素直になれたら
「しばらく向こうに戻ることになった」

 恋人の赤井さんがそう言い残してアメリカへ発ったのは、もう一ヶ月も前のことだ。そしてこの一ヶ月間、なんの音沙汰もない。
 見送りに行った空港のロビーで赤井さんは「いつでも電話してくれ」と言ってくれたけれど、一時帰国の理由が仕事だと分かっているのに気軽に電話なんてできなかった。赤井さんからも連絡がないということは、それだけ彼の方も立て込んでいるのだろう。

「しばらくってどれくらい?」
「いつ戻ってくるの?」

 ――聞きたくても聞けなかった。面倒だと、重い女だと思われるのが怖かったから。

 赤井さんと連絡を取り合わないことが日常となって、このまま自然消滅かな……と考え始めたある日、メッセージが届いた。この一ヶ月、一度も連絡を取り合うことのなかった相手からメッセージが。
 自然消滅を考えるほどだったのに相手の名前を目にした途端、きゅんと胸が締め付けられる。

『今から行く』

 たかが五文字。いくらスクロールしてもそれ以上の言葉は見当たらない。されど五文字。用件だけを伝えるメッセージは、この一ヶ月感じることのなかった彼へのときめきを思い出させるには充分すぎるものだった。
 赤井さんに会える。赤井さんが今からやって来る。

「……今、から……?」

 たった五文字の言葉の意味を理解するのにかかった時間は普段の倍以上。赤井さんは今どこにいるのだろう。アメリカ? それとも日本? ここまで来るのにどれくらいかかるのだろう。
 返信をするのも忘れて考えていると、数分もしないうちに聞き覚えのある独特のエンジン音が耳に入り、私の思考を遮った。

 ――もしかして……!

 カーテンの隙間から窓の外を覗いてみると、停まっているのは赤井さんが乗っている以外では見たことのない真っ赤な外車。瞬間、私の足は自然と玄関に向かっていた。
 すぐそこに赤井さんがいるのに待っていられず、インターホンが鳴るよりも早く玄関のドアを開けて赤井さんを出迎える。車を降りたばかりの赤井さんはすぐ私に気付いたようで、視線が交わったのと同時に優しく微笑みかけてくれた。

 一ヶ月前と変わらない恋人の姿に胸が高鳴る。本当は駆け寄って抱きつきたかったけれど、実際に行動に移すほどの勇気はなくて玄関から笑顔を返した。

「ただいま」
「おかえりなさい……!」

 ドアを開けたまま待つ私のところへやってきた赤井さんの最初の言葉は、脳裏に浮かんだ自然消滅≠ニいう言葉をかき消すものだった。

「いつ日本に戻ってきたの……?」
「今日、ついさっきだ。帰国した足でそのままここに来た」
「えっ⁉ 飛行機、大変だったでしょ。とにかく上がって」

 自宅に帰るよりも先に私の家に来たということは、すぐにでも会いたいって思ってくれたからなのかな……なんて、少しくらいは自惚れてもいいだろうか。

 赤井さんを招き入れてから重い玄関のドアを引いた。ゆっくりとドアが閉まり、パタン、と音が響いたのと同じタイミングで背中にぬくもりを感じる。後ろに立つ赤井さんが私を抱きしめ、腕の中へと閉じ込めたからだ。一ヶ月前と変わらないぬくもりは、私の心の淋しさを埋めてくれるものだった。

「淋しい思いをさせてすまなかった」
「……淋しくなかったもん」

 本当は淋しかった。赤井さんに会いたいと、声を聞きたいと何度も思った。でも甘えるのが苦手な私は素直になれず、あまのじゃくな態度を取ることしかできない。なんて可愛くないんだろう。

「本当にか?」
「……」
「俺の前では強がらないでくれ」

 赤井さんに、心の中を見透かされているような気がした。それでもやっぱり弱さを見せることはできなくて、どうしても素直になれなくて。だからといって久しぶりに会った恋人に対して偽りの言葉を重ねることもしたくない。無言を貫く私に、赤井さんは諭すように続ける。

「君の本心が聞きたいんだ」

 たった一言、淋しかったと口にすればいいのに言葉にすることが怖い。一度言葉にしてしまえば次に淋しさを抱えたとき、耐えられなくなりそうだから。そんな私の心を汲むように、赤井さんは抱きしめる腕の力を強めてから耳元で囁いた。

「俺は早く君に会いたかったよ」

 赤井さんの言葉が私の心を溶かしていく。

「…………淋しかった」
「あぁ」

 赤井さんの本心を聞いたことで、なかなか言えなかった言葉がポロッと零れた。

「本当は……私も会いたかった」
「うん」
「声……聞きたかった」
「そうか」

 一度言葉にしてしまえば、次から次へと本心が口から零れ落ちる。赤井さんは相槌を打ちながら、私の言葉に耳を傾けてくれた。

「いつでも電話してくれ、と言っておいただろう」
「仕事中だったら迷惑かなって……」
「君からの電話を迷惑に思ったことなど一度もない」
「でもほら……時差とか……」
「気にしすぎだ。出られないことはあるが、手が空いたらすぐにかけ直す」
「……うん」

 私の心の中に絡みついた不安や心配を、赤井さんは一つずつ丁寧にほどいていく。自然消滅かも、なんて一人で悩んでいたのがバカみたいだ。

「他に言いたいことは?」
「……好き」

 本心と共に、赤井さんへの想いが溢れ出す。赤井さんに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、溢れた想いを呟いた。

「ん?」

 けれど、どうやら私の声は赤井さんの耳には届かなかったらしい。聞き返されてもう一度伝えられるほどまだ素直になれなくて、

「ううん、なんでもない」

 と自身の言葉をごまかした。聞こえなかったのならそれでいい。もう少し素直になれる日が来たら、そのときはもう一度声に出して想いを伝えよう。そう心に決めて、心の中で「好き」と呟いた。

「そうか。俺も愛しているよ」

 ――俺も≠ニいうことは。

「……いじわる。聞こえてたでしょ」
「もう一度言ってくれると思ったんだ」

 耳に熱い吐息がかかる。私の名前を呼びながら、「言ってくれないのか?」と言わんばかりにきつく抱きしめられれば素直にならないわけにはいかない。

「……好きだよ。私も、大好き」
「あぁ」

 赤井さんはもう一度、私の耳元で囁いた。

「愛している」


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