宣言


「徹のばーか!」



喧嘩をした。きっかけなんてとても些細なことで。



「馬鹿って何だよ。」



ぽつりと呟いた言葉はおれ以外誰もいなくなった一人の部屋によく響く。反響して自分の耳に返ってくるのが何だか居心地が悪くて舌打ちを一つ


馬鹿とか言われる筋合いなんてないし。


唇を尖らせてそんなことを思う。飛び出していったなまえを追い掛けることもせず、部屋の中心で胡座をかいて、頭を掻きむしった。大体なんでおれが追い掛けなくちゃいけないんだ。勝手に出ていったのはなまえなんだから、べつにおれが追い掛ける必要なんてないしとか自己擁護

きっかけは本当に些細なこと。おれは男で、なまえは女。だから仕方ないこともあるだろうって思うんだけど、なまえはそれがお気に召さなかったようで。まあ、ぶっちゃけて言えば、見つかったわけですよ、男の夢とロマンが詰まったあのちょっといかがわしい本が。いや、実際はちょっとどころじゃないほどの、いかがわしい本が



「こんなん、男なら誰だって持ってるっつーの。」



おれだけじゃないはず、そうだ、そのはずだ、なんて自分に言い聞かせるように言ってみたり。いや、だって本当にこんな本の一冊や二冊、男なら誰だって持ってるはずだ。ましてやおれだって思春期だし、普通だろ、普通。うん、普通なんだ。それなのに。



「飛雄の名前なんて出してむかつく。」



喧嘩の最中、なまえの口から飛び出した名前に苛立ちが今も消えない。いつもは、はいはいと聞き流したり、宥めたりして、上手くなまえをコントロールしてきたけれど、飛雄の名前が出た時に、つい腹が立って、いつもなら聞き流せたのに、聞き捨てならない言葉に喧嘩はヒートアップ。引き際なんてわからなくなって


飛雄ならこんな本持ってないとかふざけたこと言ってさ。持ってるだろ、あいつだって、エロ本の一つや二つ。


まあ、確かに想像はできないけど、なんて言葉を付け足しておく。あいつはエロ本とかよりもバレーしか頭にないバレー馬鹿だ。女子と仲良くしているところすら見たことないし、たぶん女の子の扱い方すら知らなさそうだ。いや、そとそも興味がないんだろうな、きっと。あいつ馬鹿だし。それにしても今頃は二人でゆっくり家で過ごす予定だったのに、面倒なことになった。ああなったなまえは意固地になるし、おれもおれで謝りづらい。ていうか、別に悪いことしたわけじゃないのになんで謝らないといけないのか



「……まさかね。」



窓の外を見れば真っ黒な空。なまえは今日家に泊まりに来ていて、明日の昼に帰る予定で。夜も更けたこの時間に一人女の子が外をうろうろしているのは、やっぱり危ないだろうか



「仕方ないなあ。」



出て行ったなまえを追い掛けるのではない。仕方ないから迎えに行ってやるのだ、と自分に言い聞かせて重たい腰を上げる。世話が掛かる奴めと思いながら上着を着て、ポケットに突っ込む財布と携帯電話

どたどたと階段を下りて、玄関。お気に入りの靴を取り出して、靴紐をきつく結んだ。すっと立ち上がって、押し開いたドアを合図に、駆け出しちゃったりなんかして



「……ったく。」



どこをほっつき歩いているんだか。家の周りを一周してみたけれど、どこにもいらっしゃらない。もう少し探す範囲を広げるか、それとも、家で待つか。もしかしたら入れ違いで帰っているかもしれない。頭の中まで錯綜しちゃって



「あ、そうだ。」



さすがに夜は冷えるな、とか思って上着のポケットに手を突っ込んで、便利アイテムがあったことを思い出す。そういえば、これがあったのだ


えっと、なまえは。


発着履歴を開けば一番上。一番上どころではなく、ページを埋め尽くすなまえの名前に苦笑い一つ。ぽちっとボタンを押して発信音。ぷるる、ぷるる、と何度も繰り返し響くコール音にまだかまだかと焦る気持ち。六回目のコール音が鳴り響いて、待ち切れず荒々しく携帯を閉じた



「あーもう。なんで出ないのさ。」



舌打ち一回。そんなに怒っているのか。舌打ち二回。エロ本ごときで、なんて言うのもあれだが、そんなに怒るようなことだろうか。人が心配して掛けた着信を無視するほど

いらいらする頭。握り締めた携帯電話。もう帰るか。放っておけばなまえが落ち着いた頃に連絡あるだろうし、帰ったらいるかもしれないし。なんて思いながらも、この辺りだけ探したらなんて体は勝手に動いていくんだから、本当どうしようもないな。とりあえず手当たり次第探していく周辺。心当たりなんてない。本当なまえはどこに行ったんだ、なんて思いながら通り過ぎようとした公園。そう言えば、小学生の時によくここでなまえと、岩ちゃんと三人で遊んだっけ。大きな遊具が空洞になっていて、まるで秘密基地みたいで


あれ、そういえばあそこ探してないな。


もしかしたら、なんて思って覗き込んでみれば、ほら。



「何やってんのさ。」


「……っ。」



遊具の中で膝を抱えて小さくなっているなまえの姿。小学生の時はひどく大きく見えたこの遊具も今ではすっかり萎んだように小さく見えて。だから、だろうか。なまえの体もひどく小さく見えるのは

声を掛けたけれど無視される。ねえ、ともう一度声を掛けた時に、月明かりが遊具の中に差し込んで、なまえの頬にきらりと光る一滴



「ちょ、何、泣いてんの…?」



言いたいことはいっぱいあったはずなのに、なまえの涙のせいで全然違う言葉が口から飛び出す。文句も、不満も、全部すり替わって出た言葉が遊具全体に響き渡った。その言葉にも返答はない。むっと引き結ばれた口から発せられるのはただの沈黙だけ

なまえの泣き顔は苦手だ。思考が停止する。昔から、なまえの泣き顔を見るとどうすればいいのかわからなくなって。いつものおれらしくいられなくなるから



「……徹。」



遊具全体に響くなまえの声。おれの名前を呼ぶ声で、はっとして、返事をする。どうした?と首を傾げて聞けば、ぽつりと呟くように、たった一言



「ごめんねえ。」



膝を抱えて、そこに顔を埋めながら、消え入りそうな声でなまえが告げた謝罪。ああ、もう仕方ないなあ。


本当になまえは。


肩を竦めて参りました。返事の代わりにと、思わず引いたなまえの腕。引き寄せて強く抱き締める。もう、いいよ、もういいからそんな顔しないでくれよ。そんな気持ちを込めて抱き締めてやれば、背中に回るなまえの腕。きゅっと弱い力で抱き返されてなんだか胸が熱くなる



「なまえ、帰るよ。」


「…ん。」


「徹。」


「何?」


「馬鹿って言ってごめんね。」


「…もういいよ、気にしてない。」


「徹。」


「ん。」


「大好き。」


「……あー、くそっ。」



怒っていた気持ちも、飛雄への嫉妬も、全部それでチャラになるんだから、おれはどうあってもなまえには敵わないんだろう。なんだか悔しいと思うおれと、それがひどく幸せなことだと思うおれがいる

仲直り。喧嘩なんて最初からおれの負けが決まっていて。帰ったらあのロマンがいっぱい詰まった本は処分しないとなー…なんて少しだけ遣る瀬なくもなったけれど、まあ、いいか。なまえがこの腕の中にいてくれるなら。なんてな。



きみに完全幸福宣言
結局きみには敵わないな、なんて。


(ていうか、何回も電話したんだけど。)
(え?着信……あ。)
(ねえ、ちょっと。)
(徹の部屋に忘れちゃった。)
(携帯の意味ないよね、それ!)


帰り道、えへへ、と隣を歩きながら反省の色もなく笑うきみに頭を抱える。さっきまでのおれのやきもきとした気持ちを返してくれ。何度鳴らしても電話に出ないからすごく怒っているのかな、とか、何か事件に遭ったんじゃないか、とか、色々と思考を巡らせ、心配ではげるかと思った。割と本気で。そんなことをきみに言えば、きみは笑いながら「徹が隣にいれば、携帯なんて必要ないよ」なんて。ああ、もう。きみは本当に馬鹿じゃないのか。そう思いながらも、隣を歩くきみの手を握り締めてしまっているんだから、おれこそ本物の馬鹿なのかもしれない。はあ、と溜め息を一つ吐き出して隣を歩くきみを見つめる。そうして思う。おれはきみの前では白旗ばかりの完全降伏宣言

あとがき
昔作っていたもののリメイク。きっと次は本ではなくネットで閲覧することをお勧めするよ、及川さん



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