掛けた直後のこの女とジョディの表情は、とても言葉では表現し難いものだった。
当然俺には何故この二人がそんな表情をしているのか解るはずもない。
女性の手を振り払い、一体何が目的なのかを見極めるために女性をじっと観察した。この女が一般人だと気付いたのはこのときだ。
一般人であればここにいるべきではない。そういう類いの言葉を口にする度に女は涙を流し、ジョディは俺に向かって罵声のようなものを浴びせる。なんとなく居心地が悪かったし、理由が解らないとはいえ女を泣かせていい気はしない。
だから、彼女が帰ると言って部屋を飛び出したときは正直安堵した。
後に医者から記憶喪失だと告げられた。全ての記憶が、という訳ではなく、一部の記憶だけが欠けているそうだ。
確かに心の奥に空虚感はある。しかしこの空虚感が記憶を失ってからできたものなのか、記憶を失う以前から俺の中に存在していたものなのか判断することは不可能だった。
医者によると、日常生活に支障を来すような記憶には何ら問題はないらしい。一体俺は何を忘れているのか。ジョディや他の同僚たちは何かを知っているようだが、このことに関しては誰一人として頑なに口を開こうとはしない。
『シュウが自分で思い出さないと意味がないのよ』
その一点張りだった。
俺は一体、何を忘れているのだろうか。
◇
明くる日も、その女はジョディと共にやってきた。ジョディの影に隠れるかのように、一歩後ろで控えめに立っていた。ジョディが俺と話をしている間も、彼女は口を挟むようなことはしない。俯きがちな顔にはどこか悲しみの色が見えたような気がしたが、俺は彼女を避け、ジョディだけを視界に入れた。とても彼女の表情を見ていられなかった。
「あ、ごめんなさい。ちょっと電話してくるから、名前はここにいて」
名前、と呼ばれた女をその場に残し、ジョディはそそくさと病室を後にする。残された彼女はどうやら居心地が悪いのだろう。先程から表情を変えず、不安げで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「……なぜまた君がここにいる? 俺に何か用でもあるのか?」
昨日と同じような表情。俺の問いに一瞬びくりと反応を示した後、彼女は恐る恐る口を開いた。
「あの……赤井さんが、心配で……」
「そうか……」
俺を心配してやってきた? 何故、何のために。
見知らぬ女が俺のことを心配するような義理はないだろうが、口ぶりからすると彼女は俺のことを知っているようだ。
──俺が忘れているのは、この女のことなのだろうか。
「ジョディと一緒に来たということは、君は俺たちの関係者か?」
長い沈黙の後、俺は再び彼女に問いかけた。そうやって彼女が何者なのか探りを入れていく。『誰だ?』と初めて目の前に現れたときのように、ストレートに聞くことはできなかった。また彼女にあの顔をさせることが解っていたからだ。何故だか分からないが、彼女にあの顔はさせたくないと思った。直感的に。
「いえ……私は──」
そこまで声に出し、彼女は口を噤んでしまった。
私は=c…なんだ? 何を言おうとした?
彼女が口を開くのを待っていたが、一向に話そうとはしない。じっと彼女を見つめても口を開こうとはせず、俺の視線に耐えられないのか俯いてしまった。
「君は一体──」
思わず口から飛び出した言葉。何も考えずに言葉を発したことなど、今までにあっただろうか。そうさせてしまうほどの何か≠ェ彼女にあるのだろうか。この女は一体何者なんだ。疑問ばかりが次々と浮かぶ。
「いいんです。私、待ちますから。……また来ても、いいですか……?」
今にも泣きそうな顔をしながら、彼女はか細い声で問いかける。俺に拒絶されるのを恐れるように。
「勝手にしろ」
そう言い放った。いや、そうとしか言えなかった。どこの誰だか分からない奴に優しくする必要はない。敵意がないように見えても、この短時間で本質まで見抜くことは不可能だ。いくらジョディと親しいからと言って彼女がスパイなのではないか、という疑念を簡単に捨て去ることができないのは職業柄。彼女が何者なのか知りたい。そういう好奇心もあった。
彼女は悲しそうに微笑んだ。
◇
日が経つにつれ、少しずつ彼女に対する警戒心は薄れていった。俺から何か情報を得ようとする様子はないし、不審な素振りも全く見られなかったため、一般人であると断定できたからだ。
特に何をするわけでもなく毎日のようにやってきて、しばらくすると帰っていく彼女。今日はその彼女に俺から話しかけた。
「聞きたいことがある」
「何ですか?」
彼女の伏せがちな瞳がほんの少し見開かれる。
「君の名前はなんと言うんだ?」
俺がそう問いかけると、見開かれた彼女の瞳が小さく揺れた。そして僅かな間の後、彼女は囁くように答える。
「……苗字、名前です」
彼女が名乗った瞬間、頭の奥がズキッと痛んだ。どこか懐かしいような、その名前を遠い記憶の彼方で憶えているような、妙な感覚と共に。
「赤井さん……?」
思わず顔をしかめてしまったせいか、苗字という女が心配そうに俺の顔を覗き込む。
「大丈夫だ。……すまない、やはり知らない名だ」
いくら懐かしい感覚があったとしても、もしも抜けている記憶がこの女のことであったとしても、今の俺にとって知らない名であることは事実。正直にそれを伝えると、彼女の表情から色が消えた。
「……そう、ですよね……」
ぽつりと漏れたか細い声。心なしかその声は震えているような気がした。そして俺から視線を逸らし、そのまま目を伏せる。
こんな顔をさせたいわけではない。
頭の奥からそんな思いが沸き起こる。この女が何者なのか、この女と俺がどういう関係だったのか、誰一人として話そうとしないのは何故なのか。俺の頭に浮かぶのは、相変わらず疑問ばかり。
ただ、分かったことがある。
彼女がここにやってくると悲しそうに笑う。
そしてその原因が俺であることは紛れもない事実。
ここにやってくることで彼女に辛い思いをさせるのなら。
──俺は彼女を突き放す。
「きゃっ……!」
強引に彼女の腕を引き、ベッドへと招き入れる。そしてそのままの勢いで自分と彼女の体の位置を入れ換え、手早く彼女をベッドへと組み敷いた。潤んだ瞳が怖々と俺を見つめている。
「あ、かい……さん……?」
やはり声が震えている。しかし先程とは違う類いの震え方。彼女が俺に怯えているということが目と声から伝わってきた。彼女が誰で、俺とどういう関係なのか分からない以上、彼女を突き放すのに手段は選ばない。
「苗字、と言ったな。分かっているとは思うが、いくら怪我人とはいえ俺も男だ。男の病室にいつも一人でやってきて、君は俺を警戒することなく無防備に振る舞う。君がどこの誰だか知らんが、こういうことでも期待していたのか?」
彼女に男≠ニいうものを知らしめ、もうここには来られないようにしようと思った。本当に抱く訳ではない。少し脅かして、ここに来ようとする意思そのものを喪失させるだけだ。
俺の言葉を受け止めた直後、彼女の目から涙が零れた。正直、この顔は見たくなかった。もっと他の方法で彼女を遠ざけることができたなら彼女はこの涙を流すことはなかったし、俺もこの涙を見ることはなかったのだが、俺にはこの方法以外思いつかなかった。
彼女に恐怖心を抱かせることに罪悪感が芽生え、心がチクンと痛んだが、ここまでしたからにはもう後には引けない。
俺の手を振り払おうとして彼女が腕に力をいれる。しかしこの程度の力では俺の手などびくともせず、静かに涙がこぼれるだけだった。
自分自身の左手を自由にするために、彼女の手首を頭上でひとつにまとめ上げる。そして空になった左手を彼女の脚へと這わせた。ゆっくりと、男女の営みを思い起こさせるようにいやらしく。するりと太腿を撫で上げたところで、彼女は声をあげた。
「……ッ、やっ……! 赤井さん、っ……いやッ、やめてっ……!」
彼女が俺の手を振り払おうとしているのが分かる。ポロポロと涙を流しながら、必死で俺から逃れようとしていた。彼女が俺に向ける視線の中には恐怖が滲んでおり、俺を軽蔑し、拒絶しているかのようだ。さすがにやりすぎたと思った。だが、今更そう思っても後の祭り。
「これ以上こういうことをされたくなければ、もう二度とここには来るな」
彼女の腕を拘束した手を緩め、再び自由を与える。軽く覆いかぶさった体をゆっくりと起こす。大粒の涙を流す彼女の顔を見ていられず、ふいと視線を逸らす。
すると、俺が彼女の上から完全に退く前に、彼女の手が俺の体を思い切り突き飛ばした。
「……っ、赤井、さんの……ばかっ……」
溢れる涙を一度も拭うこともせず、彼女は一言だけ漏らして出ていった。俺の顔を見ることもしないまま。
彼女がいつか見舞いに持ってきた花が、小さく揺れていた。
彼女が病室を後にしてから十数分もしないうちに、今度はジョディがやってきた。
「ねぇ、今名前とすれ違ったんだけど何かあったの? あの子、泣いてたわよ」
開口一番、ジョディはそう言った。
「ジョディには関係のないことだ」
彼女に何をしたのかなどとても説明することができないし、説明する気も義務もない。ジョディと彼女が友人であるなら尚更だ。
「確かに私には関係ないかもしれないわ。でもあの子をここに呼んだのは私。あの子、シュウのこと本当に心配しているのよ」
ジョディも彼女のことを心配しているというのが、表情と口ぶりから伝わってきた。
「……彼女はここに来るといつも無理して笑顔を作っていただろう。俺の顔を見るたびに泣きそうな顔をするのに、だ。それならもうここに来ない方がいい。だから彼女にはもう来るなと告げた」
彼女を組み敷いてここから遠ざけようとした、などとは口が裂けても言えないが、それを除けば大方間違いではないだろう。更に続ける。
「何故だか分からないが、あの女を泣かせたくないんだ。先程彼女を泣かせたのは俺だというのに、おかしな話だな……」
彼女の泣き顔を思い出しながら自嘲気味にふっと小さく笑ってみれば、ジョディは「そう……」とだけ漏らし、それ以上は何も言わなかった。
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