黄昏時の雨宿り
「はぁー……」

 仕事で大きなミスをした。お客様に誤った説明をしてしまい、次に先輩が対応した際に私の説明不足が発覚。お客様からは当然苦情が来るし、上司にも叱られる始末。完全に私の確認不足が招いたミスだ。思い込みで説明するのではなく正式な手続きや必要書類をマニュアルで確認しておけば、説明する前に先輩や上司に確認しておけば、と今更悔やんでも後の祭り。

 涙がこぼれ落ちないように上を向くと雲一つない夕焼け空が広がっている。沈みゆく太陽が黄金色で街を包み、キラキラと輝いていた。私の心とは対照的に。辺りが綺麗に輝けば輝くほど、私の心には雨が降る。

 ──こんな日はどこかで雨宿りしてから帰ろうかな。

 考え始めた瞬間、というか考える間もなく思いついた場所は一つ。私の行きつけである喫茶ポアロだ。通勤途中にある喫茶店で、たまたま雑誌に載っているのを見かけて立ち寄ったのが最初。そのときに惚れてしまったのだ。ポアロのコーヒーと、店員の安室さんに。飲食店の店員の笑顔なんて営業スマイルに決まっているのに、その笑顔に一目惚れ。我ながら単純だと思う。でも彼女になりたいわけじゃない。ただあの笑顔をカウンター越しに眺めていたいだけ。好きは好きでも憧れに近い感情だ。

 そんな安室さんのいつもの笑顔を見たら、黒い雲がかかっている私の心にも晴れ間が覗くかもしれない。そう思ったら、今までは重かった足取りが少しだけ軽くなったような気がした。
 だけど。

「……やっぱり今日はやめとこうかな……」

 ポアロの前に到着したところで急にブレーキがかかった。安室さんの笑顔に癒やされたい。けれど、ろくに笑顔を作ることができないほど落ち込んでいるのに安室さんと顔を合わせたくない。だって、いつ、どんなときでも好きな人には少しでも可愛く見られたいから。
 やっぱり今日は大人しく帰って、家で一人反省会をしよう。悩んだ末に出した結論に従ってポアロの前を通り過ぎようとしたときだった。

「おかえりなさい。今日もお疲れ様でした」

 チリンと涼し気なドアベルが響いたと思ったら入口のドアは中から開けられていて、まるで私を出迎えてくれたかのようだ。夕陽の橙に包まれた安室さんは、いくら私が色眼鏡で見ているとはいえ黄金色の街並みなんかよりも数倍輝いて見える。

「安室、さん……」
「何か嫌なことでもありましたか?」
「え……?」

 どうして分かったんですか? と尋ねるよりも先に、安室さんは目を細めて微笑んだ。

「もし時間があるのなら寄っていきませんか? 試作品のケーキがあるので感想を聞かせていただけると助かるんですが」

 今日は寄らないと自分で決めたのに、安室さんに直接声を掛けられ、見たいと思っていた笑顔を向けられて断れるはずがない。

「えっ、と……じゃあ……」
「よかった、ありがとうございます。いつもの席空いてますよ」

 普段と同じように笑える自身はないけれど、少しだけ寄ってから帰ることにした。「どうぞ」と安室さんがドアを開けていてくれたのでいつもの席――カウンターの一番端の席に向かった。安室さんの笑顔を誰にも邪魔されることなく見ることができて、たまに話しかけてもらえる特権付きの特等席。

「いつものでいいですか?」
「あ、はい……」

 あと安室さんがコーヒーを淹れるときの手元がよく見えるから。ぼーっとしながら頬杖をついてカウンターの向こう側を眺めていると、ふと頭をよぎるのは今日の会社での出来事。お客様からの苦情、上司からの叱責が頭の中で反芻している。思わず漏れそうになる溜め息や溢れそうになる涙をこらえるので精一杯。そのせいで安室さんに名前を呼ばれていることにも気付かないなんて相当堪えているようだ。

「大丈夫ですか?」
「あ……すみません、ちょっと考えごとしてて……」
「何かありましたか? 話したくないことでしたら無理に聞きませんし、話した方が楽になるのなら僕でよければ聞きますよ」

 安室さんの優しさが弱った心にしみる。こんなふうに優しくされてしまったら今よりもっと好きになってしまう。見ているだけでいいはずだったのに、もっと近づきたくなってしまう。好きになったところで振り向いてもらえるはずなんてないのに。

「すみません、余計なお世話ですよね」
「いえ、全然! お気遣いありがとうございます」

 ぺこりと小さく頭を下げてお礼を伝えると、安室さんは春の陽だまりのような柔らかな笑顔を見せてくれた。あぁ、やっぱりこの表情好きだなぁ。胸の奥がきゅんと締め付けられて、体温が少し上昇したような気がした。

「お待たせしました。あとこれが試作品のさつまいものシフォンケーキです」

 淹れたてのコーヒーと一緒に目の前に置かれたのは、試作品とは思えないほど完成度の高いシフォンケーキだった。ふわふわのケーキの上にさつまいものクリームと蒸した角切りのさつまいもがデコレーションされていて、更にお皿の上にはバニラアイスと大学芋が添えられている。食べる前からおいしさが伝わってくるような一皿だ。

「これ、本当に私が食べていいんですか……?」
「えぇ、もちろん。前にさつまいものスイーツが好きって言ってましたよね?」
「覚えててくれたんですか!?」
「忘れるはずがありませんよ」

 たしかに前に話したことがある。さつまいものスイーツに目がなくて、期間限定のさつまいもスイーツやお菓子を見るたびに食べたくなる、と。まさかちょっとした雑談の中で口にした、こんな些細なことを覚えていてくれたなんて。

「どうぞ、召し上がってください」
「じゃあ……いただきます」

 フォークに一口分のケーキを乗せて口に運んだ瞬間、口いっぱいにさつまいもの優しい甘さが広がった。あまりのおいしさに自然と笑みがこぼれ、本当に頬が落ちてしまいそうだ。

「どうですか?」
「すごくおいしいです! これ本当に試作品なんですか⁉ このまま出せますよ! ……ってすみません。素人なのに偉そうに……」
「いえいえ。名前さんの感想を聞きたいと言ったのは僕ですから。気に入っていただけたみたいでよかったです」

 いつの間にか、いつまでも落ち込んでいても仕方がないと思えるくらいには心穏やかになっていた。甘くておいしいものを食べたからか、安室さんの笑顔を見ているからか。多分両方。安室さんのおかげ。

「あの、ちょっと聞いてもいいですか……?」
「何でしょう?」
「さっき、どうして声をかけてくださったんですか……? 私がへこんでたことも気付いてましたよね……?」

 好きな人にダメな自分を見せたくないので仕事でミスしたことを話したくはないし、へこんでいたことも本当は知られたくはなかった。問いかけたことでへこんでいたと認めることになったけれど、それ以上に気になってしまったのだ。

「簡単なことですよ。いつもならすぐにドアを開ける名前さんが、入口の前で躊躇っているように見えたので何かあったのかと思ったんです」
「私が外にいたことに気付いてたんですか……?」
「えぇ。いつ名前さんが来るのかと心待ちにして外を見ていましたから。そしたら落ち込んでいるようだったので心配でつい。迷惑でした?」
「いえ、全然!」

 ずるい、ずるすぎる。こんなの好きになるなと言うほうが無理な話だ。飲食店の店員のサービストークだと分かっていてもまっすぐに目を見てそんなことを言われたら、どう足掻いたとしても今よりもっと好きになってしまう。憧れでは済まなくなってしまう。

「やっとあなたの笑顔が見れたので安心しました」

 追い打ちをかけるような言葉と笑顔。平静を装うので精いっぱいだ。熱が集まる顔を見られたくなくて、顔を隠すように下を向いて残りのケーキを少しずつ口に運んだ。

 サービストークだと思っていた言葉の数々が実は私だけに掛けられていたこと。試作品だと言って出されたケーキが実は私だけのために作られていたこと。後日それらのことが発覚し、晴れて恋人同士となるのはもう少し先の話。


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