ぐっばい、メランコリック
「なまえ!蘭が!蘭が大変なの...っ!」
それは、まるで頭から冷水を浴びたような、ガツンと後頭部を鈍器で殴られたような衝撃だった。園子ちゃんの嗚咽まじりの涙声が耳の粘膜に張り付いてぐるぐると思考を埋めつくしているのに、なんて言葉を返したのかもあやふやで、所々が遠い出来事のようにすっぽり抜け落ちている。ばくばくと、耳の奥で脈を打つ鼓動が気持ちだけを急かして、心と身体が切り離されたようだった。手足は水を吸ったように重く、岸に上げられた魚のようにうまく息も吸えない。辛いのは蘭ちゃんと園子ちゃんで、落ち込んでいる場合じゃないとわかっていながらもわたしは暫く茫然とベッドの上で座り込んでいた。
どのくらいそうしていたのか、ゆらゆらと揺れる視界の端で、手からこぼれ落ちた端末がチカチカと点滅をして着信を知らせている。シーツを通して伝わる振動に、ハッと意識を浮上させたわたしは携帯を鷲掴むと、そのまま転がるように玄関から飛び出していた。
蘭の病室は重々しい空気で充たされていた。先程、漸く意識を取り戻した蘭に安堵をこぼしたのも束の間、佐藤刑事が目の前で撃たれたショックで自身の名前すらも綺麗さっぱり忘れてしまっていたからだ。
「あなた達、だれ?」ぼんやりと焦点の定まっていない表情で言われた衝撃は、当分、忘れられないだろう。園子やおっちゃんが、どうにか思い出させようと必死に言葉を紡いでも表情を曇らせたまま首を横に振るばかりでその痛々しさに視線が落ちる。麻酔銃を打っていないのにふらふらと覚束無い足取りで、ガタンッとパイプ椅子に腰を下ろしたおっちゃんの派手な音に誰も文句は言わなかった。
「...なまえに、電話しなくちゃ...」
大丈夫だなんて根拠のない慰めも、下手な励ましも、記憶のない蘭にすれば罪悪感を感じさせるだけでなんて言葉を選べば正解なのかわからず、だれも口を開く者がいない苦い静寂の中で、鼻に詰まったような静かな声がぽつりと空気を震わせた。たしか、病院に向かう車の中で園子が泣きじゃくりながらみょうじに電話をしていたのをみていたし、意識が戻らない蘭と佐藤刑事の手術を待つあいだ江戸川コナン用の携帯で掛けてみたが繋がらなかったのだ。何してんだ、アイツ。ずっとポケットに突っ込んだまま握りしてめている携帯にはいまだ音沙汰はなく、それにわずかな苛立ちを感じながらふらりと椅子から立ち上がった園子を緩慢に見上げていれば、俯き、暗い表情でシーツを握りしめていた蘭がピクリと反応したのが視界に入る。
「...なまえ...?」
確かめるように、みょうじの名前を呟いた蘭にざわりと空気が揺れた。それまで、なににも反応を示さなかった蘭がゆるりと顔を上げて真白な天井を見つめる姿に、一抹の期待と緊張が身体に走る。
「なまえ姉ちゃん、覚えてるの...?!」
食いつくように身を乗り出して蘭に問いかけた。けれど、ゆっくりと交わった彼女の瞳は仄暗い空洞のように光はなくて、普段の溌剌とした彼女からは決して見られないその表情におもわず息を呑む。
「...覚えてない...」
「...そっか」
表情から応えはわかっていたが期待した分、落胆もおおきい。俯いてしまった蘭に、それ以上かける言葉は見つからずグッと奥歯を噛み締める。だれかが大きく息を吐いた音が、やけに耳に響いた。
結局、園子はみょうじに電話を掛けには行かなかった。おそらく、なんて説明をすればいいのか分からないのと、へらへらと馬鹿みたいに笑っているみょうじの悲しむ顔をみたくなかったのだろう。楽観的というより能天気でどこか抜けている彼女の泣き顔なんてすこしも想像がつかないが、さすがに蘭が記憶喪失だと知ればみょうじだって泣くかもしれない。ぐずぐずと鼻を鳴らす彼女を思い浮かべて、似合わねぇななんてすぐに思考を振り払う。
ギシリとパイプ椅子が鳴いた。揃いも揃ってお通夜のように深刻そうな表情で俯いている姿は蘭じゃなくても気が滅入りそうで、せめて工藤新一として蘭のそばにいれたらすこしは状況も変わったのかもしれねぇななんてできもしないことを考える。
「ねぇ蘭、すこし眠ったら?」英理さんが促すように蘭の背中を摩った。気がつけば時計は深夜を指しており、我々が居たら眠れないだろうと目黒警部を率先に、ガタガタと席を立つ。その音に混じって、バタバタと慌ただしい足音と誰かが叫んでいるような騒々しい物音が聞こえた。急患かと思ったが、どうやらそういうわけでは無さそうだ。しかもそれは、だんだんと近づいているようで、看護師だろう、廊下を走るなだの他にも患者様がいるんですだの断片的だった声がはっきりと耳に届きだし、蘭の病室に向かって来ているのだと気づいた時には目と鼻の先。バタンッとまるで爆弾を投げ入れられたような酷い音を立てて、飛び込むように転がり込んできた見知った人物に緊迫した空気が一瞬にして散り散りになる。
「蘭ちゃん...っ!!」
「なまえ?!」
「なまえ姉ちゃん?!」
看護師を引き連れて現れたのは、いまのいままで音沙汰のなかったみょうじだった。蘭の名前を叫んで飛び込んできたみょうじに驚いたのはもちろん、なにをすればそうなるのかぐちゃぐちゃの出で立ちに唖然としてしまう。みょうじはあんぐりと口を開けて固まるオレたちなんて目に入っていないようだった。二足歩行を覚えたばかりの赤ん坊のようによろよろした足取りで蘭に近づくと、「ちょ、ちょっとなまえちゃん...!」英理さんの静止も聞かず、ぺたぺたと蘭の顔や肩を触りだす。
「あ、あの...」
「痛いところは?」
「えっ...?」
「痛いところ、ない?」
「は、はい...」
蘭は困惑しているようだった。いまの蘭にすれば見知らぬ人が遠慮なく身体を触っているのだからそうなるのは当然で、けれど、みょうじの有無を言わせない問いかけに思わずといったように肯定する。彼女にしては珍しいその強引さにすこし驚きつつも、みょうじは蘭が記憶喪失だと知らないのだから内心、気が気でない。下手なことを口走る前にみょうじに説明しとかねぇとと口を開くよりも先に、ぐたり全身の力を抜いて蘭に撓垂れ掛かったみょうじにギョッとした。
「...よ、」
「よ?」
「...よかったぁ」
蘭の首筋に額をつけながらみょうじはそう呟くと、足にも力が入らないのかそのままずるずると蘭の身体を滑り、ぺたんと床に腰を落とす。漸くまともに見れたその顔は普段のようにゆるゆると緩みきった笑顔を浮かべていたが、その顔色はどちらが病人なのか分からないくらい酷いものだった。駆け寄って覗き見たオレに「コナンくんも、怪我、ない?」そうへらりと笑う彼女にこくりと頷く。それに満足そうに破顔すると「園子ちゃんはだいじょうぶ?」オレの後ろにいた園子にゆるりと視線を向けた。
「私は大丈夫だけど...あんた、なんて格好してんのよ...」
「え?...うわぁ、ほんとだ」
園子の言葉にきょとりと瞬いたみょうじは、自身の格好を見下ろしてすごい格好だねぇなんて呑気に笑っている。寝る前だったのか、鎖骨のみえる弛めの上下のスエットにサンダルは片方づつ種類が違うもので、台風のなか来たのかというくらいぐしゃぐしゃの髪の毛。よくよく見れば、彼女が持っているものは右手に握りしめられた携帯だけだ。
「...なまえ姉ちゃん、なにで来たの?」
「ん?...走って?」
いや、まさかななんて恐る恐る問いかければ、へらりと笑うみょうじに呆れすぎて言葉もでない。みょうじの家からここまでの正確な距離はわからないが、けして近くはないだろう。べったりと額に張り付いた前髪に、そりゃあ折り返し掛かっても来ねぇわけだと苦笑する。
「なまえ、さん...?」
そんな和やかな空気に落とされた、静かな声にどくりと心臓が鳴った。敬称を付けて呼んだ彼女にしまった...!と思ったのはきっとオレだけじゃないはずで、動揺するオレたちをよそに、当の本人は気づいているのかいないのか「なあに、蘭ちゃん」なんて緩みきった笑みでかくりと首を傾げている。にこにこと表情を崩す彼女を一瞥して、そのまま俯いて黙り込んでしまった蘭にみょうじは大きな瞳をぱちくりと瞬かせた。
「あ、なまえ姉ちゃん...、蘭姉ちゃんは...!」
「なまえ、あのね、蘭は...!」
「蘭ちゃん、どうしたの?どこか痛む?」
園子とふたり、慌てて告げようとした言葉は本人によって遮られた。俯いた蘭を覗き込んで、真綿のような優しい声色で柔らかく微笑むみょうじに、オレも園子も、おっちゃんたちですら息を呑んで二の句を閉ざす。
マイペースでどこか抜けていて、ふわふわと雲のように掴みどころのないみょうじだが、彼女はけして馬鹿ではない。頑固さでいえば右に出るものはいないし、言動や振る舞いからそうはみえないが意外とまわりをよく見ているヤツで、人の感情の機微を読み取るのが上手いヤツだ。おそらく、蘭の違和感にも気づいていたのだろう。気づいていながらも、敢えて誰にも尋ねず、蘭に気を遣わせないように彼女は振る舞っているのだ。
「い、いえ、違うんです...そうじゃなくて...私...なにも、覚えてなくて...」
「...そっか」
閊えながらも、ゆっくりと絞りだす蘭の言葉を黙って聞いていたみょうじの返答はなんとも簡素なものだった。おっちゃんのように狼狽える素振りも、園子のように哀しんでいる様子もなくてやっぱわかってたんだななんて謎が解明した時のようなスッキリとした安堵ともつかないなにかが胸にストンと落ちる。「...って他に言い方ってもんが...!」そんなオレとは反対に、おっちゃんたちは納得がいかない様子だった。が、みょうじは気にしちゃいないらしい。おっちゃんたちからはみえない表情にはへにゃりと気の抜けた笑みが浮かんでいる。
「蘭ちゃん、ありがとね」
「...え?」
ギシリとベッドが軋む音がした。重々しい空気でパイプ椅子が軋む嫌な音ではなく、それは、陽だまりのような暖かい音だった。煩かったおっちゃんも、接着剤を塗られたようにピタリと口を真一文字に結んで、泣きそうなくらいの包み込むような優しい色がふわりと空気を塗り替えていく。
「伝えてくれて、ありがとう」
もういちど。ベッドの端に腰掛け、蘭の両手を大切に掬いあげた彼女は柔らかく笑う。
「お礼を言われることなんて…、わたし、貴女のことも覚えていないのに…。その、…ごめんなさい」
暫く、呆然としていた蘭だったが、瞳を揺らめかせて逃げるように視線を逸らす。他の人とは違う反応に困惑している様だった。そんな蘭の様子に彼女はきょとりと目を瞬かせるのだ。
「どうして謝るの?」
「え、」
「記憶がなくても、やっぱり蘭ちゃんは、蘭ちゃんだよ」
蘭ちゃんが無事でよかった。にこにこと、無邪気な笑顔であっさりと言い放った彼女に蘭だけでなく、園子もおっちゃんも刑事さんたちですらぽかんとしている。泣く、とは思わなかったが予想の斜め上を行く反応に思わず乾いた笑みがもれた。こと彼女のことに関しては、どれだけ掛かっても解けそうにない。