01




誘われるままに辿り着いたのが、ここだった。甘い、甘いこの匂いに、まるで蜜蜂のように誘われて、ここに辿り着き、そうして、おれはきみに出会った



「南川さん、またやってるんか?」


「あ、北くん。」


「南川さんも変わり者やなぁ。」


「う、ううううるさいな。」



甘い匂いを辿って足を止めたのは化学科教室。静かに扉を引けば、より一層濃い甘い匂いがおれの鼻を擽った。何だか若干苦い匂いもするが。まあいいやと少しだけ出来た隙間にするりと体を滑り込ませる。中の様子を窺えば、本来なら実験で使われるはずのバーナーの上でぐつぐつと音を立てている鍋の側でクラスメイトがわたわたと動き回っていて。だが、それは何か大層な実験をしているわけではなく、ただ単にチョコレートを湯煎しているのである


そもそも何でこんなところでやってるんやろ…家庭科室でやったらええのに。


家庭科室に行けば調理器具も一通り揃っているし、ガスコンロもあるし。それなのに、なぜか南川さんは化学科教室でまるで闇の実験でもしているかのようにチョコ作りに勤しんでいる。初めてここを訪れた時は薄暗い化学科教室のせいで魔女が闇の儀式でもしているのかと思ったぐらいだ

なぜかその日から通うようになった放課後の化学科教室。春高が終わり、今はもう部活がないためにほぼ毎日ここに通ってしまっている。こうして通っている自分も相当なものだが、通うその時間にずっとここに籠ってチョコレートを湯煎しまくっている南川さんも相当なものだ。ある意味感心すら覚えた



「何や、ここ焦げ臭いんやけど…。」


「うっ。い、いやあ、ちょ、ちょっと、ほら、火力がな、強かったみたいなんよね。あ、はは。バーナーは火力の調整が難しいんよ。」



バーナーの火力以前に、そもそも化学科教室でしていること自体がおかしいって南川さんは気づいているんやろうか…?気づいてなさそうやなあ。


やれやれと肩を竦めながら、スツールを一つ引っ張り出し、「よっこらせ」なんて言って腰掛ける。バーナーの近くに広げられた、南川さんが持ってきたらしいお菓子作りのレシピ本を手に取って、頬杖を着きながらぺらぺらと中身を見て、苦笑を一つ



「沸騰した鍋に直接ボウルをつけて湯煎するもんなん…?」


「違うの?」


「違うみたいやで。」


「え、ホンマに!?」



苦笑を漏らしながら、違うと指摘すれば、南川さんはびっくりしたような顔をして手元を凝視。そこにはやっぱり焦げているチョコレート。通りで甘い匂いに混じって焦げたような苦い匂いがするなとは思っていたけれど、なぜ毎日作っていて気づかなかったんだろうか。やっぱり、南川さんは変わっている

絶望的だ、というような顔をしている南川さん。やれやれと肩を竦めて「貸して」と言って南川さんから調理器具を奪うと沸騰している鍋のお湯を空いているボウルに移し入れて、チョコレートをまた別のボウルに割り入れる。そして、お湯を張ったボウルにチョコレートを入れたボウルを重ねて、ゴムベラでゆっくり溶かしていった



「えーっと、直接鍋にかけた状態で湯煎をするとチョコレートは焦げるんやって。」


「あ、そうなんや。北くん、そんなのよう知っとったね?お菓子作り趣味なん?」


「いや、ここに書いてあんで。」


「……わお!」


「……ぷっ、はは!」



初めて聞いたみたいな南川さんの反応に思わず漏れる笑い声。笑うおれに南川さんは「おっかしいなあ…」と不思議そうな顔で頭を掻く。その姿がまた面白くて更に噴き出しそうになって、何とか飲み込む笑い。おれの手元を見る南川さんに「やってみ?」と言い、スッと後ろに一歩引いて、手にしていたゴムベラとボウルを渡せば、南川さんは素直に頷いて、ゴムベラを手にチョコレートの湯煎を始める。そのたどたどしい手つきを見守りながら、元いた場所に戻り、スツールに腰掛けて頬杖を着いた



「北くん、見て見て!焦げずにできたで!!」


「ほんまやね、上手上手。」


「うん!ありがとな!!」


「……どういたしまして。」



おれに向けられた目が眩むような笑顔。思わず、瞬きを数回繰り返して、やっとのことで紡いだのは、たった一言。その一言に嬉しそうな顔をして、またチョコレートと格闘し始める南川さん。そんな姿を横目で見つめながら、何でもないようにさっきまで読んでいたレシピをぺらぺらと捲る


変な、日課やなあ。


部活に明け暮れていた頃の自分では想像もできない日課だ。そもそも、部活がある時は真っ先に体育館に向かっていたし、化学科教室に寄ろうなんて思わなかった。いくらチョコレートの匂いがしたって、きっとこのドアを開けなかったと思う。こんなところを他のクラスメイトや部員、後輩たちに見つかったら面倒だな。冷やかされそうだ。別に何もやましいことはないし、冷やかしてくる連中も本気でやってくるわけではないだろうが想像したらなかなかに面倒だと思った

面倒、とは思うが、南川さんを見ているのは何だか飽きない。何故だろうか?表情がころころと百面相かと思うほど変わるからだろうか。そう感じるのは、南川さんが、おれと正反対、だからだろうか。それとも。



「南川さん。」


「ん?」


「チョコレート、付いてんで。」


「え、ど、どこ?!」


「違う、こっち。」


「あ……あ、ありがとう、北くん。」



南川さんの頬に手を伸ばそうとして、躊躇う。逡巡の末、ああそうだ、とポケットに突っ込んであったハンカチで南川さんの頬に付いていたチョコレートを拭う。真っ赤になって、俯きながらお礼を言う南川さんに、何だかこっちまで恥ずかしくなったけれど、それを悟られるのは嫌で「ああ」と一言だけ吐き出して、元の定位置へ戻り照れ隠しに、再度開きっぱなしになっているレシピ本をぱらぱらと流し読みしてみたり


南川さんは、何を作ろうとしているんやろか。


ずっと疑問だったけれど、このレシピの中のどれを作ろうと獅子奮迅しているんだ?いつもチョコレートの湯煎しかしていないから知らないな、と。それより先にいっているところを見たことがなかったし、そもそもチョコレートの湯煎で焦がして躓いているし



「はあー、やっと次に進めるわ!」


「南川さんは何を作ろうとしてるん?」


「んー、何にしよう。」


「……まさか、とは思うんやが、決まってへんの?」


「そうや。でも、作りたい思て。」


「は?何でや??」


「だって、もうすぐ、やろ。」



もうすぐ?もうすぐ何があるんやろか。


そんな疑問が顔に書いてあったらしい。可笑しそうに南川さんが笑いながら、おれが手にしていたレシピ本を奪い去って開いたページを閉じれば、表紙を指差して「にしし」なんて笑って言った



「バレンタインデー、やで。」



ああ、なるほど。納得した。そう言えば、最近はここ以外にも甘い匂いが漂ってくると思ったら、そういうことだったのか。家庭科室の前なんてもっと凄まじい濃さの甘い匂いが漂っていて、ここに辿り着く前に、家庭科室の前を通るのが少し憂鬱に感じたのを思い出した。もらったことがないわけではないが、人に自慢できるほど多くはない。宮兄弟はよくこの時期に段ボールいっぱいになるほどもらっていたけれど。部活ばかりで気にしたこともなかったから、忘れていた


南川さんも、誰かにあげるんやろか。じゃなかったら、こないなところで、一生懸命チョコレートと格闘なんてせえへんか。


そう考えたら、何だか少し興味が湧いた。南川さんは誰にその手作りチョコレートをあげようとしているのだろうか?なんて



「南川さんは、あげたい人でもおるんか。」


「んー、まあ、せやねえ。」


「へえ、そうなん。」


「うん。」



レシピ本を手に、照れくさそうに笑いながらその人の名前を紡ごうとする南川さん。開かれた口に、おれまで少しドキドキとしてしまった。



「同じ部だった北くんに言うの、すごく恥ずかしんやけど…宮くん、なんだ。」


「…宮?どっちの宮なん?侑?治??」


「宮侑くん。北くんとわたしだけの秘密やで。誰にも言ってないんやから。」


「……わかった。」



侑、か。


頬を染めて、「秘密やで」と南川さんに言われ素直に頷いた。別に誰に言うわけでもない。ああ、だから、と納得だってする。侑に渡すために頑張っているのか、南川さんは。ただ、そうやって侑のために一生懸命チョコレートを湯煎しまくっている南川さんがキラキラして見えて、何だか少しだけ羨ましくなったんだ



化学科教室に湯煎する甘い恋の匂い
その匂いに誘われて、おれはきみに出会った。


(で、何を作るんや。)
(せやなあ…まず、そこから決めなあかんかったわ。)
(あはは。)
(あ、今の笑いは呆れた時の笑い方やろ!)
(…いやあ?違うよ。)


何を作るか決めてもいないのに、こんなに大量にチョコレートを買って、湯煎しまくっていたのかと思うと乾いた笑いが出てしまうのも仕方ないというものだろう。ぱらぱらとレシピ本を捲っていたきみの手からそれを奪い取り、同じようにぱらぱらとページを捲りながらきみでもできそうなものを探してみる。きみはそんなおれの後ろから顔を覗かせて「何がええやろか?侑くんの好きそうなもんってわかるん?」とか言って。その言葉に、おれは何をやっているんだろうかと少しムッときたり。でも、ただ、何となく、放っておけなかった。だってチョコレートを湯煎で焦がしまくるし。何より侑に変なものを食べさせられないし。ちょっと性格等々に難はあるが、ウチの大事な戦力だ。そう、自分に言い聞かせて、溜め息を一つ吐きながら、きみとバレンタインデーの作戦会議を始める化学科教室


季節外れのバレンタイン話です!



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