Will you be my Valentine?
「赤井さん……私、ずっと前から赤井さんの事が好きでした! 私と付き合ってください!」
同僚の女の子が赤井さんに告白しているところを目撃した直後から、私の中で何かが崩れ去ったような気がした。
私がこの告白現場を目撃したのは、一月の終わり頃のことだ。一日の仕事を終えて帰ろうとしたところで、赤井さんと彼女が一緒にいるのを見かけた。私の密かな想い人である赤井さんが、女の子と二人きりで何をしているのだろう。興味本位で盗み聞きをしてしまったのがそもそも間違いだった。
彼女は真っ赤な顔で、そして可愛らしい女の子の表情をして、赤井さんに思いを伝えていたのだ。
勤務時間が過ぎているからといってこんなところで告白するなんて……と思う反面、正直に気持ちを伝えられることに羨ましさを感じていた。どうしても二人の様子が、そして赤井さんがどう返事をするのか気になってその場から離れられずにいると、赤井さんは彼女に優しく笑いかけた。
「───嬉し……好き……───」
赤井さんのあの表情。少し距離が離れているせいで赤井さんの低い声はハッキリとは聞こえなかったけれど、僅かに聞こえたのは私にとっては残酷な言葉。
……あぁ、そうか。
赤井さんもこの子のことが好きだったんだ。
ずっと見てきた。だから赤井さんの気持ちは表情を見れば分かる。なんて幸せそうな笑顔を彼女に向けているのだろう。
これ以上そんな二人を見ていることなんてできる訳がなくて。もちろん祝福なんかもっとできるはずがない。
私は居ても立っても居られず、逃げるようにその場から走り去った。
振り返ることなく走った。ヒールが折れるのではないかということも、周囲にどう見られているのかということももちろん気にする余裕はない。ただ、逃げたかった。
どれくらい走ったのだろう。方向も確認しないまま、無我夢中で走り続けた。あの場から離れたい一心で。赤井さんが幸せそうに笑いかけているところをあれ以上見ていることができなかった。
息が上がって立ち止まると、デパートのディスプレイガラスに映る自分の姿は実に滑稽で。コートもマフラーも、髪もメイクも乱れ、とても人前を歩けるような状態ではない。
それでももう限界を迎えていた私はその場にしゃがみこみ、人目を憚ることなく泣いた。今の私には溢れ出す涙を堪えることはできなかった。肌を刺すような冷たい北風が追い討ちをかけるように吹き付ける。濡れた頬をなぞる冬の風はナイフで切り裂くように頬を掠め、私の心にも同じように傷跡を残した。
赤井さん、ずっとずっと好きだったのに。
カッコいいのはもちろんだけど、いつも優しくて、時には厳しくて。言葉数が少ない中でも面倒見がよくて。
私にとって憧れの人であり、ずっと想いを寄せていた人。
──私はそんな赤井さんに、気持ちを伝えることもできず失恋した。
◇
散々泣いた翌日。
腫れた目を誤魔化すようなメイクを施して出勤すると、朝一でばったり会ってしまったのは、今一番会いたくて、一番会いたくない人。
「おはよう」
「っ、おはようございます……!」
精一杯の笑顔で赤井さんに挨拶を返す。できるだけいつも通りに、自然に。上手く笑えているだろうか。不審に思われていないだろうか。引きつった頬の筋肉がぴくぴくと震えているのが分かる。でも何事もなかったかのように無理に笑顔を作った。
「どうした? 今日はいつもの元気がないようだが」
……気付かれている。だめだ、無理。泣きそう。
どうしてこんなときでさえ優しくするの。どうしてそんな心配そうな声で話しかけるの。赤井さんにはあの子がいるでしょう。私のことなんて放っておいてよ。
お願いだから、優しくしないで。
「……いえ、なんでもないです……」
これ以上赤井さんの顔を見ることも、普通に話すこともできない。そう思った私は、赤井さんの顔を見ることなく隣を通りすぎた。
いつもポーカーフェイスの赤井さんが、どれだけ悲しそうな顔をしていたのかも知らずに。
「ちょっと名前! その顔、どうしたのよ!」
「え……?」
デスクで頬杖をついている私を心配して声をかけてくれたのはジョディさんだった。
「あなた今相当ひどい顔してるわよ。何かあった?」
こういうときに優しくされると、どうしてもまた自然に涙が零れてしまう。一筋の涙が頬を伝うと、まるで感情の堰が切れたように涙が止まらない。お願いだから、涙よ止まって。私の願いは虚しく、既に出勤している何人かが見ているというのに次から次へと涙が溢れ出す。さすがにまずいと思ったのだろう。ジョディさんは私の腕を引いて、女子トイレへと連れていってくれた。
「っ、ジョディさ、っ、ごめ、なさいっ……!」
「大丈夫、大丈夫だから。少し落ち着きなさい。そんなんじゃ仕事にならないでしょ」
嗚咽交じりで言葉にならない声を拾ってくれたジョディさんは、私が泣き止むまでずっと背中をさすってくれた。
「どう? 少しは落ち着いた?」
「はい……ありがとうございます……」
「で、一体何があったの?話せるかしら?」
私は昨日見たあの光景をそのままジョディさんに伝えた。私が赤井さんに恋心を抱いていたことも、その気持ちが報われなかったことも。言葉にすると、また涙が零れそうだ。
「そうだったの。……名前、あなた本当にバカね」
「ばっ! ばか……」
「ええ。本当にシュウがあの子に好きって言ったの? 本人に直接聞いた? あなたもあなたよ。泣くほど好きなんでしょう。だったらそれを伝える相手は、私じゃなくて彼だと思うけど」
確かにジョディさんの言うとおりだと思った。
私は自分で何もしていないのに勝手に悲しんで泣いているだけ。どうせ叶わない恋なんだ。それならこのまま自分の気持ちを押し殺して無理に忘れようとするよりも、ちゃんと自分の言葉で赤井さんに伝えて、きっぱり振られた方が次に行けるんじゃないか。元々付き合えるなんて思ってない。見ているだけでいいとずっと思っていた。
だけど。
このままでは後悔しか残らない。
二週間後はバレンタイン。
告白する女の子の背中を押してくれる日。
私は赤井さんに、自分の気持ちを伝える決心をした。
◇
迎えたバレンタイン当日。
受け取ってもらえるか分からないし、重いと思われるかもしれないけど、今日のために手作りのチョコレートを準備した。赤井さんに渡すのはこれが最初で最後になる。受け取ってもらえなくてもいい。でもせめて、このチョコレートに想いを込めることだけは許してほしい。
まだあの子と赤井さんの関係がはっきりした訳じゃない。でもそれはもうこの際関係ない。もし赤井さんがあの子のことを好きだとしても、もうあの子と付き合っているのだとしても、自分の気持ちを伝えると決めたから。ちゃんと自分の気持ちを自分の言葉で伝えて、きっぱりと諦める。そう決めた。
……でも、本当に迷惑じゃないだろうか。恋人がいるのに他の女から告白をされたところで、ただ赤井さんを困らせるだけなのではないか。気持ちを伝えると決意していたはずなのに、当日になると不安と緊張からか迷いが生じていた。
どうしようか、もし伝えるならいつ伝えようかと悩んでいる間に時間はあっという間に過ぎ去り、少しずつ帰宅する人の姿が増え始める。未だに赤井さんにチョコレートを渡せていないどころか、今日は姿を見かけては赤井さんの様子を窺い、目が合いそうになる度にその視線を逸らしては逃げていた。そんなことを繰り返しているのに告白するなんて、本当にできるのだろうか。
なんて考えながら残業の合間に缶コーヒーを買いに行くと、赤井さん……と、美人だと有名な、同じく日本人の先輩が一緒にいた。可愛くラッピングされたピンクの箱を手に持って。
どうしてこういつも私はタイミングが悪いのだろう。人気があるとは思っていたけれど、一体何度赤井さんのこのシーンを目撃すれば気が済むのだろう。
「悪いが甘いものは苦手なんだ。それに君の気持ちには答えられない。好意を持っている女性がいるんでね。悪いな」
今度という今度ははっきりと分かってしまった。やっぱり赤井さん、あの子のことが好きなんだ。しかも甘いものが苦手だったなんて知らなかった。チョコレート、受け取ってもらえないんだ……。
そう話した赤井さんは左手を上げて先輩に背を向けた。やばい、こっちに来る。隠れようにも隠れるところなんてあるはずもなく、赤井さんは私に気付いて足を止めた。
「名前、こんなところでどうしたんだ。……顔色が悪いな。大丈夫か?」
少し腰を曲げて、壁に左手をつきながら私と目線を合わせるようにして話しかける。その声は穏やかで、優しくて。本気で心配してくれているのが伝わってきた。赤井さんのこの優しさが大好きだったはずなのに、赤井さんの優しさがこんなにも辛いと思う日が来るなんて。
「だ、大丈夫、です……。コーヒーを買いに来ただけなので……。すみません、失礼します」
私も赤井さんに背を向け、立ち去ろうと踵を返したところ、赤井さんが私の左手首をしっかりと掴んだので思わず振り返った。彼の瞳に吸い込まれ、目を逸らすことができなかった。
掴まれたままの手首がいやに熱い。右手に持っている缶コーヒーよりも熱く感じるほどに。
「あの、何でしょう……」
「俺の気のせいならいいんだが、君は最近俺のことを避けていないか?」
「……っ!」
確かに避けていた。それは今日だけではなく、あの日からずっと。職務上必要最低限の会話は交わしていたが、赤井さんを見かけるとつい隠れたくなってしまい逃げるように距離をとった。
赤井さんと話すと、目の前で泣いてしまいそうだったから。私に笑いかけてくれる度に、私の心は涙を流す。今までなら普通にできていた他愛もない話もできなければ、職務上の会話も、挨拶でさえもぎこちない。でもまさか、赤井さんに気付かれていたなんて。
「君に避けられるとどうにも調子が狂う」
「え……?」
「いや、あまり無理するなよ」
そう言って赤井さんはやっと手を離すと、私の頭にぽんと手を置いてから私を追い抜いて歩いていった。
今のは一体どういう意味なのだろう。私には赤井さんの言葉の真意が分からなかった。赤井さんに掴まれた手首がまだ熱を持っている。胸の高鳴りもおさまることを知らず、とくん、とくんと大きな音を立て続けた。
その後も残業を続けているとだんだん人気がなくなっていく。今日はバレンタインだ。みんな早く帰って、家族や恋人と楽しい時を過ごすのだろう。
結局、赤井さんにチョコを渡すことも、想いを伝えることもできないまま私のバレンタインは終わった。未だに鞄の中に眠っているチョコレートは、きっともう表に出ることはない。
これを片付けたら私も帰ろう。机の上に広げていた資料の山を両腕に抱えて、もう誰もいないであろう資料室へと向かった。
赤井さん、きっともう帰っちゃったんだろうな。チョコ苦手だって言っていたし、好きな人、とはきっとあの子のことだろう。私には告白する権利さえ与えられなかった。あの子と、先輩と、同じ土俵に立つことさえ許されなかった。
赤井さんのこと、本当に好きだったのに。
ずっと思い続けたのに。
こんな辛い思いをするくらいなら、最初から好きになんてならなければ良かった……。
私の目からはまた涙がこぼれ落ちた。
思った通り、資料室には誰もいなかった。早く片付けて帰らなきゃ。どうせ赤井さんはもういないんだ。きっと今頃、あの子と……。そう考えるだけで涙が止まらない。赤井さんに気持ちを伝えるまで泣かないって決めていたのに。伝えられないと分かった途端、緊張の糸が切れたように大粒の涙が溢れ出す。
しゃくり上げながらも帰り支度のために自分のデスクに戻ってくると、さっきまでは間違いなくなかったものが片付けたばかりのデスクの上に置いてあった。
──真っ赤な薔薇の花束が。
誰かの忘れ物だろうか。でももうここには誰もいないので、誰の物か聞こうにも聞ける人は誰一人いない。どうやら私が資料室で泣きながら片付けている間にみんな帰ってしまったようだ。静寂に私のすすり泣く声が響いている。
どうすればいいのだろう。
涙を拭いながら、その綺麗な薔薇の花束を手にとった。どこかに誰かの名前が書いてあれば……と思って花束をよく見てみると、花束の中に一枚のメッセージカードが挟まっていた。
【Will you be my Valentine?】
送り主の名前はないが、宛名は間違いなく私の名前。これは何かのいたずらだろうか。それにしては立派な花束だし、いたずらの割にはお金も手間もかかっている。ただ一つ言えるのは、送り主は内部の人間だということだけ。筆跡で分かるかもと思ったが、これだけ大勢の捜査官がいるのに一人ひとりの筆跡を覚えている訳がない。驚きの余り、さっきまでの涙はいつの間にか目の奥に引っ込んでいた。
これを置いたのは一体誰なのだろう。さっきまでなかったということは、私が席を外している間に誰かが置いたということだ。私があれを片付けに行くと分かっていた人。いや、あの机を見ればそんなことは誰にでも想像がつく。であれば、私がいない間に帰った人、もしくはまだ残っている人。……だめだ、該当者が多くて特定できない。
「返事を聞かせてくれないか?」
低い男性の声が、静寂を切り裂いた。
反射的に声がする方を見ると、入り口の壁にもたれ掛かって腕を組んでいる赤井さんがいた。カッコいい。……なんて思っている場合ではなく、今はこの状況を理解する方が先だ。赤井さんが話しかけている相手は、間違いなく私だろう。私以外誰もいないのはさっき確認したばかりだ。では「返事」とは何を意味しているのだろうか。赤井さんの発した言葉がさっきから頭の中でぐるぐると回り続けている。
「返事……あの、返事って何の、ですか……? というか赤井さん、何でまだいらっしゃるんですか……? 彼女さんと一緒に帰ったんじゃ……」
赤井さんに話しかけるだけで声が震える。「彼女」と口にするだけで目の奥に戻った涙が再び零れそうになるのだから、私も相当重症化している。
「何を言っているのかよく分からないな。彼女? 誰のことだ?」
私の方に向かって、ゆっくりと赤井さんが歩いてくるのが足音で分かる。さっきまで泣いていた顔、また泣きそうな顔を赤井さんに見せることなんてできなくて、赤井さんが近づいてくるにつれて顔ごと視線を落とした。
「誰……のこと、って……」
私の口からそれを言わせようとしないで欲しい。彼女の名前を口にしたら、いくらなんでももう涙を我慢することなんてできなくなる。
「それを読んだだろう。まだ分からないのか? 俺が恋人にしたいのは名前だけだ」
赤井さんの言葉に、頭の中が真っ白になったような気がした。さすがに思考回路が追い付かない。一語ずつ、今赤井さんが口にした言葉を頭の中で繰り返す。
──恋人にしたいのは、私だけ……。
その言葉は確かに私に向けて伝えられているはずなのに、どこか他人事のように思えて仕方がない。誰かと間違えているのではないか、というよく分からない考えが浮かんでくるが赤井さんは間違いなく私の隣にいて。どう考えても私に向かって話しかけている。
なんで、どうして。赤井さんには既に恋人がいるはずだ。
あのときの言葉、あのとき見た表情。
赤井さんは彼女に好きと伝えていて、彼女に向かって笑いかけたのだ。それは紛れもない事実。
でも確かにこのメッセージカードには私の名前が綴られている。
"Will you be my Valentine?"
バレンタインのときに使う特別な言葉だということも、アメリカでは女性からチョコを送るのではなく、男性から花束などをプレゼントするということも小耳に挟んだことはある。あるけれど。
──"恋人になってくれませんか?"
これの送り主が……赤井さんだってこと……?
いや、さすがに信じられない。赤井さんが私にこんなメッセージを送るなんて何かの間違いではないのか。嬉しい、嬉しいんだけど、どうしても私の心には引っ掛かっていることがある。
「でも、赤井さんあのとき……告白の返事……。あの子に……嬉しい、好き、って……」
ずっと頭の中で考えていたこと。ぐるぐると渦巻いていた疑問が、無意識の内に声に出ていた。
「告白? ……あぁ、あれのことか。なんだ、聞いていたのか」
私が泣いて、苦しんで、悩んでいたことなど知らない赤井さんは、驚くほどあっけらかんとしていた。あの出来事が、さも日常の一部のように。
「……ごめんなさい、聞くつもりはなかったんですけど……。たまたま近くを通りかかったら、どうしても気になっちゃって……」
「どうせ聞くならちゃんと聞いておけ。あいつには"君の気持ちは嬉しいが、他に好きな奴がいる"と言ったんだ」
私が聞いた告白の返事はどうやら一部だけだったようで、大事な部分が聞こえていなかったようだ。だがもしこれをはっきり聞いていたとしても、赤井さんに好きな人がいると分かるだけであって、結局私は悲観するだけで、今の状況と何ら変わりはなかった。
さっきの赤井さんの言葉を聞くまでは。
「もう分かるだろう。好きな奴、というのは名前、君のことだ」
その言葉を聞いて、私はやっと赤井さんの顔を見ることができた。少し困ったような、それでも優しさを含む瞳は真っ直ぐに私を射抜いている。どうしてだろう、自然に涙が零れた。
信じられないくらい嬉しい。だけど私の心にはまだ魚の小骨のようなものが引っ掛かったまま残っていて、どうにも腑に落ちないことがある。
「でも赤井さん……その、っ、告白されて……返事、するとき……幸せそうに笑ってましたよね……」
「あぁ、それは……」
──君のことを思い浮かべていたからかもしれないな。
そういう赤井さんはあのとき彼女に向けていたものと同じか、もしくはそれ以上に優しい眼差しをしていて。その瞳が見つめる先にいるのは、同僚のあの子でもなく、先輩でもなく、間違いなく私。
とても信じられない。
だけど、今目の前で起きていることは全部現実。夢じゃない。そして、赤井さんの目を見れば嘘をついていないことくらい分かる。
「あのっ、赤井さん……!」
私も赤井さんに気持ちを伝えたい。赤井さんの目を見て、自分の口で「好き」と伝えたい。頬を伝った涙を拭いながら、デスクの端に置いていた鞄へと手を伸ばした。赤井さんのために作ったチョコ。絶対に日の目を見ることはないと思っていた、初めて好きな人を想って作ったチョコ。苦手だと言われるかもしれないけど、これと一緒に赤井さんに気持ちを伝えるんだ。
今日は告白する女の子の背中を押してくれる日なんでしょう。だったら、勇気が出ない私の背中を押して。
「あの! ……っ、赤井さん、好きですっ……! これ、赤井さんのために、作りました……。受け取ってもらえませんか……?」
赤井さんの目を見て言うことはできなかったけれど、やっと自分の言葉で赤井さんに言えた。赤井さんの方に差し出しているチョコを持った手の震えは止まらないし、緊張のあまり未だに赤井さんの顔を見ることもできない。もちろん声も震えていて、赤井さんにちゃんと伝わっているのかも分からない。
でも。赤井さんは私の手の中から気持ちが詰まった箱を受け取ってくれた。中身はチョコレートだと分かっているはずなのに、甘いものが苦手だと言っていたのに、赤井さんは私が差し出すとすぐに受け取ってくれたのだ。その優しさのおかげもあって、私はやっと顔を上げて赤井さんを見ることができた。赤井さんが私に向かって笑いかけてくれている。
さっき私だけに向けてくれたのと、同じ笑顔で。
「ありがとう。君が作ってくれたものなら喜んでいただこう。……決まりだな」
え? と聞き返す間もなく、赤井さんは空いているもう片方の手で私の腕を引いた。一瞬で私の体は赤井さんの方へと引き寄せられ、赤井さんの胸へと頭を預ける。聞こえるのは赤井さんの鼓動。私よりも幾分か落ち着いている心臓の音が聞こえると、反比例するように私の鼓動がまた早くなる。
コトンとデスクの方から物音が聞こえたと思ったら、赤井さんの両腕は私の体をぎゅっときつく抱きしめた。突然距離が縮まりすぎて、私の心臓は忙しなく動き続けている。
"You are my Valentine."
私の耳元で、赤井さんはそっと囁いた。
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