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ほっ、と一息。マグカップに入ったコーヒーを一口口に含んで、また、はあと息を吐き出し、頭を抱える


スガさんにバレちゃったなあ。


スガさんにバレたと言うことは、他のメンバーにもバレるのも時間の問題だ。別にスガさんの口が軽いとか、わざわざ言いふらすなんて思っていないが、あの人たちはみんなこぞってピュアなのだ。嘘など、吐けるはずもない。何かの折に、飛雄の話題になるかもしれないし、その時はやっぱり、そういう話になるだろうと思う。飛雄自身は自分のことをべらべらしゃべるタイプじゃないし、こういう話に関しては聞かれたこと以外答えない

何なら、つい先日のことだ。スポーツ雑誌の特集で牛島さんと並んで取材を受けた時に、既に結婚して既婚者だと言う話をしたのは。それまで、暗黙の了解でその話題には触れなかった。それに職業柄、飛雄は指輪をしていなかったし、彼女がいるかの質問も「いない」と答えていただけ。そりゃあ、そこでいるなんて言ったら、すごいことになるし。公然不倫かよって。そこは彼女はいないじゃなくて妻がいるんでとか言ってくれたら良かったのに、なんて終わったことをぐちぐちと



「ま、もう、わたしには関係ないけど。」



関係なんて、今日で終わりだ。この家ともおさらばしないといけない。だってこの家は飛雄名義になっているし。家、と言えば、財産分与とか面倒だからいいとは言ったものの、さてこれからどうしたものか。わたしは大学を卒業してからずっと専業主婦で。飛雄は年柄年中バレーボールに奔走していて、バレーが関わらないこと、特に家事などはかなり無頓着、というか全くといっていいほど無能だったから、そのお世話に掛かり切りになって、就職なんてしなくていいと言う飛雄の言葉に甘えたまま、今まで過ごしてしまった。さすがに今から就職先を探すのはなかなかに骨の折れる作業だ


生活があるから、仕事と家、これだけはどうにかしてすぐに見つけないと。


実家に帰ればいいのだろうが、色々と事情があってそれは難しい。今日のために昨日は仕方なく実家に帰ったが、飛雄がいないことにぶうぶうと文句を言う飛雄ファンの母にうんざりだった。それで出戻りなんてしたら、なんと言われるか…勘弁して欲しいところだ



「仙台に帰るのも、あり、だけど…。」



何も東京に拘らなくても、仙台なら。家賃はきっと都内よりずっと安いし、働き口だけが問題だ。預金は…ちょっとはある。奨学金は飛雄のお陰で早々に返すことができたし、そこまで大きな問題はない。本当に家と仕事、だけ

東京に拘りはないけど、住めば都、だ。いつの間にか馴染んでしまったここを離れるのは少し悲しいような、寂しいような。マグカップに入ったコーヒーを見つめ、また溜め息を溢すと、中に入ってるコーヒーがゆらゆらと小さく揺れた



「仕事、探そ。」



とにかく、そこからだ。仕事がなければ家も借りられないし、生活もできない。この歳でホームレスは勘弁したいところ。とりあえず明日ハローワークに行って、それから派遣会社とかにも登録しよう。そんでもって、求人雑誌と履歴書とかも買ってこよう



「ふわあ。」



欠伸が一つ口から溢れ落ちて、ちらりと時計を確認すればもう既に0時を回っている。寝よう。早寝早起きの生活をしていた身としてはもう体が就寝モードに入っている


今から寝て、5時半には起きなきゃ。飛雄の練習着出してと朝食の準備…って、いらないのか。


もう離婚したのに、馬鹿みたい。わたしの生活の中心は飛雄だったから、つい癖になってしまっていることに頭を抱えた。こんなんでわたし、やっていけるのか、と。



「ええい、何をうじうじと!飛雄とわたしは他人!寝る!!」



コーヒーを飲み干して、サッと洗い、歯を磨いて寝室へ。一人が使うにしては広すぎるベッドに体を沈めて、電気を消せば真っ暗になる部屋。しんと静まり返ったそこで、体を丸めて目を瞑る


早く、慣れないと。


一人で寝ることにも、飛雄のいない生活にも。いつ出て行けと言われるかもわからない。早く、ここを出て、新しく生活をスタートさせなきゃ。そう決意して、グッと拳を握り呼吸を整えれば、仙台から東京への移動で疲れていたらしいわたしはゆっくりと眠りに落ちていった



***



すっかり習慣付いてしまっていた早起き。意味もなく朝5時半に目が覚めてしまった。目覚ましをかけなくても決まった時間に起きってしまった自分が憎い…そう思いながら、二度寝を決め込もうと思ったのに、習慣付けられた体は二度寝を許してくれず、これまた憎さが募る。仕方ない、と起き上がり、コーヒーを入れてトーストとベーコンエッグを作りながら欠伸を噛み締めたのが今朝のこと



「就業経験なし、ですか…。」



今13時半、わたしは担当の男性にやれやれと溜め息を吐かれている。何とか着ることができた大学入学の時に買ったスーツの袖口をキュッと握り締めた


わたしだって溜め息を吐きたいよ…。


履歴書を見ながらわたしの頭からつま先までを見て、うーん、と首を捻る。笑顔が引き攣っているが、緊張のせいだと思ってくれるだろう。ここは我慢だ、と自分に言い聞かせて何とか笑顔で「すみません」と誰に対しての謝罪がわからない言葉を口にした。これで、この言葉を口にするのは本日二度目だ。1回目はハローワークで。2回目はここ、派遣会社だ。事務系の派遣が多いらしいここで、とりあえず登録だけでもとアポを取り足を運んだが、まさかここでも同じ反応をされるとは



「就活に失敗した、とかですか?アルバイトもしていなかったようですが…。」


「あ、いや…結婚、していたもので。」


「結婚?ああ、それで。じゃあ、今まで専業主婦ですか。」


「はい。」


「今の時代、それだと働き口があまりないんですよね。今まで専業主婦だったなら尚更…えっと、パソコンは得意ですか?」


「あ、パソコンならそれなりには使えるかと。」


「なら、まあ大丈夫かもしれませんね。」


「本当ですか?!」


「そんなに時給は高くないですが、まあ、少しはあります。探してみましょう。それとあとでタイピングの入力テストを受けてください。」


「ありがとうございます!時給が低くても良いです!働けるなら!!」



何度も頭を下げてお願いをすれば、担当の男性は頑張ってみましょうと本日初の柔らかい表情を浮かべてくれた


よし、これで一歩前進だ!就職が決まったわけじゃないけれど、そのための一歩が踏み出せたのだから、大きな一歩だ。今は正社員じゃなくて派遣でも何でもやって少しでもお金を稼がなくては!

うし、とグッと拳を握り締めて小さくガッツポーズ。派遣会社のビルを出て、伸びを一つ。気慣れないスーツはひどく肩が凝る。首をぐるりと回して、ふう、と息を吐き出して見上げた空。昨日と同じ、晴々とした空は昨日と違いわたしの心を映しているようだ



「飛雄は、何してるんだろ。」



ふと、ちらりと脳裏を過ぎる、元夫。何も、嫌いで別れたわけではない。ちょっとしたすれ違いがあっただけ。それでも取り返しがつかなかったから、こうなって



「ちゃんと、食べてんのかなあ。」



そりゃあ食べてはいるんだろうけど。でも、自炊できる人じゃないし、どこかでお世話になるか、ホテルとかに泊まって外食、かな。東京が拠点だから、まさか仙台には帰っていないと思うけど


意外と、普通にやれちゃうんだな。


わたしも、飛雄も。一緒にいないとダメだと思ってた。お互いに。飛雄にはわたしがいないとだめで、わたしには飛雄がいないとダメだと思ってた。だから、結婚したのに、別れてしまってから気付く。意外といなくても大丈夫なんだな、なんて。そりゃあ、長い付き合いだから寂しさはあるけど、でもそれだけ。この人がいないとダメ、なんてこと、ないんだなあと気付かされて、やつぱりまたどこか寂しく思う



「しんど。」



飛雄のことを考えるのはしんどい。考えたところでどうにもならないから。

はあ、と吐き出した溜め息は目がチカチカするような青空に吸い込まれてどこかへ消えていった



きみのいない風景に、溜め息。
きみがいなくても綺麗な風景があるのだと、気付いた。


(あ、都築さんですか?)
(はい。)
(急にすみません、ポラリースタッフの三木元と申します。)
(あ、初めまして。都築です。)
(早速なんですが、明後日、面談行けますか?)


流れていく時間。今日が終わって、明日がくる。昔の自分の時間の中には必ずきみがいたけれど、今はいない。それでも当たり前のように流れていく時間。きみも、きっと同じなんだと思う。誰が隣にいてもきっと変わらない。きみにはバレーがあればいい。バレーは彼の人生だから。そう思うと少しだけ胸がちくりと痛み出す。彼の人生にわたしは並べなかった。彼とバレーとわたしと、並んで生きてはいけなかった。わかっていたのに、放った言葉は当たり前だけれど帰ってはこない。それでも、前に進むしかない。きみばかりだった約10年。きみのいない時間に見上げた空は、意外にも綺麗に見えて、こんな人生もあるのだと思えたんだ

あとがき


別れると意外と平気ってよくある。たまに思い出して溜め息だけど、寝てご飯食べれば生きていけんのよ、人間なんて。



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