01


「はい、受理しました。」



なんと、淡白な対応か、と思った。役所の受付の人が何か言ってくれるなんて、そんなことあるわけがないのに、何を期待しているのか。


あの時は、幸せ一杯だったのに。


受付の人も今と違って、笑顔で対応してくれていた。「おめでとうございます」なんて言ってくれて。それに、一人じゃなかった。あの時は隣にきみがいて、二人で、幸せ一杯だった。それなのに、わたしは今、一人だ

役所を出て、見上げた空。あの日と何も変わらない、雲一つない快晴の空だった。それなのに、わたしの心はあの日とがらりと変わって、曇り空。グッと握り締めた拳。爪が食い込んで少し痛い。そうして、現実だと知る。今こうしてわたしが一人でいるということが紛れもなく現実なのだと、知らしめている。夢であれ、と思った。何度も何度も。そう思っても、残酷にも今は夢じゃなく現実だと思い知らされる



「ばかみたい。」



一人、口から落とした言葉を拾う人はいない。役所に入っていく1組のカップルを見送った。腕を組んで、手にしている、茶色い紙。目を逸らして、唇を噛む。たぶん、あの二人は今から役所の受付の人に「おめでとうございます」と言われるのだろう。あの日のわたしたちと同じように

止めていた足を動かして、前へと進む。ここに根を張って振り返ったって、どうせ、戻ってこないのだ。どうせ変わらない現実がそこにあるだけ



「どうして、こう、なったんだろ。」



自問自答したところで、答えなんてない。きっかけなんて、些細なもの。知っていたのに、そういう奴だって。それなのに、わたしが、そこを責めた。いけないと思いながらわたしは口にしてしまったのだ。絶対に言ってはいけない、禁句、というやつを



「バレーとわたし、どっちが大事、なんて。どこの安っぽい恋愛ドラマよ。」



本気でどちらかを選んでほしいと思って言ったわけじゃなかった。選べるわけもないと思っていた。だって、あいつはプロのバレーボール選手で、日本代表で。どっちも大事にしてくれてるって思っていたのに、結局あいつが選んだのはバレー、だけ、だった


わかってはいたけど、本当に選ぶとか馬鹿か。


同じぐらい大切にしてるに決まってるだろとか言ってくれるだけで良かったのに、まさか本当にどちらか選ぶの?なんて呆れた。いや、選ばせたのは自分だ。そんな自分を棚に上げて何を言っているんだとか思うけど、まさか本気で選んで、本気で家を出て行くなんて思わなかった。口先だけでもどっちも大事って言って丸く収めりゃあいいのに、嘘が吐けない馬鹿正直な奴なんだ。本当にバレー馬鹿。嫌になるくらいバレーしか目に入っていないんだ



「そこが、好きだったんだけど。」



月日っていうのは不思議なもんで。自分が思っている以上にそれを維持するのが難しい。バレーに一直線なあいつが本当に好きだった。でも、家庭を顧みない。それが、少しだけそんなあいつを嫌いにさせる。そりゃあ、結婚する時はそんなあいつを支えるんだと息巻いていた。それが逆に良くなかったかも。肩に力が入り過ぎて空回りしていた。体に良い食事を用意して、毎日練習で家には寝に帰るだけ。たまの休みもバレーばかりで、デートもない。家に一緒にいるんだからデートも何もないのかもしれないけど、たまには二人で出掛けたりしたかった。それでも、いつも笑顔で送り出す良妻を演じていて、いつの間にかそれがひどく辛くなって。辛い、寂しいなんて言えなかった。重荷になりたくなくて、そして、放ったのがアレだ



「失望したって、何それ。」



失望したって。わたしそこまで器用じゃないし、馬鹿じゃん。


夢見すぎなのよ。みんながみんな、あんたみたいにストイックじゃない。もう日向と結婚したら良いんじゃないの、バレー馬鹿変人コンビで。そしたら円満じゃん。二人とも料理とか生活能力からっきしだから野垂れ死ぬだろうけど、それでもわたしと一緒にいるよりは幸せだったと思う。だってバレーと自分を天秤に掛けたりなんかしないもの。バレーしか選択肢がない二人なんだから…って、何に対抗心燃やしてんだ。あー、やだやだ

別れた男とのことをぐちぐちと悩んでいる自分が嫌になる。まあ、それも仕方ないのかもしれないけど。なんせ、10年だ。中学から付き合って、10年。まさかこんなに長い月日をともにするなんて思わなかったし、自分が高校を卒業して学生結婚するとは思わなかったし



「23歳でバツ1って洒落にならないし。」



子なしなのが唯一の救い。でも、子供がいなかったから、別れたのもある。別れても身軽だ。一人に戻るだけだから。でも、10年という月日は馬鹿にならない。一人になるだけ、なんて簡単に考えられなかった。だって、わたしたちの10年何だったの?と思えて仕方ない

10年の間にそりゃあ、別れの危機というのはやってきた。人の機微がわかるほど器用なやつではないし。セッターとしては器用だけど。中学三年の時の荒れたあいつは凄かったし、八つ当たりのような扱いにむかっ腹が立って何度別れてやろうかと思ったかわからないけど、それでもなぜかあいつから離れられなかった。やっぱりあいつなりに優しかったし、不器用ながらにわたしに気を遣ってくれてるのも知ってた。そんな記憶が邪魔をして別れさせてくれなかった、なんてひどい他責



「はあーあ。恋愛ってどうやるんだっけ。」



もうよくわかんないし。今更どう恋愛を始めたらいいかもわからない。あいつしか、知らないし



「影山真緒、ねえ。」



苗字がしっくりこなかった数年前の今日。そう、わたしたちが同じ苗字を背負った日と皮肉にも今日は同じ日。別々の苗字を背負う。まあ、元に戻る、だけなんだけど。


違和感、なくなってたなあ。


いつの間にか影山真緒という名前に違和感がなくなってた。何なら、さっき出した届出の苗字を違和感なく影山と書いてしまったぐらいだ。もう影山じゃなくなるのに自然と書いてしまった自分に怖くなった。これから何かをサインする度に自分は影山じゃなくなったんだと思い知らされるのかと嫌気が差すくらい



「あれ、都築?」



大体、影山って苗字、影の字のバランス取るの難しいったらないし。山の字は書きやすいけど。しかも、飛雄のせいで一回再提出食らったから、今日になっちゃったわけだし。字ぐらい綺麗に書きなさいよね。常々言っていたのに自分が読めればいいんだとかあのアンポンタンのせいで役所の人が難しい顔するし



「おーい、都築。」


「わっ。」


「あ、悪い。びっくりさせたか?何回か呼んだんだけど。」


「す、すすスガさんっ。びっくりした…ていうか、すみません、呼ばれているのに気付かず…。」


「大丈夫大丈夫。こんなとこで何してんの?」


「え?あー…。」


「里帰り?影山、今日も試合あるだろ?」


「そう、ですね。」


「観に行かなくていいの?いつも応援、しに行ってんじゃん。」


「あー、いや、べつに…今日はいいかなって…。」


「そう?」



都築、と声を掛けられて気付かなかった自分に嫌気が差しながら、笑顔を作れば、スガさんの話に出てきた影山のことでぎくりとする。わたしと影山が結婚していたことは、そりゃあ烏野バレー部の皆さんはよくご存知だ。結婚式にも来てもらったし、それ以前から付き合っていたことは知っているし


今日も、試合だったんだ。


知らなかった。いつもチェックしていた試合スケジュールをチェックしなくなったから。確かにこの時期は試合多いって聞いてはいたけど、それも大分前の記憶で。まさかこんなところで知り合いに会うとも思わないし、用意していなかった答えのぎこちなさ。嘘を吐いている後ろめたさで目を逸らして答えればスガさんは何も変わらない笑顔で笑う



「あれ、都築。指輪は?」



心臓が大きく跳ねた。バッグを肩に掛けてそれを持つ手の指。左手の薬指を指差して、スガさんが首を傾げる。よく、見ていらっしゃる。舌を巻くほどだ。しかしながら、わたしはその質問に対してもっともらしい嘘を思い付けず、えっと、なんて口籠る。その時点で、答えなんてわかるだろうに、それでも何とか誤魔化すための上手い言い訳を探して目が泳いだ



「まさかとは思うけど…もしかして、影山と……別れた?」



核心を突いた、その一言。これはもう誤魔化しなど効かない。その言葉にぎくりとした顔をしたのも見られちゃって、気まずさが二人の間を占拠。もう白状するしかないようだ、とわたしはグッとバッグを握る手に力を込めて



「あはは…離婚、しちゃいました。」



その言葉は自分で放ったのに、ひどく、わたし自身の胸を穿つ言葉だった。



今日、わたしたちは離婚しました。
提出した緑の紙は思った以上にひどく重たい一枚だった


(え、マジ?)
(マジです。)
(自分で聞いといてなんだけど、めっちゃ衝撃的…。)
(あはは…わたしもです。)
(うわ…なんかごめんな。)


謝られると余計に辛いんですけど。そう思いながらも何とか笑顔を作る。引き攣っていた笑顔。腫れ物にでも触るかのような態度に胸がちくり。もういっそのこと笑い飛ばしてくれたら楽なのに。やっぱり別れたのかー!とかさ。長続きするわけないと思っていたよ!なんて冗談めかして言ってくれたら、わたしもそれに合わせて、わたしもそう思ってましたよー!なんて笑いながら言えたのに。顔では一生懸命笑顔を作って、胸ではじゅくじゅくとひどい傷を負っている。長続きすると思っていた。ずっとあいつと一緒にいるんだと、あいつを支え続けるんだと思っていた。あいつのこともバレーのことも全部引っくるめて、全部好きだったのに。なんで、こうなったの。天秤に掛けるつもりはなかったと後悔をしても、提出した緑の紙は夢ではなく現実だ。だから今日、わたしたちはそれぞれの苗字を背負って、違う道を歩き出す。

あとがき


最初から別れる、という。結婚も重たいですけど、離婚もなかなかに重たい。とにかく手続き関連が面倒なんですよね。クレジットカードの名義変更とか色々…まあ、離婚したことはないですが。結婚の時の手続きがしちめんどくさったことを思い出しながら書きました。



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