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「ありがとうございました!」


「まいどですー。」



帽子を下げて爽やかな挨拶と共に玄関から出ていく猫さん宅急便の配達員のお兄さん。段ボール4箱の引っ越しはあっという間に終わり、新居を見渡す。広くもなく、狭くもない1LDKの新居は意外とリーズナブルなお値段の人気の物件で、すぐに契約しないと空きがなくなってしまうようなマンション。最寄りの駅までは10分ほど歩くものの、間にスーパーやコンビニ、ドラッグストアなど生活に欠かせない要件がしっかり揃っている


本当に、引っ越してしまった…。


あの家を出るなんて一年前のわたしは想像できただろうか?まあ、離婚するなんて思っていなかったから、想像なんてできるはずもない。人生、何が起こるかわからないもんだとつくづく思う



「さて、お隣さんにご挨拶しますかね。」



色々と物騒な昨今。ご近所トラブルなんかもニュースでよくやっていて、いつぞやのワイドショーで引っ越し時の隣家への挨拶が減ってきているなんて調査結果を見た。昔と違ってご近所付き合いというものがなくなっているらしい。でもそこはきちんとしなさいと田舎の教えもあり、挨拶のために用意したタオルギフトが入った紙袋を手に玄関へ。両隣と上と下の階の人までは予算的にちゃんと用意ができた。靴を履いて髪の毛を少し整えたら、まずは下の階へ。スニーカーの靴底を鳴らしながら、階段を降り、「904」と書かれたプレートを探し、見つけたそこを目掛けてチャイムを一押し。ピンポーンという音ともに扉の奥から「はーい」と声が聞こえた



「あの、上の階に引っ越してきた都築と申します。こちら、心ばかりの物ですがもし宜しければ。」


「わざわざご丁寧にありがとうございます。」


「色々とご迷惑をおかけするかもしれませんが、何卒宜しくお願い致します。」


「いえいえ、こちらこそ宜しくお願いします。」


「では、失礼します。」



がちゃりと開いた扉から現れたのは人の良さそうなサラリーマン風の男性。差し出した紙袋を受け取ってもらい、ぺこぺこと頭を下げ合う。挨拶もそこそこに、次は上の階に挨拶へ。上の階の人は若いカップルのようで、同棲を始めたばかりだと幸せそうだった。下の階の人と同様に紙袋を差し出し、少し雑談をして次は左隣へ。同じようにチャイムを鳴らすと、扉の奥から低く唸るような声が聞こえて緊張が走る


ふ、不機嫌…?もしかしてタイミング悪かったかな。


都合が悪ければ後日でもと言おうと思った時にはがちゃりと開くドア。ぬうっとそこから出てきたモジャモジャとしたモノに、ひいっ、と喉元で小さく悲鳴を上げれば、「ひい…?」とこれまた不機嫌そうな声で聞き返されて、慌てて取り繕う



「あ、あの、あの、わたし、えっと、右隣に引っ越してきた都築と言いまして。その、ご、ご挨拶に…。」


「あー…うん。よろしく。」


「あ、はい。宜しくお願いします…それで、こちらは心ばかりの物ですが…。」


「あー…ありがと……。」


「はあ…。」



すうっと消え入るように紙袋がドアの内側に吸い込まれ、閉まったドア。その場に残されたのは引き攣った笑みを貼り付けたわたしだけ。軽く挙げていた手を下げて、これはまずいかもなんて考える


左隣さんは、要注意。


あんな幽霊みたいな人が隣だなんて怖すぎる。どうしよう呪われたらなんて馬鹿なことが頭を過ぎり、ぶんぶんと頭を振って先程考えてしまっていたことを消し去る。いかんいかん。もしかしたらタイミングが悪かっただけかもしれないのに、よく知らない人に対してそんなことを思うのは良くないな。うん。何事も距離感を適切に保ってお付き合いをすれば良いのだ。お隣さんがどういう人かはわからないが、物騒な世の中。あんまり関わらないような付き合い方をしよう、そうしよう。そう心に決めて、次は右隣の「1005」のナンバープレートのお部屋へ。こっちの人はどうかマシな人でありますように、なんて思いながら鳴らすチャイム。奥から「どなた様ー?」と艶やかな女性の声が聞こえて、隣が女性だというだけで少しホッとする胸の内



「あの、わたし隣に引っ越してきた都築と申しまして…。」


「隣…?ああ、ちょっと待ってね。」


「え?あ、はい。」


「侑ー!お隣さんが挨拶に来たって。」


「ちょ、自分なあ、勝手に人ん家のチャイムに出んな……え。」


「え、な、え、ちょ、はあっ?!」


「なん、え、真緒、ちゃん?」


「何、侑の知り合い?」


「あー…まあ。えっと、どうしたん?」


「お隣に、ですね、引っ越して、きまして…。」


「は。」



ぽかんと口を開けてわたしをじっと見つめる宮さん。しかも、なぜか上半身裸で首元にタオルを巻いている。なんだこの出歯亀感は。あまりの居た堪れなさに、わたしは目を逸らして頬を掻く。わたしと宮さんの間に立たされた女性が「何の知り合いなの?訳あり?あ、セフレか。なるほど」と、とてつもなく不本意な答えに辿り着いたので慌てて「同じ会社に所属しているだけで、これっぽちも関係ありません!」と言えば、宮さんが「先日熱い夜を過ごした仲やんか!」と意味のわからないことを宣う。誰が過ごしたんだ、誰が。焼き鳥屋で食事しただけだろう、ふざけんな


ていうか、なんでわたしは気づかなかったんだー!


いや、待て待て。一回しかここ来てないし、別に意図的に来たわけじゃないし、あの時は酔ってたし。出る時も一刻も早く去りたかったから、マンションの外観とか何も覚えていない。まさか宮さんの住んでいたマンションがここだとは思わないし、もし知っていたら選ばなかった…と思う



「何、自分、おれが住んでるって知ってて引っ越してきたん?」


「はあ?自意識過剰か。誰が知っていてわざわざ宮さんの住んでいるマンションに、それも隣に引っ越してくるんですか。ストーカーじゃないんだから。」


「ほんまか。ちょっと引いてもうたわ。」


「隣人トラブルで違約金なしで解約できないか聞こうかな…。」


「誰が隣人トラブルやねん!」


「侑ー、なんかわたしお邪魔みたいだし帰るね。」


「いえ、わたしの方がお邪魔なようなので失礼します。今すぐ帰りますから、ごゆっくりどうぞ!」


「ちょっ!」



タオルギフトの入った紙袋を半裸の宮さんに押しつけて、急いで閉めるドア。ドタドタと慌ただしく自分の部屋へと逃げ帰り、閉めたドアに背を預けて、ズルズルと座り込めば、はあ、と深い溜め息を一つ



「真緒ちゃん!」


「ちょ、何、やだ、近所迷惑です!」



なんでこんなことに…と後悔していると、どんどんとドアを叩きながら響く宮さんの声。チャイムも騒々しいくらい連打されてポルターガイストでも起こっているかのようだ。このままではあの不機嫌で地縛霊みたいな左隣さんが出てきてしまう!あの姿を思い出して血の気がサッと引いていき、急いでドアを開ければ、宮さんが「あ、やっと出よったな。無視するなんてええ度胸やな!」と言いながらつかつかわたしの部屋へと上がり込んでくるもんだから思わずグーパンを決め込んでしまった


乙女の部屋に土足で入るとは何事だ!迷惑千万極まりない奴だな!!


自分で乙女とか薄寒さを感じながら、取り敢えず蹲る宮さんの体を玄関の端に移動させて、これ以上侵入されないように入り口に仁王立ちをしてバリアを張る。テリトリーに無断で侵入されるのも嫌だが、ダンボール4つだけの部屋を顔見知りに見られるのもやっぱり恥ずかしい



「何ですか。騒々しい。迷惑です。お帰りください。」


「めっちゃ嫌な顔するやん…。」


「早く成仏して!」


「何やねん、人を幽霊みたいに!」


「幽霊の方がまだマシですよ!何もしないもの!!」


「ハッ!幽霊は祟るで!」


「もうこの馬鹿、帰ってよ!!」


「何やと!馬鹿言うんはあかん言うたやろ!」



誰もそんな話したいわけじゃないし、用があるならさっさと済ませて欲しい!何だったら、今すぐ帰って欲しいくらいなのに!!

言い合いでお互いに息が上がって、呼吸を整えるために一時休戦。深呼吸を繰り返して、ヒートアップした頭を冷やし、宮さんがポリポリと居心地悪そうにうなじ辺りを掻いて、はあ、と一つ深い溜め息を吐き出した



「自分、タイミング悪いな。」


「何がですか。」


「あれは、元カノで、別に今は何もあらへんし。」


「はあ。左様で。」


「おれの部屋に置いてたもんを取りに来ただけやから。」


「いや、別に気にしてないですけど。」


「ちょっとは気にしろや。」


「何でわたしが宮さんを気にしなければいけないんですか?」


「はあ。」


「何この人。」



失礼極まりない人だな、本当に。


「何やねん、自分」と言いながら、さっきのわたしと同じように、わたしの部屋のドアに背中を預けてズルズルと座り込む宮さん。「床汚れるんでやめてください」と言えば、これまた大きな溜め息を吐きながら「おれより玄関の床ですか」と文句たらたらで。床にのの字まで書き始める始末だ。わたしの方が溜め息吐きたいよ、と思いながら、膝を抱える宮さんに歩み寄り、目線を合わせるようにしゃがみ込む



「だからって元カノ置いてきちゃダメじゃないですか、普通。」


「あいつ帰ったし。」


「そうですか。」


「ん。」


「……すっごく嫌ですけど。」


「何や、その前振りは。」


「コーヒーでも、飲んでいきますか?」


「……飲む。」



手を差し出して言えば、目をパチクリさせながらわたしの手を取る宮さん。「ええの?」と言う宮さんに「前ご馳走になった分のお返しです。これでチャラです」と言えば、何とも言えない表情で「自分は律儀やなぁ」と笑って言った



あなたの色を変えていく。
同僚さんから、ご近所さん、へ。


(はい、どうぞ。)
(缶コーヒーて、自分…。)
(文句があるなら飲まなくていいです。)
(飲む飲む!頂きますー!!)
(はい、どうぞ。)


差し出した缶コーヒーを受け取りながら、ぐるりと部屋の中を見渡す宮さん。段ボール箱が4つしかない物寂しい部屋を見て、宮さんが「真緒ちゃんはミニマリストでも目指すん?」と聞いてくるもんだから「そうですねー」と適当に返事をしておいた。誰が好き好んで段ボール箱4つしかない部屋に暮らすかってんだ。「今、適当に返事したな!」と文句を言う宮さんを無視して、わたしもこの部屋をぐるりと見渡し、溜め息を一つ。あの家にいた時も一人だったくせに、なぜだろう。ここで一人になる寂しさが胸を穿つのは。新生活で前を向けない、後ろ向きな自分に嫌気が差す。もう一度溜め息を吐きかけた時、宮さんが「パーっとサラピンの家電でも買いに行こうや」と笑って言って、わたしの手を引く。缶コーヒーを落としそうになったことを怒りながら「サラピンって何ですか?ていうか家電なんてパーっと買いに行ったら破産しますよ」と宮さんの手を振り払いながら言い返した声は少しだけ湿り気を帯びてた

あとがき


隣人を誰にするか悩みに悩んで予想通りにしてみました!




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