ラブロマンスには頼りない
「せーっかくの夏休みだってーのに⋯。なーんでアタシが新一くん家の掃除をしなきゃいけないのよぉ⋯」
そうどっぷりとした息を吐き出して、園子ちゃんがさめざめと呟いた。蘭ちゃんに手渡されたホウキを顎置き代わりに、ぐったりと重心を預けている。換気のためにと開放した窓の隙間から、時折、きゃあきゃあとはしゃぐ若者たちの愉しそうな歓声が漏れ聴こえてくるので、それが尚更、彼女のヤル気を削いでいるのかもしれない。
「ごめんね⋯。ずいぶん埃、溜まってそうだったし⋯」
なまえも、ごめんね。そう言って、蘭ちゃんが申し訳なさそうに目尻を垂らした。蘭ちゃんの足元では、コナンくんがせっせと棚に直しきれなかった本を片付けている。
「ううん。暇してたし、気にしないで」
そもそも、工藤邸に集合だった時点でわたしはおや?と思っていたのだ。園子ちゃんもきっと、遊ぶ為じゃないだろう事には勘づいていたはずなので、さすがに投げ出したりはしないだろう。おそらく、工藤くんの為というのがちょっと⋯いや、だいぶ気に食わないだけで、本来は友達想いの優しい女の子なのである。通り過ぎるカップルたちに、そのうち噛み付きに行きそうな雰囲気ではあるけれど。
「あーあ。今日日の女子どもは脚だして、男釣って、純愛だの初恋だのに現を抜かしてるってーのに、あの推理オタクのために埃まみれになってるとわ⋯」
「まあまあ、園子ちゃん」
動く気力もないのか、じっとりと、未練がましそうに窓の外に視線を送り続けている園子ちゃんに、わたしはちょっぴり自慢げに両手を広げてみせた。
「こーんなに広い書斎なんて滅多にお目にかかれないよ?」
びっしりと隙間なく本が埋まった、壁一面にずらりと並ぶ大きな書棚。二階建てほどの高い天井までもを埋め尽くす、円形状のこのちいさな図書館にわたしの瞳はきっと、新しい玩具を貰った子供のように爛々と輝いているに違いない。
「だから。この無駄に広くて、無駄に本が多いのが面倒なんじゃない⋯」
この活字オタクめ。ふくふくと満足気に頬を弛めるわたしにしっかりと「無駄に」を大いに強調して言った園子ちゃんが頭が痛いとばかりに項垂れた。どちらかといえば鈴木邸のほうがもっとずっと広くて大変だと思うのだけれど、園子ちゃん自身が掃除をしている訳ではなそうなのでむぐりと口を噛んでおく。それに、園子ちゃんの気持ちもわからないでもないのだ。蘭ちゃんの頼みを断るつもりは無いけれど、書斎でこの広さとなれば他の部屋を見るのがちょっとだけ恐ろしく感じる。
とはいえ、インクと古紙の匂いが充満したこの部屋は、わたしにとってはまさにテーマーパークのようなものなのだ。最初こそ、ただのしがないクラスメイトでしかないわたしが蘭ちゃんの頼みとはいえ勝手にお邪魔していいのだろうかと内心ビクビクしていたが、トロピカルランドも圧巻の光景に、ものの見事に目を奪われてしまった。気合いを入れようにも、目は自然と背表紙を追ってしまうのだから園子ちゃんじゃあないけれど、ヤル気は着々とすり減っている。
「⋯ん?」
きっとこの書斎の主人は、とても几帳面な性格なのだろう。本が好き、というよりも、もしかしたらコレクターに近いのかもしれない。そんなことを考えながら、著者名毎にきちんと整頓された本の上に積もった埃を丁寧に取り除いていたら、不意に、頭上からひらりと白い紙が降ってきた。おそらく、どこかの本の隙間に挟まっていたのだろう。人様の物を勝手に片す訳にもいかず、蘭ちゃんを呼ぼうとして───やめた。幼馴染トークですっかり盛り上がっている。
(「あれ?蘭の初恋の人って新一くんでしょ?」「ちょ、ちょっと!勝手に決めつけないでよ!」「おやぁ?その照れ様は図星ですな、二十面相君?」「もー!園子!!」)
蘭ちゃんの可愛らしいエピソードは、もちろんわたしにもばっちり聞こえていたので、さすがに水を差すのは憚られた。ひとまずデスクに置いておくのが無難かなあ、とふたつに折り畳まれた用紙を手にむむむと眉を寄せる。
所々皺にはなっているがもしかしたら大事なものかもしれないし、と中央にあるデスクで慎重に折り目を伸ばしていたら、「なまえ姉ちゃん、どうかしたの?」いつの間に近くに寄ってきたのか、コナンくんがデスクに手をかけて手元を覗き込んでいた。
「それ、なあに?」
「ん?これ?上から落ちてきたんだけど、くしゃくしゃになってたから伸ばしてたの。あ、中は見てないよ!」
あれれ?蘭ちゃんたちの会話に参加してたのでは?
はて?なんて頭に疑問符を浮かべながらも、コナンくんの目線に合わせて、見えるように用紙を掲げてみせる。「ああ⋯」コナンくんは用紙を一瞥すると、拍子抜けというべきか、むしろ冷めたような表情で、特になんの感想も無く首肯してみせた。
「それ父さ⋯じゃなくて、新一兄ちゃんのお父さんの原稿だから、そこら辺に置いてて良いと思うよ」
「へぇ、これ原稿だったんだ!そっかそっかあ⋯──」
───ん??原稿、とは⋯???
わたしはぎょっと原稿とやらに視線を向けた。コナンくんはやけにあっさりとした口調で言ってのけたが、原稿ということはつまり、なにかしらの形で発表するために作成された、大事な著作物である。そんなそこら辺の物置みたいに扱っていい代物ではないはずだし、それに、そもそも工藤くんのお父さんは推理小説家らしいのでそれこそ国宝級レベルの扱いをしてもお釣りが来ると思うのだけれど⋯──あれ、待って、推理小説家??
「⋯⋯⋯あの、コナンくん。つかぬ事を伺ってもいいですか?」
「どうぞ?」
「まさか、工藤くんのお父さんって⋯⋯工藤、優作さんだったり⋯⋯?」
「あれ?なまえ姉ちゃん知らなかったの?」
推理小説好きだから、僕、てっきり知ってると思ってたや。あっけらかんとした口調で言ってのけたコナンくんに、わたしは思わず顔面を覆ってへたり込んだ。ガツン、と後頭部に食らった衝撃のせいでちょっと思考が纏まらない。
え、待って。と、いうことは───。ソレに思い当たった瞬間、わたしはさあっと青ざめた。このせっせと折り目を伸ばしていた紙切れは、本当に国宝級レベルで価値のある代物だってことである。
ナイトバロンの原稿用紙⋯???ファンなら喉から手が出るくらい欲しい代物がまさかこんなぞんざいに扱われているなんて。
「⋯⋯コナンくん」
「な、なあに?」
「コナンくんって、工藤くんと仲が良かったよね?」
「⋯う、うん。親戚だから⋯けど、それがどうかしたの⋯?」
「ちょーっと聞きたいんだけど⋯⋯どうしたら工藤くんと親しくなれる?」
ゆっくりと、顔面を覆っていた両手をずり下げてわたしはコナンくんを見上げた。コナンくんはわたしの顔を見てぎょっとしていたが、残念ながらわたしは至って大真面目である。
「え"っ。新一兄ちゃんと⋯⋯?」
「うん」
コナンくんは明らかに狼狽していたけれどわたしにとっては重大で、それが一番の難題だった。まさかこんな身近に著名人が居るとは思わず、しかもそれがナイトバロンの生みの親だなんて、できればお近付きになりたいと思うのがファン心なのである。
とはいえ、ただの蘭ちゃんの付属品でしかないわたしが突然「お父さんを紹介して下さい」なんて工藤くんに言ったところで、持ち前のコミュニケーションスキルでにこやかにスルーされるだけなので、できればちょっとでも親しくなっておきたい。「⋯その⋯なまえ姉ちゃんと新一兄ちゃんって友達、じゃないの?」真顔で尋ねたわたしに、コナンくんが引き攣った笑みを浮かべて首を傾げた。
「友達、ではないかな?工藤くんとは挨拶くらいしかしたことないし」
「で、でも新一兄ちゃんは友達って思ってるかも⋯⋯」
「えー工藤くんが?どうかなぁ。わたしの名前も知らないと思うよ?」
へらりと笑いながら否定したわたしに、コナンくんがちいさく唸った。蘭ちゃん曰く、コナンくんは工藤くんにとっても懐いているらしいので、あの新一兄ちゃんが?とでも思っているのかもしれない。まあ、たしかにハイスペック頭脳をお持ちなので、クラスメイトの名前くらいはしっかり把握していそうだけれど。それでも、それを含んでも圧倒的に関わりが薄いので、コナンくんには申し訳ないけれど、やっぱり「みょうじ?あー居たな、そんな奴」くらいの認識でしかないような気がするのだ。
「んー、でも、お父さん抜きにしても仲良くなれたらいいなあとは思ってるよ」
「へ⋯?」
なんたって、園子ちゃんの幼馴染で蘭ちゃんの想い人だしね。腑に落ちないような、微妙な表情を浮かべていたコナンくんに、わたしはそう言って笑みを浮かべた。これでも、休みの日には工藤くん探し、頑張っているのだ。今はまだ探偵家業が忙しいみたいだけれど、いつかひょっこり戻ってきた時には、遭遇した事件のはなしを聴きたいなあと、実はひそかに思っている。
「だから、今度帰ってきたときにはわたしから声掛けてみようかな。コナンくんに頼むのはフェアじゃないしね」
とにかくいまは、工藤くんが無事に戻ってきてくれるのを願うだけだ。そう、にやりと悪戯っぽく口角を持ち上げながらコナンくんの鼻先をちょんと突っつけば、コナンくんは意表をつかれたような、ぽかんとした表情で惚けていた。かと思えば、暫くの逡巡のあと、やけに真剣な瞳でわたしを射抜く。
「⋯⋯新一兄ちゃん、きっと、ちゃんと帰ってくるよ」
きらりと光る、強い碧眼。確信に満ちたその色に、わたしはすこしばかり魅入ってしまった。こんなに、当たり前のように信じていてくれる人がいるなんて、ちょっとだけ工藤くんが羨ましい。なんて、そんなことを思いながら、わたしはへらりと破顔する。
「うん、知ってる!」
きっぱりと笑顔で言い放ったわたしに、コナンくんがゆるゆると瞼を大きく見開いた。わたしとしては蘭ちゃんが待っているので、できれば工藤くんには自らの脚で帰ってきて欲しいところだけれど、なんたってこちらにはあの鈴木財閥のご令嬢がいらっしゃるのだ。たとえ音信不通になろうとも、持てる財力を駆使して捜しだすと思うのでむしろとっくに工藤くんの退路は絶たれているのである。「なまえ姉ちゃんって、やっぱりちょっと変わってるよね」そう思っての言葉だったのに、なぜだかコナンくんに笑われてしまった。
ついにコナンくんにまで!と、愕然とするわたしに、コナンくんが笑声を上げたまま、唇を動かす。と、そのタイミングで、丁度鳴り響いたチャイムの音にコナンくんの声は掻き消されてしまった。
「あれ?お客さん?」
「みたいだね」
これまた家主不在のタイミングで尋ねてくるなんて。と、コナンくんと一緒にかくりと首を傾げる。突然響いた呼び鈴に、園子ちゃんは「新一くんかもよ!」とうきうきわくわくしていたが、さすがに自宅の鍵は持っているはずなので工藤くんでは無いだろう。園子ちゃんに背を押され、引き摺られるように玄関へと連れ去られる蘭ちゃんを南無三の気持ちで見送る。
「あ、っと、そうだ!コナンくん、さっきなんて言ったの?ごめんね、聴こえなくって」
「ううん、大した事じゃないから!」
そう言って、弾かれたように玄関へと向かう蘭ちゃんたちの後を追って行ったコナンくんを私はなんだか置いてけぼりを食らった気分でポカンと見送った。待つ?待ってて?残念ながら、辛うじて聴こえたのはそれだけだ。