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何度も何度も名前を欲し、そして名前もそんな俺に応えてくれた。結果的に名前を抱き潰すことになってしまい、無理をさせたことに対して罪悪感が募ったが、隣で幸せそうな顔で小さな寝息を立てている彼女を見ると、不思議とその罪悪感はすべて幸福感に置換されていく。

ベッドの端に腰掛け、サイドテーブルに置いた煙草を一本咥えて火をつけた。細い煙がゆらゆらと立ち込めるのをぼんやりと目で追いながら、煙を肺に取り込む。ふぅ、と一息吐き出せば、煙草の先からのぼる煙とは違う軌道を辿りながらも最終的には同じところへと行き着く。まるで今の俺と彼女のようだとふと思った。

煙草を口に咥えたまま、すやすやと眠る名前の頭にそっと手を伸ばす。小さく頭を撫でた後、するりと髪を梳いた。さらさらの髪は指に絡まることなくすとんと俺の指を通り抜けていく。

名前が隣にいる。彼女に触れることで改めて存在を感じ、愛おしい気持ちが沸々と胸の奥からこみ上げてくる。そしてその事実が俺の表情筋を柔らかくさせ、自然と口元が緩むのが自分でも分かった。
名前の頬に掌を重ねると、彼女の口から漏れるのは「ん……」という無防備な声。続けて重たそうな瞼をゆっくりと持ち上げた。

「すまない、起こしてしまったな」
「ううん、大丈夫。おはようございます」
「おはよう」

とろんとした瞳がゆっくりと俺に焦点を合わせ、横になったまま見上げている。眠気の残った声は普段よりも少し幼気で可愛らしい。まだほとんど残っている煙草の先を灰皿に押し付け、残った煙を吐き切った。

「ねぇ赤井さん、いつ……記憶が戻ったんですか……?」

俺の背中に向かって話しかける彼女。そんな彼女ときちんと話をするために、体の向きを元に戻してヘッドボードにもたれかかる。俺が正面を向き直して隣に座ると、名前もゆっくりと体を起こした。

「ちょうど退院するときだ。桜が……」

全てを言いかけて、途中で言葉を飲み込んだ。

いつ記憶が戻ったのか。それは退院したその日──正確には病院を後にした直後のことだった。





「悪いな。ジョディ、キャメル」
「いえ、自分にはこれくらいしかできませんから」
「そうよ。何でも言って」

退院の日。外傷はほぼ完治しているが医者から無理は禁物だと告げられたため、退院時の荷物持ちや送迎を二人が手伝ってくれた。

外の空気に触れるのも、青空の下に立つのも随分と久しい。雲ひとつない春空からは、穏やかな陽の光が優しく降り注いでいる。それがまた未だに俺の心の奥に存在している空虚感を、はっきりと浮かび上がらせているような気がした。

春を告げる風が花の匂いを包み込みながら、静かに俺たちの周囲を舞っている。その中に微かに感じた桜の匂いにつられて風上を見てみれば、大きな桜の木が病院の敷地内にそびえ立っていた。

既に満開を迎えた桜の木からは花びらがひらひらと舞い落ち、一枚散るごとに少しずつ見頃を終えようとしている。そんな桜の木の下に、入院患者だろうか、見知らぬ一人の女性が儚げに佇んでいた。

「名前……」

見知らぬ女性を見ながら、俺は彼女の名前をぽつりと口にしていた。

──どうして彼女の名を?
名前を呼んだことなどないはずなのにその名が妙に懐かしく、そして随分と呼び慣れた名のように感じる。まるでその名を呼ぶことが当然であり、必然であるかのように。

彼女の名前を口にした途端、頭の奥がズキンズキンと痛みだしたかと思えば、痛みがある部分から過去の記憶が走馬灯のように次々と蘇ってくる。

『赤井さん……』

目を閉じれば彼女が俺を呼ぶ声が頭に響く。

『またあの桜を赤井さんと見たいなって……』

彼女との約束、彼女と交わした言葉。そして、彼女への想い。全ての記憶が一気に蘇った。意識が戻った直後から心に空いていた穴。それが桜の木を見ながら彼女の名を呼んだことでどんどん塞がり、そして彼女への気持ちが溢れ出す。

彼女が俺にとってどういう存在だったのか。彼女のことをどう思っていたのか。

「名前……!」

俺は彼女──名前のことを、全て思い出した。

「シュウ!?」
「ジョディ、名前の家に……いや、いい」

すぐにでも名前に会いたいと思った。全て思い出したと、心配かけてすまなかったと伝えたいと思った。しかし同時に思い出されるのは、入院中、俺が彼女にしたことと銃口を突き付けたような言葉の数々。散々彼女を傷付けた俺に、彼女に会いに行く資格があるのだろうか。

「もしかして記憶が戻ったの!?」
「あぁ……」
「じゃあ今すぐあの子の家に……」
「いや、今はいい。少し時間が必要だ」
「そう……」

ジョディはそれ以上のことは何も言わず、俺を自宅に送り届けてくれた。





「桜が……なぁに?」
「いや、桜がまた君と俺を引き合わせてくれたようだ」

まさか全く見知らぬ女性と名前が重なったとは言えずに言葉を濁す。こんなときでも言葉足らずな自分に呆れて自嘲気味に笑ってみれば、隣に座る彼女がそっと俺の肩に頭を預けてきた。

「それならなんで記憶が戻ったとき、すぐに来てくれなかったんですか……? 退院したの、何日も前ですよね……?」
「……君に拒絶されるかもしれないと思ったんだ」

勝手な言い分だ。記憶を失っていた俺は彼女を拒絶したというのに。

名前の家を訪ねても会ってもらえず、門前払いされるかもしれない。俺が名前にしたことはそれほどのことだという自覚があったからこそ、すぐに会いに行くことができなかったのだ。

このまま二度と会わないことも考えたが、日に日に彼女への想いは募るばかり。俺にとって名前はそれほどまでに大切で必要な存在なのだと、日が経つにつれて改めて実感させられた。

少し時間はかかってしまったが、もう一度名前に会いたい。会って話がしたい。すぐに名前の家に行ったのだが、いくら呼び鈴を鳴らしても反応はなかった。

どこにいるのだろうかと考えたとき、ふと頭をよぎったのがあの場所──俺たちが出会った公園の桜の木の下だった、というわけだ。

「……しませんよ。するわけないじゃないですか。ずっと……ずっと待ってたんですから……」
「ありがとう」

名前が更にこちらに身を寄せる。俺の身体に両腕を回して、縋るようにすり寄った。そんな名前が更に愛しくなり、俺も彼女をそっと抱き寄せる。

彼女が俺の中にいないだけで心にポッカリ穴が空いていた。失ってから初めて気付くとはよく言ったものだが、まさか身をもって経験することになるとは思いもしなかった。
彼女を思い出したことでようやくすべてのピースがはまり、もう名前は俺の一部なのだと、決して手放してはならない存在なのだと、この一件を通して改めて思い知ったのだ。

「名前……」
「ん……赤井さん……」


「俺と結婚してください」


名前の瞳が潤み、頬は桜色に染まっていた。



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