幸せになるための選択肢
ひどい雨の日のことだった。

「話したいことがあるんだけど……」

デートの帰り道、もうじき名前の自宅前に到着するという時、突然神妙な面持ちをした名前が俯きがちにぽつりと呟いた。ハンドルを握る赤井はそんな彼女の表情をちらりと盗み見て、再び正面へと向き直す。

──嫌な予感がした。盗み見た名前の横顔には色がなく、更に眉尻を下げたまま、きゅっと小さく唇を噛みしめている。そして何より決定的だったのは、名前の瞳が僅かに潤んでいたからだ。

「どうした?」

赤井は眉一つ動かすことなく、単調な声色を保ったまま名前に問いかけた。車は交差点に差し掛かる。名前の自宅はこの交差点を左に曲がり、次の信号を越えた先。赤井は左にウィンカーを出し、片手でハンドルを切った。外は土砂降りだというのに、小さなウィンカーの音がやけに耳に入った。

「秀一さん、あのね……」

交差点を曲がった直後、名前が重い口をゆっくりと開く。車の走行音と雨音に掻き消されてしまいそうなほどの小さな声だった。赤井は一音も聞き漏らさないようにと耳を澄まし、名前の声を拾う。そんなことをしなくても、愛する彼女の声を赤井が聞き漏らすことなどないのに。

「私と、別れてほしいの……」

ピンと張り詰めた空気に名前の声が響く。か細いのに凛とした声には、名前の強い意思が込められているようだった。赤井の耳にはもう名前の声しか届いていない。雨が打ち付ける音も、けたたましいエンジン音ですらも耳に入ることはなかった。

赤井は自らの耳を疑ったが、名前の言葉しか耳に入っていないのだから聞き間違えるはずはない。聞き返すこともせず、聞こえたままの名前の言葉を理解するために何度か脳内で再生した。

交差点を曲がってから一定の速度を保って走行していた車が、緩やかに速度を落としていく。先に見える信号が赤に変わったのを確認した赤井が、丁寧にブレーキを踏んだ。

停止線手前でピタリと停車し、ふぅと小さく息を吐く。彼女は本気なのだろうか。つい先程までいつもと変わらない、花が咲くような柔らかい笑顔を見せてくれていたと思っていたが、何か彼女の気に障るようなことをしてしまったのだろうか。

赤井は自分の行動、そして名前の表情を一つひとつ思い返す。しかし、名前が別れを切り出すという選択をするに至った理由に辿り着くことはできなかった。

いくら思考を巡らせてみても、いくら頭の切れる男だとは言っても、人の心の内をたった一言から読み取ることは不可能に近いだろう。赤井はようやく名前の座る助手席へと視線を移し、名前がどんな表情をしているのか確かめた。先程と違ったのは、一筋の滴が頬を伝っているところだけだった。

名前が泣いている。赤井の前では今までに一度として涙を流したことのなかった彼女が、別れの言葉を発しながら泣いている。名前の涙を見た赤井はとうとうポーカーフェイスを崩し、自分でも無意識の内に眉間に皺を寄せた。赤井もまた、名前の前で顔を顰めるのは初めてのことだった。

「あなたの気持ちが分からないの……。ごめん、もう限界……」

名前は一向に赤井の方を見ようとはしない。赤井の視線に気付いているのにも拘わらず、敢えて視線をダッシュボードの辺りで固定したままにしているのだ。そのため、名前が赤井の神妙な面持ちを見ることはなかった。

強い意思は感じられるが、名前の声は僅かに震えていた。彼女なりの苦渋の決断だったのだろう。名前の言葉をそのまま受け入れるべきか、それとも引き止めるべきか──赤井は思案した。


信号が再び青に変わったというのに、赤井はなかなかアクセルを踏み込まなかった。ここで車を発進させたら、彼女とはこれっきりになる。そう予期していたからだ。車通りがそう多くない道路であるため、後続車が一台もいないのが赤井にとっては救いだった。

「信号……青になってるよ」

信号が変わったことに赤井が気付いていないと思ったのだろう。名前は涙を流しながらも水を差すように冷静に指摘した。頬を伝う涙を拭うこともせず、名前はただ、まっすぐに正面だけを見ていた。

「……気持ちは変わらないんだな?」

名前の意思を尊重しよう。それが赤井の出した結論だ。名前は物悲しげに微笑み、小さく頷いた。

「分かった」

赤井の車が鉛のように重い空気を乗せて走り出す。恋人関係に終わりを告げたのだ。これ以上、二人の間で交わす言葉はなかった。

車が走り始めると、すぐに名前の家の前に到着した。名前は赤井に背を向け、ドアハンドルに手をかける。名前が車を降りれば、二人の関係は完全に終止符を打つことになるだろう。

少し躊躇ってから、名前はゆっくりとドアハンドルを引いた。

「ばいばい。秀一さん、今までありがとう。元気でね」
「あぁ。名前も元気でな。……すまなかった」

赤井の最後の言葉を聞いて、名前はまたきゅっと唇を噛みしめる。そして雨音に負けてしまいそうなくらい小さな声で呟いた。

「ずるいよ……」

名前の声は、赤井の耳には届かなかった。

しとしとと降り続く雨は車を降りた彼女を濡らす。それを気に留めることもなく、名前は赤井に背を向けて、振り返ることもせずに家の中へと入っていった。





あれから数年。

『久しぶり。元気? 急にごめんね。ちょっと話したいことがあるんだけど、今大丈夫?』

ある日突然赤井の元に届いた一件のメッセージ。送り主は、数年前に別々の道を歩むことを選んだ元恋人だった。懐かしい人物からのメッセージに、赤井は口元をふっと緩ませる。

赤井にとって彼女は、とても大切な女性だった。過去に交際していた女性の誰よりも大切にしていたつもりだった。それこそ将来を共にしたいと考えるほどに。しかし、赤井の想いが名前に伝わる日が来ることはなかった。

月日は流れ、二人はそれぞれの想いを抱えたまま今日に至る。別れてからもなんとなく消すことができなかった連絡先。メッセージの送り主である彼女の名前が表示されたことで、赤井は名前の連絡先がまだ変わっていないと確信を得た。そしてそれはつまり、名前も赤井の連絡先を消していないのだという証明にもなる。

自然と柔らかな顔つきになった赤井は携帯の画面をじっと見つめたあと、徐に電話帳を開いた。そして名前の電話番号を選択し、呼び出し音を鳴らす。

携帯を耳に当てて数回コールしたところで、名前の「もしもし」という控えめな声が聞こえた。あの頃と変わらない鈴の音のように澄んだ声。そして月日が経ったことを改めて実感する、あの頃よりも少し大人びた声。赤井は懐かしさで胸の奥がじわりと熱くなったことに気が付いた。

「久しぶりだな。元気だったか?」

しかしそれを声に表すことはせず、いつも通り淡々と話し始める。赤井本人はいつも通りにしているつもりだが、実際は普段よりも幾分穏やかで、今でも名前が特別な存在であることを思わせるようなものだった。名前がそのことに気付いているかどうかは別として。

『うん、久しぶり。元気だよ。びっくりした、まさか電話かかってくるとは思わなかった』
「俺がかけなければ君から電話しただろう? 名前が『話がある』と言うときは余程のことがあるときだからな」
「えっ!?」

名前は心の底から驚いたような声を出し、自分自身の行動が赤井に読まれていることに感心の溜め息を漏らした。たかが一言、されど一言。名前にとっては、今でも赤井が一番の理解者なのだと思わずにはいられない一言だった。

まだ電話すると伝えた訳ではないのに、『話がある=電話したい』と結びつけ、更にそれが大事な話なのだと瞬時に理解する。赤井にとっては造作もないことだが、名前にとっては言葉なしで自分のことを理解してくれる存在というのはとても大きかった。今の彼女にとっては尚更だ。

『……すごいなぁ。今アメリカ? 時間……大丈夫だった?』
「いや、また日本に戻ってきたんだ」
『あ、そうなんだ。突然ごめんね。本当は直接話したかったんだけど……』

お互いにあまり踏み込みすぎず、当たり障りない距離を保って受け答えをしていたが、突如名前が均衡を破った。明らかに名前の声色が変わったのだ。消え入るような語尾、そしてトーンが下がった声に気が付いた赤井はぴくりと眉を動かした。

「ん? どうした? 何かあったか?」

名前を気遣い、できるだけ寄り添うように優しく問いかける。そんな赤井の包容力を久しぶりに感じた名前はまさに包み込まれ、元々口にしようとしていた言葉をぐっと飲み込んだ。そして次に発する言葉を模索し、少しの間黙り込む。

『……ねぇ、やっぱり今から会えない? ……ごめん、急にそんなこと言っても無理だよね。ごめん、忘れて!』

ようやく名前が口にした言葉は、赤井にとって思いがけないものだった。彼女自身も口に出した直後に申し訳なさ、図々しさが一気に募り、わざと明るく振る舞う。

電話越しで表情が見えないとはいえ、名前に“何か”があることは明白だった。先程から名前が何度も「ごめん」と謝罪の言葉を紡ぐことも、赤井が気にかける理由の一つとなっている。

名前にとってはただの過去の男かもしれないが、赤井にとっては一度は将来を考えた女性だ。どういう意味合いだとしても、名前が特別な女性であることには変わりない。

「……俺は構わないが、君こそこんな時間に出歩いて大丈夫か?」
『こんな時間って……まだ八時だよ』
「夜道には変わらんだろう。今から迎えに行く。住所は変わっていないか?」
『えっ……うん……』
「分かった。着いたら連絡する」

その彼女が何か悩んでいることがあるのなら、少しでも助けになってやりたいと思うのが男の性。名前の住む場所が当時と変わっていないことを確認した赤井は、電話を切るのと同時に車のキーを手にした。

赤井は車に乗り込み、無造作に煙草を一本取り出して薄い唇に咥える。火をつければゆらりと煙が立ち込め、すぐに車内には煙草特有の苦味のある匂いが充満した。運転席側の窓を開けて煙の逃げ道を作ってやると、外気に溶け込むように白い煙は逃げて行く。ふぅ、と一息ついてから腹に響くほどのエンジン音を轟かせ、名前の家に向かって車を走らせた。

ニ、三十分程度だろうか。両サイドに広がる懐かしい景色を時折横目で流し見ながら赤井はハンドルを握る。当時から変わらないもの、変わったもの。移ろいゆく景色を見ながら時の流れを感じた。月日が経ったのだから当然のことながら変化はあるが、赤井にとっての一番の変化はやはり助手席だろう。

何度となく名前を乗せて走った道。数年経った今でも道筋ははっきりと覚えている。差し掛かった交差点を左に曲がると、ようやく名前の家が見えてきた。

名前の家の前の路肩に車を停め、到着を告げるために電話を鳴らす。赤井が「着いた」と言えば名前は「すぐ行く」と答え、数分もしないうちに名前が出てきた。

髪が伸びていた。服装も年相応に、大人っぽくなっていた。しかし花が咲くような、柔らかな笑顔は当時と全く変わらない。彼女本人を目の前にして、赤井はほんの少し胸の奥がざわめき立つのを感じていた。

「久しぶりだな」
「しゅう……っ、赤井さん、久しぶり」

助手席の窓を開けて名前とまず一言言葉を交わす。昔の癖で下の名前で呼ぼうとした名前は咄嗟に口を押さえ、慌てて苗字に言い換えた。赤井は呼び方などそのままで構わないと思っていたが、彼女なりのけじめなのだろう。彼女との距離が少し遠くなったように思い、赤井はつい苦笑した。

今度は助手席のドアを内側から開け、赤井は名前に助手席に乗るように促す。名前も赤井に促されるまま、素直に赤井の車に乗り込んだ。名前がシートベルトを装着したのを確認した赤井は、ゆっくりとアクセルを踏み込む。

目的地は決まっていない。どこへ行く訳でもなく、あてもないまま、ただただ赤井は車を走らせた。
隣に座る名前の姿を見るのはいつぶりだろう。当時と変わらない横顔に、赤井はほんの少し口角を上げた。赤井の視線に気付かない名前は伸びた髪を耳にかける。街灯の光を集めた小さなルビーのピアスが、キラリと赤い輝きを放っていた。

名前はただ年相応に大人っぽくなっただけではないのだと、赤井はこのとき初めて悟った。全身に色香を纏い、“大人の女性”と呼ぶのに相応しい。

名前から漂う甘い香りは、赤井が知るものとは別のものだった。自分と別れてから名前に何があったのか。そして名前を変化させた男がいるのだろうか。

名前に今でも未練がある、という訳ではないが、勘繰らずにはいられなかった。だがそれを直接名前に問うつもりもないので、赤井は一人で推測するだけに留めた。

車に乗り込んでから、名前は黙り込んだままだった。赤井との久々の再会に多少なりとも緊張しているのもあるが、一番の理由は赤井を呼び出すことになった名前の“話”だ。

言い淀むような話とは一体何なのか。いくら赤井の頭脳を持ってしても、手がかりが全く無い以上分かるはずがない。


名前が自ら切り出すのをしばらく待ってみたものの、一向に名前は口を開こうとしなかった。赤井は落ち着いて話ができるように、と近くの公園の駐車場に車を停めた。

車のエンジンを切ったことで、車内はシンと静まり返る。名前は赤井の方を見ようとはせず、停車した今もダッシュボードの辺りで視線を止めたままだ。
 その瞬間、名前と最後に話した日のことが赤井の頭をよぎった。名前が自ら別れを切り出した、あの日の記憶が。

「どうした?」

数年前のデジャヴだろうか。昔のことなのに名前を隣にしたことで当時の記憶が鮮明に蘇る。赤井はあの日と同じ言葉で、でもあの日よりも名前に寄り添うように問いかけた。あの日と違い、今日は雲一つない星空が二人のやり取りを見守っている。

「あの……ね、」

ようやく名前が覚悟を決めたのか、ゆっくりと重い口を開き始めた。程よくグロスを塗られた唇が小さく形を変えながら、一つひとつの音を紡いでいく。

「私……結婚するの」

名前の小さな声が、車内に響き渡る。赤井は一言、「そうか……」と声を漏らした。

全く予想していなかった訳ではない。男がいるのかと勘繰っていたくらいなのだから相手がいることも想定していたし、彼女の年齢からしても適齢期と言える。だが、未練がある訳ではなくても、元恋人──それも一度は結婚を考えた相手──が自分以外の者と結婚すると聞いて、一ミリも動揺しない人間はおそらくいないだろう。そしてそれは赤井も例外ではなかった。

「秀一さんにだけは、どうしても伝えておきたいと思って」

先程はわざわざ苗字に言い換えたのに、今度はそれさえも忘れて付き合っていた頃と同じ呼び方をした。それだけ名前の心の内も平常ではないということだろう。

当時彼女から別れを切り出され、そして赤井もそれをすぐに受け入れた。名前の幸せを一番に願ったからだ。

その彼女が今、自分以外の男と幸せになろうとしている。名前が自ら選んだ道なのだから赤井はどうこう言う立場にはないし、本来ならば素直に祝福をしただろう。

 名前の表情があの日の空と同様にどんよりと曇り、雨を降らせようとしていなければ。


「おめでとう、でいいんだな?」

名前の表情を見兼ねた赤井は、思わず名前に問いかけた。名前にとっても赤井の返答は予想外だったのだろう。ずっと俯きがちだった名前がパッと顔を上げた。

「なんでそんなこと聞くの……? ……当たり前じゃん」
「それならもっと幸せそうな顔をしたらどうだ?」

名前は再び口ごもった。今の彼女に幸せそうな笑顔は全く見られない。それどころか、どこか悲しそうで、辛そうで、不安げな顔をしている。マリッジブルーの可能性も捨てきれないとは思いつつも、とても結婚を控えた女性のする表情ではないと赤井は感じていた。

結婚相手がどこの誰で、どういう経緯で結婚に至ったのか。その辺りの詳しい事情を赤井は知る由もない。しかし元恋人として、名前の幸せを願う者としては、名前が本当にこの結婚を望んでいるのどうか確かめたいと思った。

「その男……君の婚約者は、君を幸せにする力量があるのか? 君はその男と生涯を共にできるのか? ──本当にその男でいいんだな?」

名前を試すような言い方をしたかもしれない。名前を傷つけるような言い方をしたかもしれない。たとえそうだとしても、赤井は言わずにはいられなかった。それほど名前の幸せを切に願っていたからだ。

「……もう、決まったことだから……」

絞り出すような名前の声。名前の瞳が僅かに潤んでいた。この涙の意味を赤井が理解するには情報が足りないが、名前の心の内に秘めたるものがあることだけは確かだった。それは名前が赤井に返した言葉からも読み取れる。

“その男でいいのか”という問いに対する答えにしては、あまりにも受け身だと思った。名前には本当にその男と結婚したいという意思があるのか。この選択が名前にとって最善のものなのか。名前の人生なのだから全ては名前自身の選択なのだが、赤井は気がかりで仕方がない。赤井は更に名前に問いかける。

「何故俺に伝えようと思った? 俺は昔の男だ。君の婚約者も、君が昔の男と会っていると知ったらいい気はしないだろう。そうまでして俺に直接伝えたいと思った理由が何かあるんじゃないか?」
「それは……ッ! っ……なんでかな、分かんない……。でも、秀一さんにはどうしても直接伝えたいって思ったの……」

煮えきらない彼女の返事に、赤井は思わず目を見開いた。赤井にとって名前が特別な存在であるように、名前にとっても赤井はずっと特別な存在だったのだ。赤井が名前の気持ちに気が付いたのはたった今であり、皮肉にも名前が結婚を決めた後だ。

お互いがお互いを思いやっていることは、言葉の端々から読み取れる。そしてそれに気付いて行動に移すのか、それとも気付かないふりをするのかは赤井と名前次第。

「ごめん、それだけだから」

ふいっ、と名前は赤井から目を背けた。名前の出した答えだった。

「ありがとう。私、もう行くね。元気でね……赤井さん。ばいばい」

あの時と同じだ。赤井にさよならを告げて車を降りようとするところも、大粒の涙を流しているのに拭うこともしないところも。
名前は車のドアハンドルに手をかけて、赤井に背を向けた。

「行くな」

赤井は反射的に名前の腕を掴んだ。頭で考えるよりも先に、手と口が動いていた。あの時は引き止めることができなかった。そうすることが、自ら身を引くことが名前の幸せだと赤井は信じて疑わなかったから。だが今は違う。

「は、なして……」
「嫌だ、と言ったら?」
「……ッ!」

赤井が名前の身体を後ろから抱きしめる。名前と近づいたことで、赤井の知らない甘い香りがふわりと鼻腔をくすぐって逃げていった。

赤井の推測でしかないが、この香りの元となる香水も婚約者が彼女にプレゼントしたものかもしれない。緑の瞳が揺れたことに気付いた者は誰もいなかった。じりりと胸の奥に仄暗い火が生まれてつい舌打ちしそうになったが、それをなんとか抑えて言葉を続ける。

「好きだ」
 
赤井はようやく自らの気持ちに気が付いた。名前から連絡が来たときに胸の奥で燻っていた想いの正体。色香を纏う理由となった男の陰を見たときの、行き場のない想いの正体。そして、名前が結婚すると聞いたときに渦巻いた苦い想いの正体。

どれも名前の幸せを願うためのものだと思っていたが、それらは全て、名前に対する深い愛情だったのだ。

名前を誰の元にもやりたくない。誰にも渡したくない。あの日を境にして終わりを迎えた想いが蘇り、再び火が灯る。

──名前が婚約者とは幸せになれないのなら、俺が名前を幸せにする。

赤井の出した答えだった。

「今更……そんなこと……ッ!」
「誰の元にもいくな。誰にも名前を渡したくないんだ。もう一度、俺の側にいてほしい」

名前を抱きしめる腕に力を入れ、より名前に近づこうとする。物理的な距離だけではなく、心の距離も近づくために。

「俺では駄目か?」

名前の耳元で、名前の耳に触れるように赤井がそっと囁いた。ひどく優しい声色に、求めるような息遣い。名前はびくりと肩を揺らした。

「なんで……? なんで今なの……? あのとき……秀一さんが引き止めてくれていれば、こんなことにはならなかったのに……! 引き止めて……ほしかったのに……」

悲痛な名前の本心が、赤井の心に突き刺さる。あのとき赤井は名前の意思を尊重して受け入れるか、それとも引き止めるかの二択で名前の意思を尊重することを選んだ。

あのとき名前を引き止めるという選択をしていれば、名前をここまで悩ますことも、不必要な涙を流させることもなかっただろう。自らの選択を悔やまざるを得なかった。

「ああすることが、名前にとって最善の結果になると思ったんだ。……だがどうやら間違っていたようだな。名前を幸せにするのは俺の役目だ」
「ずるいよ……! 秀一さんのこと忘れたかったのに……そんなこと言われたら、忘れられないどころかもっと好きになっちゃうじゃん……」

後ろから抱きしめる赤井の腕に、名前の冷えた手がふわりと重なる。赤井の言葉を受け入れたともとれる行動に、赤井は胸の奥にしまっていた小さな火が少しずつ燃え上がるのを感じていた。

それは名前も同じ。ずっと本心が分からないと思っていた赤井のストレートな言葉に、一度は心の奥に封印した想いが溢れ出す。再び燃え上がる二人の想いはもう誰にも止められなかった。

「必ず名前を幸せにすると約束する」

名前はゆっくりと振り返る。赤井の緑の双眸がじっと名前を捕らえて離さない。名前も赤井の瞳に吸い込まれるように見つめ返すと、赤井が名前の髪を撫でるようにするりと指を通した。そしてどちらからともなくお互いの吐息がかかるほどの距離まで近づいていく。それを合図にしたかのように名前がそっと目を閉じた。

二人の唇が一つに重なる。時間にしてほんの数秒唇が触れ合っただけだったが、それは今までに二人が交わしたどの口付けよりも長く、深く感じるものだった。永遠の誓いを交わすかのように。

今の二人に、もう言葉は必要なかった。


赤井がまた車を走らせる。差し掛かった、名前の自宅付近の交差点。ここを左折すれば名前の家に着く。

──赤井は右にハンドルを切った。





「結婚、白紙になったみたい」
「よかったじゃないか」
「そうなんだけど……こっちから断ろうとしてたのに、向こうからなかったことにしてくれ、って。今時お見合いなんてそんなものなのかな」
「さぁ、どうだろうな。もう済んだことだ。そんなことより、そろそろ出掛けないか? 指輪、買いに行くんだろう?」
「行く!」

名前は生涯知ることはないが、赤井が裏で手を回したのは言うまでもない。



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