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「疲れたーっ!」



伸びをしつつ、一人の部屋で大きな独り言を一つ。ガムテープを床に転がして積み上げた段ボールに背中を預けて、ふう、と息を吐き出したら、部屋の明かりに照らされてやたらと白い天井を見上げた



「ここともおさらば、かー。」



住んでいた年数なんてたった2年だ。たった2年でこうも景色は変わって見えるんだな、と少し寂しく思う。この家に初めて足を踏み入れた時、真新しい壁の匂いに胸が踊って、早くこの部屋に合う家具を買いに行こうと飛雄の腕をぐいぐい引いて家具屋さんに走ったものだ。大学生が稼げるほどのなけなしのバイト代だけでは足りなくて、大半を飛雄が出したことに拗ねてたっけ。フェアじゃない、必ず払うからって。結局その後は専業主婦で払うも何も出来なかったけど



「わたしがいなくなって、飛雄もイタリアに行って。その後、ここはどうなっちゃうのかなあ。」



この家も、家具も全部どうなるんだろう?ここは飛雄が買った家だし、わたしがどうこうできるわけじゃない。それに家具だって飛雄がお金を出してくれた物ばかりだから持って行くわけにもいかないし。それでも、2人で過ごしたこの家や家具の行方はそれなりに気になる。わたしが出て行った後、飛雄は戻ってくるのか、それともそのままにするのか、どうするのか


あの、人と住むのかな。


イタリアに行くまであと1ヶ月もないが、その間だけでも、もしかしたらあの華奢な背中の女性と一緒にここを使うのかな。それは…すごく嫌だな。嫌だと思っていても、ここは飛雄の家で、自由にする権利があるのも飛雄だ。そもそもあの女性は一体何なんのだろう。考えたところで答えは出ないのに、いや、出したくないのにぐるぐると頭の中で逡巡する

今までそういう心配をしたことがないわけではない。浮気とかはしないタイプだというのは知っている。そういう、色恋に疎い奴だったから、自分がアプローチされていることに気付いていないところが飛雄にはあったし、そんな鈍い飛雄だからわたしが安心していた節もあって。でも、やっぱりそれなりに女性ファンは多いし、黄色い声援にはモヤモヤ、ヤキモキすることもあるが、本人が全く眼中にない感じだったから、今までこんな思いはしてこなかった



「完全に、デート、ってやつですよね。」



先日のあの光景を思い出す。はあ、と深い溜め息が一つ。あのワンシーンばかりが瞼の裏に焼き付いて、鬱陶しささえ感じた。それなのに、わたしの頭は馬鹿になったようで、あのシーンを何回も、何回も繰り返し思い出して再生する。飛雄に向けて手を振ったあの背中を。後ろ姿だけの彼女を。わたしは見たことがなかったから。10年という長い月日を一緒にしてきた。その中であんなにも胸が痛くなるような光景、見たことなかったもん。だって、わたしがあの人と同じ立場だったから。飛雄に駆け寄る、その姿はいつかのわたしと同じだったから


じゃあ、何であの時わたしを抱いたんだろう。


次いで考えてしまうのは、このベッドで一緒に過ごした最後の日のこと。例えばあの人が彼女だとしよう。いつから付き合っているかわからないが飛雄と過ごしたのはつい最近のことだ。時期が被っていても不思議ではない。わたしが縋った。もう飛雄に触れられないような、そんな予感がして縋ってしまったから。そう思うとあの人に申し訳なく感じて。あの時ちゃんと突き放してくれたら良かったのに、縋ったのはわたしなのに受け入れてくれた飛雄を恨めしく思えるなんて酷い責任転嫁

隣にあるベッドに突っ伏す。ひんやりとしていて、そこに温もりはない。じんわりと少しずつわたしの熱を移していくけど、あの時ほどの熱は、ここにはない。一人だと自覚させられるばかりで、溜め息が溢れ出た



「やっぱり嫌だ、なあ。」



替え立てのシーツを撫でる。飛雄と選んだアイボリーと水色のシーツ。淡い色合いが殺風景なこの部屋で唯一、和らぐ場所で。そこを、誰かの熱で占領されるのは堪らない気持ちになる。誰かと飛雄、の。胸が苦しくなって、呼吸が上手く出来ない。ああ、窒息しそうだな。握り締めたシーツが、わたしの手によって皺になる様に少しだけ安堵するなんてどうかしている



「飛雄。」



ぽつりと呟いた名前。一人の部屋に静かにこだまして霧散する。名前を呼んでも、応えてくれるはずないのに、馬鹿みたいに。わかっているけれど、期待をしてしまう。また、わたしの名前を呼んでくれないか、と。わたしの名前を呼んで、キスをして、抱き寄せてくれないか、と。それでも現実は結局わたし一人で。ベッドに熱を移すのはわたし一人分だけ



「今頃、飛雄はどうしているのかな。」



最近は考えなくなったことをまた考え出している。そりゃあ、出て行った当初は今何しているのかとか、ちゃんと食べているのかとか、何で帰ってこないのとか不安になったりもした。でも、離婚する方向になった時には、もう自然と考えないようにしてた。ずっと考えていることがしんどくて。だから、つい最近までふと思い出したように考えることはあっても、今みたいに意識的に思い出すことなんてなかったのに



「あの人と、一緒にいるのかな。」



二人が一緒にいるところを想像して、ずきりと胸が痛くなった。呼吸が乱れて頭が痛い。たぶん、過呼吸だ。頭は冷静に判断できているのに体が思い通りにいかない。もどかしさで、ベッドをどんどん叩いても、何も変わらない


思い出したく、ない。


何度も脳内リピート再生。なんだ、わたしもドMなのか。宮さんのこと言えないじゃん。馬鹿みたいに自分を自分で追い詰めて。もっと心が自由になればいいのに、自分の心なのにどうして思い通りにならないんだろうか。もう終わったことをぐちぐちと。抱いたのだって気まぐれだって、そう思えたらいいのに、まだ夢を見ている。だって飛雄はそういうことを気まぐれでする奴じゃないって知っているから。あの日の夜に付けられた首筋の痕は段々と薄れて、もう消えそうなのに、あの日の夜の記憶は色濃く鮮明に残ったままで、飛雄を忘れさせてくれない。それがひどく憎らしかった



「……あ。」



そう言えば、とベッドサイドの引き出しの二段目を開ける。そこには外してしまっていた結婚指輪が、買ったその時と同じ状態で、小さな箱に一つ収まっている。わたしの分の結婚指輪。これも飛雄が買ってくれたもの。離婚した時点でこれを持っている意味なんてない。むしろ飛雄に返さないといけないのに、まだここにあって



「これだけなら…いいよね。」



この指輪一つだけなら。


指輪を箱から取り出し、手に取って感触を確かめる。小さなダイヤが少しだけハマっている指輪は表面を撫でるとそこが指の腹に引っ掛かり、これをつけている方が長かったのに、どこか懐かしささえ感じた。指輪をライトに当てて、ふと、気付く



「あれ、これ…。」



指輪の内側。日付とともに刻まれた文字。それはお互いにお互いの指輪にメッセージを刻もうとそれぞれ相手に隠してお願いした文字の羅列。勿論、わたしも飛雄へのメッセージを刻印してもらっていて、反対に飛雄もメッセージを刻印してもらっていた。今まですっかり忘れていた。あの時は結婚指輪というものに浮かれて、内側のメッセージを見ること、してなかったっけ

そっと覗き込んだ指輪の内側。刻まれた文字をしっかりと認識して、心が震えた



「全然、そばにいなかったじゃん…!」



掲げた指輪の内側を見るために、見上げた視界がひどく歪んで見えた。



Always With You
あの日、誓って刻んだ言の葉


(飛雄はどんな言葉にしたのー?)
(あ?ん、まあ、普通の言葉。)
(え?普通?何それ。)
(おれにとって、当たり前にあるもんだから。)
(?よくわかんない。)


あの日、きみと誓った言葉たち。お互いにお互いを想い合って、それぞれの言葉を贈った。あの時を思い出すと、きちんとわたしたちは夫婦をしていたの。きちんと想い合っていたの。それが、いつからこうなってしまったのだろうか。一方通行に押し付けるばかりの関係性になっちゃったんだろう。どこで、道を間違えたんだろう。何度思い返しても、何度やり直そうとしても、わからなくて。もし、わたしがきみのことがわからなくなった時、この指輪の内側を見ていたら、何か変わったんだろうか。不器用で、バレー馬鹿なきみが選んだ言葉たちを見たら、何か変わったんだろうか。ずっとあなたのそばに。そう刻まれた言の葉はただの文字の羅列になった。きみがあの日に言った「おれにとって当たり前にあるもの」の意味がわからずに見た言葉たちは、ぐにゃぐにゃと歪んでよく読めなかった。

あとがき


産後に指輪つけられなくて、バッグにしまったまま、どこかにいったなんて嘘でも旦那には言えない。



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