疲労回復薬


「ただいま。」



玄関でパンプスを脱ぎ、バッグを床に投げ捨ててリビングのソファーに倒れ込むように横になると、ばふっ、とソファーが音を立ててわたしの体を受け止める。スーツが皺になるのも気にせず、わたしは体を丸めてクッションに顔を埋めた。



「おかえり。」


「……ただいま。」


「疲れてんなあ。スーツ、皺になるぞ。」


「んー。」



さらりとわたしの頭を撫でながら、「ジャケットぐらい脱げよ」なんて言われても、気を張っていたものが一気になくなったからか体が思うように動かない。脱力。クッションに顔を埋めながら生返事をして何とかやり過ごそうとする

月末月初はいつも忙しい。事務処理が多く、締めの時間に追われて朝から晩まで電卓を叩いて、キーボードを打って。今日はそれに追い討ちをかけるかのように請求トラブルが続いて課長や部長たちへの承認を取ったり、お客様に謝りの連絡を入れたり…落ち着く間もなく1日が終わってしまって



「来週及川たちと飲みに行くんだけどさ。」


「うん。」


「松川が婚約したらしくって。その飲み会でお祝いしようぜーってなって、みんなでプレゼント持ち寄りになったんだけど、何がいいと思う?」


「んー。」


「二人で次の休み選びに……なまえ?」



貴大は元気だなあ。


大学三年生で、好きなバレーを続けて。毎日キラキラしてる。貴大の口から語られる毎日は繰り返しの同じものなんてなくて。それがひどく羨ましく感じてしまうわたしがいる。嫌な感情だなあとは思いつつも人は強欲だから仕方ないとも思う

別に仕事が嫌いなわけではない。憂鬱になる時もあるけれど、会社の雰囲気も人も悪くないし、仕事内容だって自分に合っていると思っている。元々事務方の仕事は嫌いじゃないから。だけど、貴大と比べると、毎日が同じことの繰り返しで、キラキラなんかしてなくて、ただ目の前のことに必死で。貴大と比較してしまうとわたしの毎日って色がなくて、ただただ色んなものを消耗していくだけ



「わたしには、関係ないもん。わたしは飲み会なんてないもん。」



なんて可愛くないことを言ってしまうのは、たぶん疲れているから。いつもだったら、そんなこと言わない。思わない。なのに、今日はなぜか口にしてしまった一言。はっと気付いた時には口から転がり出た言葉たち。いくらお口の中に戻そうにも一度出た言葉は戻ってこなくて



「なーに、拗ねてんだ。」



それでも、貴大は嫌な顔をせずにわたしの頬をむにっと摘んで相手をしてくれる。捻くれ者で面倒臭いこんなわたしのことを



「いひゃい。」


「今日、仕事忙しかったのか?」


「……うん。」


「こんな時間に帰ってきたんだもんな。」


「…うん。」


「お疲れさん。頑張ったな。」


「ん。」



さらりとわたしの頬を撫でる貴大の手があまりにも優しくて結局落ち込む。貴大は面倒臭いわたしのこともちゃんと受け止めてくれるのに、わたしときたら自分が疲れているからって貴大の話も聞かないし、可愛くないことを言って貴大を困らせて。これじゃあどっちが社会人なのかわからない



「嫌な女。」


「なんで?」


「貴大に嫉妬してるの。貴大の方がキラキラした生活を送ってるって。好きなことできているって羨ましく思って、嫌な女になってる。貴大だってわたしに見せないだけできっと色々あるのに。」


「まあ、いいんじゃねえの?」


「でも。」


「おれもなまえに嫉妬することあるし。」


「わたしに?どうして。」



貴大が突拍子もないことを言うもんだから、少しびっくり。だって、わたしなんていつもパソコンに向かってガチャガチャとキーボードを打って書類まとめたり、請求書発行したり、事務処理しているだけなのに、どこに嫉妬する要素があるのか

素直に疑問をぶつければ、貴大は困ったように頬を掻きながら、苦笑を一つ。これは照れている時に出る癖だ



「かっこ悪いだろ。彼氏が大学生で彼女が社会人なんて。」


「そう?」


「そうだよ。部活があるからバイトも満足にできなくて、同棲って言ってもほとんどなまえがお金出してるだろ。」


「そんなことないよ。」


「あるよ。松川みたいに潔く決められないけど、おれはなまえとの将来をちゃんと考えてる。けど、今のおれにはそれができないから。」


「そんな。」


「なまえはかっこいいじゃん。いつもへとへとになるまで仕事して。」


「スーツのままソファーに倒れ込んでも?」


「かっこいいよ。それだけ、頑張ったんだろ。」


「……ありがと。」



じわり、と歪む視界。涙腺が緩んでいるのは疲れているせいだ。目頭が熱くて仕方ない。泣きそうな顔になっていることを悟られたくなくてクッションに顔を埋めたのに、貴大にはばればれで悔しい。わしゃわしゃとわたしの頭を撫でてくるんだ。そんなことしたらもっと泣きそうになるじゃん

やられっぱなしは性に合わない。だから、わたしも恥ずかしいけど吐露してみるの。この胸に抱いていた想いとやつを



「貴大は、ずるい。」


「なんでよ?この流れでずるいとは。」


「かっこ悪いわけないじゃん。バレーをしている貴大が好き。何でもわたしのこと見透かして、こうやってわたしの頭を撫でてくれる貴大が好き。」


「お、おお。どうした、急に。」


「他にもいっぱいあるけど…かっこいいわたしがこんなにも貴大のこと、大好きなんだから、かっこ悪いわけないじゃん。」


「……ははっ、確かにそれもそうだな!」



「それにしても、照れるな」と頬を掻きながらにへらと笑う貴大。その顔になんだか嬉しくなって、わたしはしてやったり顏で貴大の少し紅くなった頬に手を這わす。「なんだよ」と言いながらもわたしに倣ってわたしの頬に手を這わし、ゆっくりこちらに近付いてくる貴大の顔。わたしの顔と貴大の重なる。ちゅ、と小さなリップ音が響き、次いでお互いの鼻がぶつかり、思わず笑ってしまった



「さーて、なまえさんや。」


「んー?」


「お風呂にする?ご飯にする?それともおれにする?」


「……何それ。」


「洒落の通じないやつだなあ。」


「おれにするって言ったらどうなるの?」


「風呂とご飯は明日の朝になる。」


「明日の朝になるの?!」


「今日のなまえが可愛くてかなりグッときたから。」


「ちょっと意味わかんな、んっ。」



抗議しようとした言葉をぱっくり食べられて。さっきの可愛らしいキスとは違って、深くまで。わたしの酸素を全て食べ尽くしてしまうかのようなキスに呼吸困難。苦しくなって、堪らずソファーの上で足をばたつかせた。唇が離れた途端、一気に酸素が送り込まれて一気に顔が熱くなる。その上、飲み切れなかった誰のかもわからない唾液が二人の間につうっと線を作り、ソファーに染みを作った



「で、どうする?」


「……お風呂入ってご飯。」


「この流れで!じゃあ、おれは?」


「………そのあとで!」


「んー、まあいっか。じゃあお風呂行くか。」


「え、ちょ、ちょっと待って何してるの?!」


「お疲れでしょうからお姫様抱っこでも。」


「いや、だ、大丈夫!歩けるよ、一人で!」


「そう遠慮なさらずに。お背中流しますよ?」


「けけけけ結構です!」



暴れるわたしにお構いなしに、背中と膝裏に手を差し入れて、ひょいっと軽々わたしの体を持ち上げてしまう。このままお風呂場へとご案内してくれるようだ。しかも背中流し付きで。これはもう覚悟を決めなければいけないようだ、と溜め息を一つ吐き出して、宙に浮いた体を安定させるため、きみの首にそっと腕を回した



疲労回復薬はきみの口付けにて
じんわりわたしの口内に広がって、体全体を熱くするから


(貴大のえっち。)
(お褒めに預かり光栄です。至極健全な一般男子だけどな。)
(褒めてないし。20歳超えた男は男子じゃないし。)
(ところで、なんで乳白色の入浴剤?)
(……ばか。)


ジャケットやら何やらきみの手でぽいぽい脱がされてお風呂場へ。本当に背中を流されてちゃっかりきみも湯船へちゃぽん。身長差があるから良いものの、二人で入るには少し狭い湯船でぴたりと密着する体。色々恥ずかしいからとなけなしの抵抗で入れた入浴剤がお気に召さなかったらしく、唇を尖らせながら「べつに隠すことないだろ今更」なんて宣うきみの太腿をむぎゅっ、と抓ってやった。「いてて」と言うきみの胸に背中を預ければ抱き締められる体。お湯ときみの体温で今にも逆上せそうなわたしのキラキラした1日の一欠片

あとがき
疲れた1日を何となく花巻に癒して欲しくなって。シュークリームを食べるかお風呂に入るか迷った末、最近自粛で太ってきたのでお風呂にしました。ちなみにわたしはシュークリームよりエクレア派。シュークリームはツインよりカスタード派です!



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