伝えたいこと
──来ない。

何が来ないか。女性特有の、月に一回定期的に来るあれ≠セ。毎月ほぼ周期通りに来ているので、今回のように二週間も遅れることは今までの経験上まずあり得ない。ストレスや疲労、ホルモンバランスの乱れなどで遅れることがあると聞いたことはあるけれど、十数年間毎月ほぼ周期からずれることなく規則的に来ていたのに突然来なくなるなんて、私の体に何があったというのだろう。……来ない原因で他に考えられることはただひとつ。

思い当たる節が全くない訳ではない。恋人がいて、そういう行為≠行っていれば可能性はゼロではないのだから。でも、私のことをいつも大切に思ってくれている彼は毎回必ず避妊をしてくれた。いくら避妊率が百パーセントではないからとは言っても余程のことがない限り大丈夫だと思っていた。でも来ないということは、まさか。

──本当に妊娠してる……?


一度妊娠≠ニいう言葉が浮かんでしまえばその可能性ばかりが頭をよぎり、私の足は自然と最寄りの薬局に向かっていた。衛生用品と記された棚に置いてある長方形の箱。体温計のようなものが印刷されているそれらの中から、一番安い箱を一つ手に取ってみる。

初めて手にするパッケージの側面には使い方が書いてあり、《簡単》《一週間後から検査可能》と初めての人にも分かりやすいように大きく表記されていた。
いくつかの種類が並んでいたけれど、見比べてみてもそれぞれの違いは正直よく分からない。これでいいか、と最初に手に取った箱を持ったまま、妙なほど心臓が大きな音を立てるのを感じながらレジへと向かった。

会計をするだけなのに、変に脈が速くなる。結婚どころか婚約すらしていない彼と私。当然私の指に愛を誓った証は存在しない。自意識過剰かもしれないけれど「この子、結婚してないのに妊娠したのかな」とでも思われているような気がして、レジで顔を上げることができなかった。レジを担当する店員が女性であったこと。それだけがせめてもの救い。

中身が見えないようにという気遣いで小さな紙袋に入れてもらったそれを手に持って、私はすぐに家に戻った。いつもより早足で。知り合いに会わないことを密かに祈りながら。



「……やっぱりやめようかな」

勢いで購入したまではよかったけれど、実際にこれを使用しようと思うとかなりの勇気が必要だ。もしこれで陽性反応が出たら……そう思うと、怖くてなかなか封を切ることができなかった。でも、いつまでもそんなことは言っていられない。遅かれ早かれ、いつかは検査をしなければならないのだから。

私は箱から中身を取り出し、袋を開けてトイレに閉じこもった。

使用方法どおりの手順を踏み、結果が出るのをただただじっと待つ。すると、ゆっくりと陽性を示す赤いラインが浮かび上がった。

──どうしよう……。

「妊娠……してる……」

私のお腹の中に、赤ちゃんがいる。大好きな彼との間に授かった赤ちゃんが。私は無意識のうちに自分のお腹をそっと撫でていた。

本来なら心の底から喜ぶべきことなのに、今の私は手放しで喜ぶことができなかった。彼──赤井さんに結婚の意思があるとは思えなかったから。

産むな
別れよう

そんな言葉ばかりが脳裏に浮かぶ。赤井さんに伝えるよりも先に病院に行くべきか、赤井さんに伝えてから病院に行くべきか。陽性反応が出た以上、赤井さんがこの子の父親であることは間違いない。

でも、もし赤井さんに拒絶されてしまったら。赤井さんがこの事実を受け入れてくれなかったら。そんなことばかり考えてしまい、今すぐ彼に伝えようという気にはとてもなれなかった。

とりあえず、次の休みに一度病院に行こう。あの結果が正しいかどうかを確かめるには病院に行くしかない。赤井さんに伝えるのはそれからでも遅くはないはずだ。





「妊娠おめでとうございます。今は七週ですね」

近くの産婦人科を受診すると、やはり妊娠していることに間違いはなかった。先生の穏やかな声がカーテンの向こう側から聞こえる。

「ここ、動いてるの分かりますか? これが赤ちゃんの心臓です」

モニター越しに先生が示した部分は小さくピコピコと点滅していて、規則的に動いていた。赤ちゃんがいる。私のお腹の中で、この子は確かに生きている。自分の目で自分の中にある生命を感じた瞬間、胸の奥から何か大きな感情が込み上げるような感覚があり、涙がこぼれ落ちそうになった。

内診台を降りて診察室で先生と向かい合う。先生はここに来たときに最初に書いた問診票を机の上に置いていた。

「確認ですが、子どもを産む意思があるということでよろしいですか?」

未婚≠ニいう項目に丸を付し、そして入籍の予定≠ノもありと書くことができなかった私に、先生は声色をほとんど変えることなく問いかける。
私はそれにはっきりと返事をして、頷いた。

「分かりました。次は三ヶ月検診なので、それまでに母子手帳をもらってきてくださいね」

産むか産まないか。私の答えは既に決まっていた。赤井さんがこの事実を知ってなんと言うのかは分からない。反対される可能性だってある。でも、私には大好きな人との間に授かった子の命を蔑ろにすることはできないし、したくなかった。

赤井さんがどんな答えを出したとしても、私はこの子を産んで育てたい。

──たとえ一人で育てることになったとしても。





「久しぶりだな。ようやく名前とゆっくり過ごす時間がとれる。寂しい思いをさせてすまなかった」

検診に行った翌週、私は久しぶりに赤井さんと会うことになった。いくら赤井さんが忙しいからといって、こんな大事な話を電話で済ませるわけにはいかない。

最後に赤井さんに会ったのは一ヶ月以上前。おそらく妊娠するきっかけとなった日。そのあとも何度かメッセージを送り合ったり電話をしたりしていたけれど、話があることまで言い出すことはできなかった。

「今日は名前の好きなところに行こう。どこか行きたいところはあるか?」

いつ言おう。どうやって話を切り出そう。いきなり言ったらびっくりされるだろうし、もし受け入れてもらえなかった場合、赤井さんとの関係もこれっきりになってしまう。

それなら今日が思い出の日となるように、思いっきり楽しんでから最後に言うべきか。だるさや眠気、そして悪阻の影響で若干の気持ち悪さはあるけれど、幸いにも今日は比較的症状が軽い。無理さえしなければ体に負担もかからないだろう。

「名前?」
「えっ? あ、はい」
「大丈夫か?」
「ごめんなさい、大丈夫です。ちょっとボーッとしてて……」

どうやって赤井さんに伝えるかを考えていたせいで、赤井さんの言葉が耳に入ってこなかった。ふと彼の顔を見上げるとその目には心配の色が浮かんでおり、赤井さんの優しさに心が温かくなる。しかしそれと同時に、早く言わなければという焦りも生じた。

「相当疲れているようだから、今日はゆっくり過ごそうか」
「せっかくのお休みなのにすみません……」
「名前に無理をさせるわけにもいかないからな。気にすることはない」
「ありがとうございます……」

赤井さんの優しさが心にしみる。この人が夫になってくれたら。この人がこの子のパパになってくれたら。考えるのはそのことばかり。私を助手席に乗せた彼の愛車がどこへ向かっているのかなんて気にする余裕がないほど、今はお腹の赤ちゃんのことを赤井さんに切り出す方法で頭がいっぱいだ。

「少し寄り道をしても構わないか?」
「はい」

ふと窓の外を眺めてみると見覚えのある道を走っていて、これから赤井さんの家に行くのだと気が付いた。一体どこに寄ろうとしているのだろう。

着いたところはコーヒーショップだった。ドライブスルーのゲートに向かい、前方の車が注文するのを待つ。

「何にする? いつもと同じか?」
「あ、えと……今日はレモネードにしてもいいですか?」
「もちろん。珍しいな」
「なんとなくそんな気分なんです」

いつも私が頼むのはカフェラテなのだけれど、妊娠しているとなるとできるだけカフェインの摂取は避けたい。そして悪阻の影響で、酸っぱいものやさっぱりしたものをやたら好んで口にするようになっていた。

注文、会計、商品の受け取りまで済ませると車はまた赤井さんの家がある方向に向かって走り始めた。赤井さんから受け取ったレモネードはほんのりと甘みがあり、でも爽やかでレモンの酸味がさっぱりとして飲みやすい。思わず「おいしい……」と漏らしたら、赤井さんは安堵の表情を浮かべていた。


しばらくすると車は赤井さんが暮らすマンションに到着していて、いつものように私の腰に腕を回して部屋に向かった。

どうにかして切り出さなくては。部屋に着いてからも私が考えるのはそのことばかり。赤井さんと並んでソファーに腰掛け、いつものようにぴたりとくっついているのに今日はなんだか二人の距離が遠く感じる。

「どうした? 何かあったか?」
「え……?」
「今日はぼんやりしている時間が長い気がしたんだ。悩み事や心配事があるなら話を聞くが?」

どうして赤井さんは私の些細な変化にまで気付いてくれるのだろう。

この人と一緒になれたらきっと幸せになれる。心の隅ではそう確信していた。けれどこれから先も赤井さんと一緒にいたいと思えば思うほど、伝えなければならないことが口から出てこない。

赤井さんと別れたくない。赤井さんを失いたくない。できることならずっと一緒にいて、お腹の中にいるこの子の成長を共に見守りたい。

「赤井さん、あの、ね……」
「ん?」

赤井さんは私を包み込むように穏やかに微笑みながら、私の話に黙って耳を傾けてくれた。けれど臆病で赤井さんを失うことを恐れている私は、なかなか本題を切り出すことができずに口篭るばかり。

「あ、あか、っ……あか……い、洋服……って、私に似合うと思います……?」

あぁもう。そうじゃないのに。ようやく決心して伝えようとしたのに、口からついて出たのはまったく関係ない言葉。

「赤い洋服か。確かに着ているところを見たことはないが、名前の白い肌に映えてよく似合いそうだ。今度一緒に見に行くか?」

どうでもいいことを口走ったにもかかわらず、赤井さんは微笑みを絶やすことなく真剣に返答してくれた。どうしてこの人はこんなに優しいのだろう。もっと冷たくしてくれれば、私のことを蔑ろにでもしてくれればいっそ別れよう≠ニでも言って離れられたかもしれないのに。

「本当は何か俺に話したいことがあるんだろう? ゆっくりでいい。話してくれないか?」

ああもう、限界。涙がこぼれそう。赤井さんの優しさに触れてしまったことで、堪えていたものが徐々に溢れ出す。妊娠中はホルモンバランスが乱れるので情緒不安定になりやすい、とインターネットの記事に書いてあったけれど、まさかここまで気持ちの浮き沈みが激しくなるなんて思いもしなかった。自分の気持ちを全くと言っていいほど制御することができない。

「俺はいつでも名前の味方だ。遠慮する必要はない。何があっても名前の全てを受け入れると決めている。だから、安心して話してくれ」

そっと私の肩を抱き寄せ、欲しい言葉をくれる。とうとう溢れるものを堪えることができなかった。とめどなく流れる涙は私の頬を濡らし、落ちた雫がブラウスに小さなしみを作っていく。

こうなったらもう話すしかない。私のことをここまで考えてくれる赤井さんに、これ以上黙っているわけにはいかない。だってこの子は、赤井さんと私の間に出来た子なのだから。

「あの、っ、ね……あか、っ……赤ちゃん……できたの……ここに、あかいさんの、子どもが、っ、いるの……!」

自身の下腹部を撫でながら、今日一日伝えようと思っていたことをゆっくりと口にした。嗚咽混じりの言葉は赤井さんの耳に届いているだろうか。

「本当か……?」

赤井さんが発した言葉はその一言だけだった。突然赤ちゃんができた、自分の子の命が宿っているなんて言われて受け入れられないのだろう。声で驚いているのは分かったけれど、今赤井さんがどんな表情をしているのか。どんな思いで私の言葉を聞いたのか。私を、更にはこの子も拒絶しているのかもしれないと思うと、とても顔を上げることができなかった。

不安に苛まれてどうすることもできず、ただただ肩を震わせながら涙を流すばかり。そんな私を赤井さんは優しく、でも力強く抱きしめてくれた。

「え……?」

──拒絶……されたわけでは……ないの……?

赤井さんは何も言わない。一体赤井さんは何を思い、私を腕の中に閉じ込めたのだろう。赤井さんのぬくもりが伝わってくる。彼に包み込まれたことで肩の荷が下りたのか、どっとこみ上げる安心感。堰が切れたように、ただひたすらしゃくり上げて泣くことしかできなかった。


ずっと赤井さんが抱きしめていてくれたことが安定剤となったのだろう。ようやく涙がおさまり、少しずつ心も落ち着きを取り戻し始めた。このぬくもりを手放したくない。私のエゴかもしれないけれど、赤井さんとこれからも一緒にいたい。やはり私にとって、赤井さんはいなくてはならない存在なのだと改めて実感してしまった。──こんな状況なのに。

赤井さんは私に「本当か?」と問いかけたあとから何も言わないまま。襲いかかる不安を胸に抱え、おそるおそる赤井さんの顔を見上げて声をかけた。

「あかい、さん……?」
「あぁ、すまない……あまりの感動に言葉を失ってしまったよ」
「よろこんでっ……くれるの……?」
「当然だ。愛する名前との間に子どもができたんだ。嬉しくないはずがないだろう」

私の予想に反して赤井さんはとても幸せそうに、そして今までに見たことのないような穏やかな微笑みを浮かべていた。

「ッ……! 赤井さん……っ!」

この子も私も、赤井さんに拒絶されなかった。それどころか新たな命の誕生を心から喜び、現実を受け入れ、そして本当に幸せそうな顔で笑ってくれた。そんな彼の顔を見たら胸の奥から熱い思いが込み上げてしまい、また大粒の涙がこぼれた。今度の涙は、安堵と幸せの涙だった。

「名前」

赤井さんは愛おしそうに私の名前を呼ぶ。態度、そして表情。その全てから私のことを想ってくれているのが伝わってきて、とくんと心臓が音を立てた。赤井さんの真剣で、それでもって柔らかな視線が私を射抜く。私も赤井さんの想いに応えたい。その一心で彼をじっと見つめ返した。

「結婚しよう」

――突然の思いがけない言葉に、息が止まるかと思った。遅れて、もう何度目になるか分からない涙が静かに頬を伝う。自分でも泣いていることに気が付かないほど、つぅと静かに雫が頬を滑り落ちていた。

嬉しい。とても嬉しいのだけれど、私の中には今の赤井さんの言葉を素直に喜べない私がいた。

赤井さんも私を想ってくれているのは痛いほど伝わっている。けれどそれと結婚は別物。赤井さんは子どもができたからというだけで結婚を決め、責任を取るつもりなのではないかと思えて仕方がないのだ。

赤井さんの人生を、今ここで、そう簡単に決断させてしまっていいのか。本当に彼のことを想うならどうするべきなのか。

「っ……無理、してない……? 責任、取らなきゃって……思ってない……?」
「責任を取るというつもりで君にプロポーズしたのではない。結婚するなら名前と、と以前からずっと考えていた。だが俺と結婚するということは、いずれ日本を離れなければいけない日が来るだろう。君がそれでも俺との結婚を望んでくれるのか確かめたかったんだ」

そっと私の頭を撫でてから、赤井さんは私をソファーに残して部屋の片隅にあるチェストへと向かった。一番上の小さな引き出しを開けて、中から何か小さな箱のようなものを取り出している。

取り出したばかりのものを片手に、赤井さんはまた私の元へと戻ってきた。

「以前からこれを君に渡したいと思っていた」

赤井さんが私に差し出した小さな箱。それを私の目の前でパカッと開くと、大粒のダイヤが真ん中に一つ飾られた指輪が姿を見せた。このタイミングにこの形。

──これは、婚約指輪。

「えっ……嘘……」

まさか赤井さんが、本当に私との結婚を考えてくれていたなんて。言葉にできないほどの多幸感が一気に押し寄せ、もう流した涙を止めることはできなかった。次から次へととめどなく溢れる涙は、幸せの数を表しているかのようだ。

「俺がいつまでも決心できずにいたから、この子が背中を押すためにやってきてくれたのかもしれないな。──俺と結婚してほしい。三人で幸せになろう」

涙ながらに頷くと赤井さんは私の左手を取り、愛の象徴とされる薬指に指輪を通してくれた。

薬指に嵌められたダイヤの指輪は、私たちの明るい未来を照らしているかのように強い煌めきを放っている。


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