差出人のないメッセージカード
二月十四日、バレンタインデー。友チョコ、自分チョコというものが広がりを見せる現代でも、恋人や想い人がいる人にとっては一年の中でも特別な日。絶賛片想い中の私にとってもそれは同じ。

今年のバレンタイン、私は好きな人に想いを伝えることを決意した。さすがに手作りを渡す勇気も作る時間もないので、デパートの催事場で購入したものだけれど。

意中の彼──降谷さんは私の上司である。職場恋愛なんてありえない、入庁した頃の私はそう思っていた。けれど今の部署に配属されて、降谷さんの下で働くうちに惹かれてしまったのだ。自分でも気付かないうちに。よりにもよって上司に。

仕事に対する姿勢、部下に対する態度、厳しさに相対する優しさ。いつからだろう、尊敬が恋に変わったのは。もう思い出せない。


いつ渡そう、いつ想いを伝えよう。鞄の中に忍ばせたチョコレートの箱は未だに庁内の空気に触れる機会をうかがっている。しかしこういう日に限って降谷さんは現場に出突っ張り。結局、先輩の元に「今日は戻れない」という連絡が入った。

張り詰めていた緊張の糸がプツンと切れた。仕事で神経を使うのは日常茶飯事なのでなんともないけれど、それ以外のところで神経を使うのは普段の倍以上も疲れる。一気に疲れが押し寄せて、深いため息をついた。

「どうしようかな……」

このチョコレート。持ち帰って自分で食べてしまおうか。でもせっかく降谷さんのことを想って選んだのに。仕事もあまり手につかない中、葛藤の末にたどり着いた結論はひとつ。デスクに置き逃げ。





翌日。通常通り出勤すると、昨日全く姿を見なかった降谷さんがデスクの上に積み上がった書類をさばいていた。おそらく徹夜明け。それなのに翌日は通常勤務どころか早出までしている。昨晩家に帰っていない可能性もある。一体いつ寝ているのだろう。身体を壊さないのだろうか。褐色の肌なのであまり目立たないけれど、目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。

「おはようございます」
「おはよう」

挨拶だけ交わし、自分のデスクへと向かう。降谷さんのデスクには、私が置いて帰ったチョコレートの箱はなかった。受け取ってくれたのだろうか。ということはきっとメッセージも見たはず。今の様子だと送り主が私だということには気付いていないのだろう。

昨日私は帰る直前、誰もいないことを確認して降谷さんのデスクにチョコレートを置いていった。箱の裏面に一枚のメッセージカードを添えて。内容は「好きです」の一言のみ。差出人も書かなかった。賭けだったのだ、降谷さんが気付くかどうか。もし私だと気付いてくれたら、ほんの少しでも可能性があるような気がしたから。結局、賭けは負けに終わったわけなのだけれど。


「以上です。お疲れ様でした」

今日一日、降谷さんと会話したのは業務連絡のみ。徹底して降谷さんと二人きりになるのを避けた。休憩時間や同僚の出入りのタイミング、うまく見計らえば二人きりになるのはいくらでも避けられる。送り主が私だと気付かれていないにしても、降谷さんと二人きりになるのは気まずくて耐えられないと思ったからだ。

最終報告も済ませたので帰宅する準備でもしようと思い、一つお辞儀をしてから降谷さんに背を向けた。すると後方からガタンと大きな、勢いのある音が聞こえてきたのだ。振り返れば降谷さんが怒りともとれるような形相で立っていて、今のは椅子がぶつかった音なのだと分かった。

「……ちょっと来い」
「え、ちょっと、降谷さん!?」

私の腕を痛いくらいにぐいぐいと引っ張ってどこかへ連れて行く。行き先も分からぬまま、けれど上司に腕を引かれては振り払えるはずもなく、私は転びそうになりながら降谷さんに続いた。そして連れてこられたのは会議室。当然室内には誰もいない。

「今日一日、僕を避けてただろう」

バタンとドアを閉めると降谷さんは腕を組み、壁にもたれかかって大きくため息をついた。間違いなく怒っている。声色は仕事中とさほど差はないのに、表情や態度、そして降谷さんの纏うオーラからは怒りしか感じられない。

「……避けてません」
「目が泳いでいるが? それで誤魔化しているつもりか?」

全てを見透かしたような鋭い視線を浴びせられれば、言葉に詰まるばかりで全く弁明することができなかった。無駄だと悟ったから。

「話がある」
「なんでしょう……」

心臓がなんだか嫌な音を立てる。背中には冷や汗。降谷さんの不穏な空気を察知した私は、速く、大きくなる鼓動に耐えることしかできない。

「これが僕のデスクに置いてあった」

内ポケットから見覚えのあるメッセージカードを取り出し、私の目の前に突きつけた。一歩後退りしてもすぐに詰められ、並べてあるパイプ椅子に私の脚がぶつかったところで距離は開かなくなった。それどころか最初よりも私たちの距離は縮まっている。

「君だよな?」

降谷さんは確信を持って私に詰め寄っているのだと、目を見た瞬間に理解した。どう返答をしても圧倒的に私が不利な状況は変わらないので、肯定も否定もできないまま無言で降谷さんから目をそらす。

「やっぱり」
「……なんで分かったんですか?」

こうなってしまってはもう隠しようがないので観念して白状すると、降谷さんはまた大きなため息をついた。「そんなことも分からないのか?」とでも言いたげに。

「僕が君の筆跡を分からないとでも思ったのか? こっちは毎日見ているんだ」

まさか筆跡で気付かれるなんて。とは言っても直属の上司なのだから当然と言えば当然なのかもしれない。それよりも、「毎日見ている」という言葉の威力が強すぎて、先程とは違う意味で鼓動が速くなる。見ているのは私の文字なのだけれど、真っ直ぐ目を見て「毎日見ている」なんて言われたら勘違いしてしまいそうだ。

「どうして何も言わずに置いていった? 名前も書いてない」
「降谷さん、昨日戻らないって言ってたし……名乗る必要もないかと思いまして」
「全く……」

さっきから降谷さんはため息をつきっぱなしだ。私の行動に相当呆れているのだろう。こんなことになるのなら、バレンタインに便乗してメッセージカードなんて添えなければよかった。

「君からだって分かった理由、もう一つあるんだ」
「え?」

声色が幾分か穏やかになった。表情も、私を見つめる瞳もほんの少し柔らかくなったかと思えば、降谷さんの冷えた手が私の頬に触れる。火照った私の頬から熱を奪い、触れ合う部分でお互いの温度を分け合った。

「君だったらいいなと思っていたから」
「どういう……」

また心臓が早鐘を打つ。至近距離で好きな人に見つめられ、さらに思わず期待するような言葉を耳にしてしまったら、いくら様々な訓練を積んでいるとは言っても平常心を保つことはできなかった。

「僕も君が好きだってこと」
「え……本当に……?」

感情が高まりすぎて手が震える。降谷さんから目をそらせない。

「あぁ。だからちゃんと君の口から、君の言葉で聞かせてくれ」

その声に嘘なんかなくて、真剣な眼差しで見つめられてしまったら、私にはもう想いを伝える以外の術はない。少しでも緊張を和らげるために深呼吸をひとつしてから、私はゆっくりと口を開いた。

「好き、です……」

メッセージカードと同じ言葉をたどたどしく口にすると、降谷さんは仕事では絶対に見せない柔らかな笑顔を浮かべながら、そっと口づけを落とした。


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