秘密の香りは突然に
最近、秀一の様子がどこかおかしい。
家に帰ってくるのが遅いのはいつものことだし、すれ違いの生活だってもう慣れっこ。職場恋愛の末の結婚で、私もまだ仕事を続けているのでお互い理解もある。……のだけれど、最近やたら私の顔色を窺っているような気がしていた。

「ん? 何? 私の顔に何かついてる?」
「いや……」

またこれだ。こうやって聞いてみても、いつも「いや」とか「別に」と言って詳しくは何も話してくれない。もともと口数が多い方ではないし、秀一の秘密主義は今に始まったことではないから分かってはいたけれど、結婚してもうすぐ一年経つというのに未だにそれは変わらない。普段ならなんともないようなことが妙に気になってしまう。何か私には言えないような秘密でもあるのだろうか。

そんな秀一に少しずつ不満が募っていたところ、とうとう事件は起こった。

それは数日経った、ある日の勤務中のこと。お昼休憩から帰ってきた秀一とすれ違ったとき、秀一の洋服から微かに女性モノの香水の匂いがした。私が使っているものとは違う、もっと甘ったるい匂い。そういえばこの匂い、ちょっと前にも秀一のジャケットに染み付いていたことがある。

それに気付いた瞬間、嫌な汗が背中を伝った。いや、まさか……。秀一に限ってそんなことあるはずがない。秀一のことを信じたい、信じたいけど悪い方向にしか考えられない自分がいる。ここ最近の不自然な行動、今の香水の匂い。決定的な証拠がある訳ではないけど、浮気を疑うには十分すぎるほどだ。私の隣を何食わぬ顔で通りすぎていく秀一に、何も声をかけることができなかった。

今日はデスクワークばかりだけれど、秀一の浮気を疑い始めたらまったくと言っていいほど仕事が手につかない。潜入捜査でもしているのかと思ったが、それなら誰かからそういう話を耳にしてもいいはずだ。

「名前! どうした! 今日は元気ないな?」

後ろから私の背中をバシッと叩きながら話しかけるのは、私と同い年のティム。デスクも隣、捜査で外に出るときもよくチームを組まされるため、こういうことも平気でしてくる。これでも一応女なんだから少しは加減してほしい。背中が痛い。

「なんでもない……訳じゃないけどさぁ……はぁ……」
「ため息ばっかついてても良いことなんてねぇぞ。何があったかは知らねぇが、ほら、これやるから元気出せ」

私に手渡したのは温かい缶コーヒー。まだ冷めていないということはわざわざ買ってきてくれたのだろう。

「ありがとー。ティムもたまには気が利くんだね」
「いつもの間違いだろ?」

言うが早いかティムは私の首に腕を回し、あろうことかヘッドロックをかましてきた。

「ちょっ! ちょっと! 死ぬ、死ぬから! ギブ……ギブッ!」

腕を何度も叩いて限界アピールをすると、ティムはやっと私の首から腕を離してくれた。この男は手加減というものを知らないのか。本当に死ぬかと思った。

「なんだ、元気あるじゃねぇか。そっちの方がお前らしいぜ。らしくねぇ面すんな。赤井さんも心配するぞ」

その秀一が原因で落ち込んでいるんだけど、とはさすがに言えず。でもティムのおかげで少し元気が出た。今日帰ったら、やっぱり秀一に聞いてみよう。





「ただいま」
「お帰り。秀一、あのさ……少し話があるんだけど」

今日のことを聞こうと思い、帰ってきたばかりの秀一にそう問いかけると、「なんだ?」と不機嫌そうに私に聞き返した。不機嫌になりたいのはこっちだというのに。

「今日の昼出てたでしょ。どこ行ってたの?」
「外で食事をとっただけだ」

秀一はふぅ、と溜め息をつきながら、めんどくさそうにあしらった。疲れて帰ってきたのは分かってる。でも秀一のこの態度に、さすがに私も少しカチンときた。疲れてるのは私も同じだ。

「ふーん。外で食事をして女物の香水の匂い纏わせて戻ってくるなんていいご身分だこと。一体どこで誰と食事してたんでしょうねー?」

もっと可愛い聞き方ができればいいのに。こんなひねくれたことしか言えない私はやっぱり可愛くない。さすがに私の言い方が癇に障ったのか、秀一もむっとしていて明らかに苛立っている。

「そういう君こそ最近よくティムと一緒にいるな」
「それは前からだと思うけど。同じ任務につくことが多いからしょうがないじゃない。それより私の質問に答えて」
「別にいいだろう。君には関係のないことだ」

──関係ない。

秀一のこの一言に、ついに私は堪忍袋の緒が切れた。

「はぁ!? 関係ないって何? 私たち夫婦なんだよ!? それなのに秀一はいつも私に隠し事ばっかり! 私そんなに信用ない? だから他の女の人に浮気したって訳!? バカ! 最っ低! 秀一なんてもう知らない!」

それだけ言い捨てて、私は家を飛び出した。


他の女の影をチラつかせておいて関係ない、なんていくらなんでもひどすぎないか。それではまるで、浮気をしていると認めているようなものだ。違うなら違うって、たった一言、否定くらいしてくれてもいいのに。そうすれば私だってここまで言わなかった。付き合っている期間があったとはいえ、結婚して一年も経っていないのに浮気だなんて。秀一はそんなことをする人じゃないって、信じてたのに……。





「ただいま」

いつも通り帰宅すると、いつもは笑顔で迎えてくれる名前が仏頂面で突っ立っていた。嘘をつけない彼女の表情には何か言いたいことがあるとでも書いてあるようで、少しだけ不信感を募らせた。

「お帰り。秀一、あのさ……少し話があるんだけど」

やはりな。こういうときは大抵ろくな話ではない。ただでさえ今日は名前とティムの仲良さげな様子を目の当たりにしてしまったせいで、あまりいい気はしていないというのに。

「なんだ?」
「今日の昼出てたでしょ。どこ行ってたの?」
「外で食事をとっただけだ」

なんだ、そんなことか。それだけのことでこんな深刻な顔をして聞かなくてもいいだろう。ひとつ大きく溜め息をつき、彼女の言葉に返事をした。

「ふーん。外で食事をして女物の香水の匂い纏わせて戻ってくるなんていいご身分だこと。一体どこで誰と食事してたんでしょうねー?」

女物の香水の匂いだと? ……あぁ、恐らくあのときついてしまったのだろう。そんなことを気にしていたのか。俺としては、名前とティムが親しげにじゃれあっていたことの方が余程気にくわない。ああも容易く距離を詰められれば、キスの一つくらい造作もないだろう。

「そういう君こそ最近よくティムと一緒にいるな」

不機嫌さを隠すこともせず、今日見たあの光景を思い出しながら彼女に問いかけた。

「それは前からだと思うけど。同じ任務につくことが多いからしょうがないじゃない。それより私の質問に答えて」
「別にいいだろう。君には関係のないことだ」

俺のこの言葉が逆鱗に触れてしまったようだ。直後、彼女の目は三角につり上がり、俺をキッと睨み付けて怒りを露にした。

「はぁ!? 関係ないって何? 私たち夫婦なんだよ!? それなのに秀一はいつも私に隠し事ばっかり! 私そんなに信用ない? だから他の女の人に浮気したって訳!? バカ! 最っ低! 秀一なんてもう知らない!」

気が強いところが多少なりともあるとはいえ、いつも温厚な名前がここまで怒ったところを見るのは初めてのことで。それに驚いて何か言葉を返さなければと考えている内に、名前は俺の顔を見ることもなく家から出ていってしまった。

確かに俺の言い方も悪かったかもしれないが、いくら夫婦とはいえ話せないことだってある。今回の件にしたって話すのは構わないが今はまだそのときではない。それなのに浮気を疑われるのは心外だ。

少し頭を冷やすべきだ、名前も、俺も。今彼女に連絡して何か弁解をしようとしたところで、火に油を注ぐだけだと判断した。その内に彼女も帰ってくるだろう。帰ってきてから落ち着いて話し合えばいい。


そう思ってしばらく待っていたが、彼女が帰ってくることはなかった。名前が出ていってから既に二時間程は経つだろうか。もちろん俺の携帯に彼女から連絡は来ていない。そろそろ心配になって彼女の携帯に電話をしてみたが、何度かけても電話に出ることはなかった。

もう一度電話をかけようと操作をしていると、名前から一通のメールが届いた。

《もう家には帰りません。私のことなんてほっといてください。声も聞きたくありません。バカ》

相当怒らせてしまったようだ。本気で一生帰ってこないのではないか。彼女のメールには、そんな胸騒ぎがするほど怒りがこもっている。早く彼女を見つけて話をしなければ、このまま本当に帰って来ないかもしれない。携帯と車のキーを手に、焦燥感に駆られて彼女を探しに出た。

そうは言ってもこんな時間に行く場所など分かる訳もなく、あてもないままひたすら車を走らせる。もう何回電話をかけたのか分からない。コール音は鳴っているので電源を切っている訳ではないようだが、一向にコール音が鳴り止まない。その後も電話をかけ続けていると、ようやく名前が電話に出た。

「どこにいる」
『……言いたくない。声聞きたくないって言ったよね。何回もしつこく……あっ、ちょっと!』
「名前? おい、どうした、名前!」

一体どこにいるというのか。会話の最中に彼女の声が途切れ、その後は雑音が聞こえるばかり。名前の身に何かあったのではないかと心配で、ひたすら彼女の名を呼び続ける。

『シュウ、私。ジョディだけど、名前ね、今家に来てるのよ。悪いけど迎えに来てやってちょうだい』

ジョディが話す後ろで、彼女が「嫌! 帰らない!」と喚く声が聞こえる。全く、手のかかるお姫様だ。

「すぐ行く」





ジョディの家で「帰りたくない」とガキのように駄々をこねる名前を引っ張って強引に車へ乗せ、家へと連れて帰った。車の中では俺が何を話しかけても無言を貫き通す彼女。家に着いても車を降りないのではないかと思ったが、さすがにそこまで強情ではないらしい。

やっとの思いで名前を連れて帰ってくることができたので、まずは彼女の言い分から聞こうと思いソファーに並んで座った。

「まだ怒っているのか?」
「当たり前でしょ! 秀一のバカ」

どうやらまだ不貞腐れているらしく、俺の顔を全く見ようとはしない。

「俺が愛しているのは名前だけだ。それとも、本気で俺が君以外の女性に惚れるとでも?」
「私だって秀一のこと信じたいよ! ……でも、人の気持ちなんて分かんないじゃん。現に女の人と会ってたんでしょ。香水の匂い、どう説明する気?」

あと一週間隠し通すつもりだったが、こうなってしまっては仕方がない。これ以上黙っていると本気で離婚するとでも言いかねない。

「……分かった。すぐ戻る。少し待っていろ」

彼女をソファーへ残したまま車に行き、すぐ彼女の待つ部屋へと戻った。それでも未だに俺の顔を見ようとはせず、あからさまにそっぽを向いている。その彼女の隣にもう一度腰を下ろした。

「これだ」

それだけ言って、車の中に隠していたショッパーを彼女に差し出した。やっとこちらを向いてくれたが、「……何のつもり?」とまだ納得がいっていないらしい。

「来週、結婚記念日だろう。君のためにと思いこれを受け取りに行っていた。名前、いつもありがとう」

本当は結婚記念日当日に渡すつもりだったのだが、浮気を疑われ、このまま離婚だと言われてしまっては記念日どころではない。まさか店内の匂いが移っているとは思いもしなかった。捜査であれば気付くことも自分のことになると気付かないとは、俺のミスだと認めざるをえない。

「え? ……ちょっと待って。……いや、本当に……?」
「何故嘘をつく必要がある?」

これでもまだ疑うとは、俺の信用も随分と地に落ちたものだ。名前は恐る恐る俺の方へと手を伸ばし、やっと俺から袋を受け取った。確かにこの袋からは微かではあるが、香水のような匂いが漂ってくる。

「え、と……あの……、ごめん……。せっかく内緒で準備してくれてたのに。最近変にコソコソしてたし、秀一がほんとに浮気したと思って……。前も同じ匂いが服についてたし、私それで……」
「いや、誤解を招いたのは俺の詰めの甘さだ。前に同じ匂いがしたというのは恐らく下見のときだろうな。それより俺の疑いは晴れたのか?」
「……うん。疑ってごめんね」

袋の匂いと彼女が言っていた"女物の香水"の匂いが一致したようで、どうやら名前の誤解は解けたようだ。余程反省しているのだろう、数時間前の威勢の良さはどこへ行ってしまったのか。今では借りてきた猫のようにすっかり大人しい。

「いや、俺もひどい言い方をして悪かった。君があまりにもアイツと仲良さげだったからな。少し不愉快で苛立っていた」
「ティムとは本当に何もないよ。今日のも、その……秀一が浮気してるかもって思ったら……仕事が手につかなくて……」

本当にさっきまでとはまるで別人のようだ。あんなに不機嫌で仏頂面をしていたのに今度は眉を下げて俯いており、なんともしおらしい。仕事に私情を持ち込むな、と本来なら言ってやるところだが俺自身とやかく言える状況ではないし、俺の一挙一動で名前を惑わせているのだと思うと愛しさが込み上げる。

「永遠の愛を誓っただろう。俺の気持ちはあのときと同じ、いや、それ以上。俺が愛するのは今でも名前だけだ」

名前の右手をとり手の甲へと口づけを落とすと、頬を赤らめながらもいつもの笑顔が戻ってきた。





── 一週間後。

俺が有給を取っていることを知った名前も休みを取ったようで、ゆっくり出かけたりディナーをしたりと、久しぶりに恋人の頃のような時間を過ごした。

名前の首には、先週送ったネックレスが俺達の未来を象徴するかのように煌めいている。



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