07


「ただいまー…って、誰もいないんだけど。」


「独り言でけぇな。」


「なっ?!」



仕事から帰って、くたくた。少しは履き慣れてきたパンプスを脱ぎ、肩からだらしなくずり下がったバッグをそのままにしてリビングのドアを開け、いつものように「ただいま」と独り言えば、返ってくるはずのない言葉が返ってきた


なんで飛雄がいるの…!


いや、ここは、まあ、飛雄の家だけど。そうなんだけどさ!リビングのドアから明かりが漏れている時点で気付けよ、自分!気付かないほどくたくただったわけで、もうこれはただの言い訳だけども。とにかく気付いていたらどこかで時間潰していたはずなのに!



「この前聞きそびれたけど。」


「な、何。」


「真緒、働いてんのか?」


「え?あ、ああ、うん。無職じゃ食べていけないし。」


「あ、そ。」


「あっそうって…ていうか、なんで飛雄がいるのさ!」


「ここ、おれの家だろうが。帰ってきて何が悪い。」


「そ、そうだけど!そうじゃなくて!」


「あ?何だよ。何が違うんだよ。」


「いや、なんていうか。」



今までわたしが起きている時間帯に一回も帰ってこなかったのになんで急に。


当たり前だが先日の飲み会から顔を合わすこともなく、宮さんとのこともあってかなり気まずい。飛雄はまったくもって普通だというのが少し腹立たしいくらいだ。そういう態度を見る度にやっぱり飛雄にとってわたしは何の関係もない人間に成り下がって、本当にどうでもいい存在なのだろう。自分の思考でちくりと胸が痛んで馬鹿みたいだ



「とりあえず、飯。」


「は?」


「腹減ってんだよ。何か食わせろ。」


「はあっ?!」


「どうせ真緒も今から飯だろ。」


「どうせって…まあ、そうですけどもね!」



何、なに、どういうこと!意味がわかんないんですけど?!


確かにここは飛雄が買った家だし、わたしは誠に遺憾ながら飛雄のご厚意で置かせてもらっているから、べつに飛雄がここにいるのは文句なんて言えないけど。だけど、ご飯を要求される筋合いはまったくもってないはずで。ていうか、別れた奥さんにご飯要求する馬鹿がどこにいるの!馬鹿なの?馬鹿なんだね!馬鹿だわ!!

なんでわたしが!なんて頭ではわかっているのに、身に染み付いた習慣とは怖いものである。さっさと着替えて、エプロンを身に付け、ハッとした時には結局フライパンに油を引いているわたしはこの馬鹿に負けず劣らずの馬鹿であり、阿呆だ。マゾなのかわたしは、なんて思いながら冷蔵庫にある食材を切っては炒めて、とりあえず食事を作り、テーブルに並べれば、満足そうな顔でわたしを見遣る飛雄。王様か、あんたは。そしてわたしは奴隷か。くそう



「いただきます。」


「……いただきます。」



かちゃかちゃと食器が鳴る音と咀嚼音だけがこの場を占拠。カオスな状況にただ箸と顎を動かす。このカオスを何とか乗り切ろうとテレビのリモコンに手を伸ばしたところで、なぜかタイミング良くぶつかる指先。上げた目線の先には当たり前だが飛雄の双眸が。



「…どうぞ。」


「ん。」



手を引いて、顎でしゃくって見せれば、飛雄はただ一音だけを返して、リモコンを手中に収める。わたしはそれを見ながら、本当に王様だな!と思いつつ、それを飲み込むかのように味噌汁を啜った


なんでわたし、飛雄と結婚してたんだろ。


ここだけ切り取ってみると本当不思議なくらいだ。わたしのすることが飛雄の中では何もかも当たり前のように過ぎていって。それに対して何かを思うなんてことはないんだろう。ありがとうも、何も。それがひどく虚しくなって、あの日放った言葉。それがまた喉元につっかえて、ちくちくと痛み出す。まるで魚の骨みたい。そして、それを言えずに飲み込もうとしているわたしは差し詰め王様に仕える召使いさながらだ

飛雄が点けたテレビの音がやたらと大きく聞こえた。二人の間を占拠するのはお笑い芸人の笑い声。皮肉なものだと思う。この冷め切った空間にお笑い芸人の笑い声だけが響くなんて



「真緒。」


「何?」


「お前、宮さんと付き合ってんのか。」


「はあ?」



口を開いたかと思えば、何を言ってんだ、こいつは。


上手く飲み込めなかったお味噌汁を何とか嚥下して、一言発せば、心底嫌そうな顔をして眉間に皺を寄せながらわたしを見詰める飛雄。見詰めるというより、睨みつけていると言った方が正しい。飛雄のそんな顔に慣れっこのわたしは怯むことなく真正面からその視線を受け止めてやれば、「なんだよ」と言って先に視線を逸らしたのは飛雄の方だった



「はあって何だよ。」


「だって意味わかんないこと言うから。」


「意味わかんなくはねえだろ…まあ、おれには関係ねえけど。」



なら聞かないでよと言いたくなったが、ぐっと堪える。それよりも、やっぱり胸に刺さる「関係ない」という言葉。少し俯いて、見詰める味噌汁。そこに映る自分の顔を見て、何とも言えない気持ちになった。気にしたって仕方ないのに。飛雄の言う通り、わたしたちの間にはもう何もない。わかっている。それなのに、今までの、わたしと飛雄の10年間が全てなかったことにされたみたいで、ひどく傷ついている自分がいて馬鹿みたいだ。終わったことをぐちぐちと…未練たらしいのはわかっている。それでも、やっぱり、まだ立ち直れないのは仕方ないじゃないか



「でも、まあこれでおれも安心して行ける。」


「え?」


「真緒には言ってなかったけど、おれ、来月にイタリア行くから。」


「は?」


「あっちで、バレーやるから。」


「えっ、ちょ、待って、あっちでバレーって、イタリアに住むってこと?来月から??」


「ああ。」


「なんで、急に。」


「急じゃねえよ。ずっと、海外でプレーする目標だった。」


「それはそうかもしれないけど!今までなんで何もっ。」


「まだあっちのチームに入れるかわからなかったから。決まったのがつい先日だしな。」


「だからって!」


「つーか、もうおれと真緒は関係ないだろ。」


「そう、だけど…そうだけど!」


「話はそれだけ。飯、美味かった。」


「待ってよ…!」


「ありがとな、今まで。」


「飛雄!」



箸を置いて立ち上がる飛雄。じゃあ、と言ってソファーに置いてあったボストンバッグを手に部屋を出て行く。飛雄を追い掛けようとして立ち上がるも、足がもつれて上手く動かない。モタモタとしている間に飛雄は靴を履いて玄関のドアを開けていて。


一生の別れみたいな言葉を残して行かないでよ…!


何とか足を動かして玄関へ。靴を履いてる余裕もなく、裸足のまま。飛雄へと手を伸ばして服の裾を掴んだ。ゆっくり、振り返る飛雄。少しだけ驚いた顔をして、次いで裾を握るわたしの手を掴んで、そっと裾から手を離させる。この手を離したら、もう飛雄に会えない気がした。それだけは嫌で、わたしの手を掴む飛雄の手を握り返す。久しぶりに触れた飛雄の手はひどく冷たくて少しだけ肩が跳ねた



「とびっ…んぅ。」



掴んだ手を引き寄せられて、前のめりになる体を支えるように飛雄の腕がわたしの腰に回る。次いで頭の後ろに飛雄の手が触れたかと思うと、唇にぶつかる感触に目が点になった。押し付けられるそれに驚いているのも束の間、少しだけ開いた隙間を縫うように差し込まれた舌に酸素を根こそぎ奪われて頭がくらくら。足の力が抜ける。堪らずその場に立っていられなくなったわたしをさらに追い詰めるように噛み付くようなキスをする飛雄。何十秒もなかったはずなのに、何分もそうしていたみたいに時が流れを止めた。そしてゆっくり離れていく唇に、ごくりと喉を鳴らしても飲み切れなかった唾液が顎を伝って地面へと落ちていった



嚥下した、想い。
そして、溢れた想い。


(飛雄…。)
(悪い、真緒。)
(待って、行かないでっ。)
(……真緒。)
(お願い…っ。)


縋るように掴んだ、きみの胸元。きみの顔を見るのが怖くて掴んだ胸元を引き寄せて頬を寄せる。きみの心臓の音がひどく早く鳴っているように聞こえた。この音を聞いたのはいつぶりだろうか。こんな風にきみに体を預けたのは。ずっと、素直になれなかった。きみが家を空ける度に、帰ってくる度に、バレーに夢中になる度に、募っていた想い。決壊して吐露したもやもや。それは確かにきみを失望させてしまった。でも、それ以上にわたしはきみが好きだった。きみにこの寂しさをわかってほしくて、自分勝手にも受け止めて欲しかっただけ。確かめたかっただけ。それが、別れの選択になるなんて思わなかったから。仕方ないって思おうとした。でも、今この手を離してしまったら、もうきみに会えない。そう直感した。そう思ったらわたしのこの手は急に熱を帯びて、きみの頬を引き寄せて、そっと後ろのドアの鍵を閉めた。

あとがき


夫婦になると素直になれなくなることもある



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