どうしたって、届かない

「蘭ちゃん、タコス好きかな〜」

くるり、と手首の下で袋が踊る。ふんわりと香る香辛料の匂いや、砂糖を焦がしたような甘ったるい匂いにすんっと鼻を鳴らしながら、わたしは賑やかな繁華街を爪先を鳴らして歩いていた。

向かいの通りでは、子供がおおきなサテーをほうばり、近くのベンチでは老人が新聞を広げてる。ちくちくと照り付ける陽射しのなかでも、見渡せばみんな楽しそうに笑っていて、なんだかこちらの足取りまで軽くなるような気分だった。

「えっと、蘭ちゃんの分でしょ。それから工藤くんと毛利さんと、一応アーサーくんの分と〜⋯⋯」

買い忘れはないかな、なんて。指を折って数えながら、一度、中身が崩れないように腕に持ちかえる。ずっしりと腕に掛かる重みに、にこにこと頬を緩めたまま一つ目の路地を曲がって───そこで足が止まった。

「あ、猫だ!」

ゆらりと動く長いしっぽ。柔らかそうなその毛並みに、きらりと目が輝いた。「またあんたはそうやって⋯!!」どこかでイマジナリー園子ちゃんがぎゃんぎゃんと捲し立てていたが、それには気付かないふりをして、じりじりと、足を擦るように距離を詰めていく。

不意に、猫がこちらを向いた。にゃ〜ん、とひとつ鳴いて、てくてくと路地の奥へと消えていく。

「あ、待って!」

わたしは慌てて追い掛けた。揺れるしっぽに釣られて、角を曲がる。せ、せめて写真だけでも⋯そんなわたしの心境とは裏腹に、猫は軽快な足取りで奥へ奥へと進んでいく。たまにこちらを窺うように、立ち止まるのがなんとももどかしい。

屋根に登っては飛び降り、降りては登り──外壁の上を優雅に歩く姿は、まるで飼い慣らされた猫のようでもあった。いつの間にか、落ちた夕陽が毛並みを赤く染めている。

障害物をぴょんぴょんと飛び越えながら、それでも視界に留まる白い毛並みに、わたしはすっかり意地になっていた。



「ま、待って〜⋯!」

猫が、またひとつ角を曲がる。もう、いくつ目かもわからない。どこかで鳴っているサイレンの音さえ背景に、荒い呼吸を吐きながら、わたしは釣られるままに角を曲がって────止まる。

「──あ、れ?」

わたしは目を瞬いた。暗い路地裏で、白い輪郭がぼんやりと浮かんでいる。猫じゃ───ない?

「ね、猫?⋯⋯人?」

代わりのように現れた白い人影に、わたしはきょろりと辺りを見渡した。人が二人並んでやっと通れるかどうかくらいの細い通路には、猫どころか白い影以外の人気はない。ええっと、此処は、どこでしょう⋯⋯?

カツリ、と無意識に後退した踵が音を立てた。ちらりと人影を窺えば、建物の壁に座り込み、深く背を預けたまま俯いている。日暮れ時とはいえ、暗すぎてその表情まではわからない───ね、寝てる?

「あ、あのぅ⋯⋯」
「ったく⋯⋯良いのか悪ぃのか⋯⋯」
「え?」

恐る恐る近付けば、不意に彼が小さくぼやいた。上手く聞き取れなかったが、声からするに男性だろう。どうやら、意識はあるらしい。

「あの⋯此処って⋯」
「……まさか、こんな人気のない裏路地に、一人で肝試しでもしにきたってのか?」

続くはずだった言葉は、けれど、男性によって遮られた。ぱちりとひとつ瞬いたあと、やんわりと首を横に倒す。

「肝試し⋯?あ、いえ。猫を追って⋯」
「猫⋯?」
「見てませんか?」
「いや⋯⋯」

そのまま、男性はまるで気が抜けたみたいにずるずると壁に背を滑らせた。よく見ると、片手で押さえ込むように腕を掴んでいる。白い手袋の隙間から、赤い色がぽたりと地面に落ちた。

「えっ?!怪我!!怪我してるじゃないですか⋯!!」

わたしは慌てて近寄った。抱えていた袋を脇に置いて、鞄を漁る。なにか応急処置になりそうな物といっても、あるのは絆創膏と目薬くらいでさすがにこれじゃ役に立ちそうもない。

せめて救急車⋯!と思ったけれど、それもいつの間にか電池が切れていた。真っ暗な画面に、「だーからマメに充電しときなさいって言ったでしょーが!」またもやイマジナリー園子ちゃんがひょこりと顔をだす。

「え⋯?お、おい⋯!」

ひとまず、園子ちゃんを振り払って、ビリッとハンカチを引き裂いた。腕を押さえていた手を外し、腕へと巻けば、男性がわずかに息を呑んだ気配がした。ギュッと力強く引き結ぶ。

「い"⋯!!」
「⋯ちょっと痛いですよ」
「遅せぇよ!!」

そこで、はじめて男性が顔を上げた。夕陽を浴びたモノクルが、きらりと歪に光る。
あ。──わたしは声もなく呟いた。怪盗、キッド。視界の端で、白いシルクハットがころころと風に流れて転がっていく。

唇の動きを読んだのだろう。彼が、ニッと不敵に笑った。

「通報、しなくていいんですか?」
「え?」
「月下の奇術師捕らえたり!──なーんてね。明日の新聞の一面を飾れる、ビッグ・チャンスだと思うけど?」

そう言って、仰々しく両手を広げて見せた彼に、わたしはきょとりと瞬いた。けれど、じんわりと色を変えだしたハンカチを見て、そっと彼の手首を掴む。

「どうでもいいけど、動いちゃだめ!」
「へ?」
「着替え、ないんですか?そんな白い格好だと、病院行くにも目立っちゃう」

そのまま、じゃらじゃらと鞄の中身をぶちまけたわたしに彼の手首がぴくりと動いた。当然、着替えなんて出てこない。使えそうなのはちょっとした化粧品と、あとは大量の水と帽子くらいで。人を呼ぼうにも、そもそもこの格好ではすぐにバレるだろう。
悶々と、考えあぐねるわたしに彼が言う。

「⋯⋯へぇ?随分と親切なお嬢さんだ」

言いながら、ころころと足元に転がったグロスを、ひょいっと彼が拾い上げた。そのままくるりと指先で回転させる姿は、なんだかまるでさっきの白い猫みたいで。照らされた横顔が一瞬、誰かと重なったような気がした。

「⋯ちなみに、それは?」

不意に投げられた言葉に、ぱちりと瞬く。「⋯それ?」──彼の視線を追って、首を向ける。アスファルトの上に置かれたビニール袋。口を開けて、ぽつんと鎮座するそれを視界に入れた瞬間、わたしはちいさく叫んでいた。

「あっ、タコス!」

すっかり忘れてた!!──急いで拾い上げて中身を確認する。肩身が狭そうに、それでも汚れた様子もないちいさな小包にほっとちいさく肩を落とした。振り返れば、彼が長い指先で、白いシルクハットを拾い上げている。

優雅な仕草で頭に被るまでを、ぼぅっと眺めていたら彼の顔がこちらに向いた。サイレンの音が耳を通り抜けていく。

「お嬢さんも、ご友人の元へ戻ったほうがいいですよ」

それだけを言って、路地の向こうへと歩きだす。

「え?あ、怪我は⋯⋯!」

やけにしっかりとした足取りに、思わず引き止めれば、彼が緩慢に振り返った。ぽんぽんっと、二度。無言で白いスーツの腰辺りを叩いた彼に流されるように、首を捻りながらポケットに手を入れる。

コツン──と。指先になにかが触れた。取り出せば透明なグロスと無地の───

「ハンカチ?」

確かに腕に巻いたのに、綺麗に折りたたまれたそれ。広げても、赤い染みどころか破いた跡さえなくて。

「えっ?!」

慌てて顔を上げれば、そこに彼は居なかった。追い掛けるように路地を出れば、夕焼けの空を割くように白い鳥が飛んでいる。目を凝らしても、腕に巻いたはずのハンカチはもう見えなくて。
そもそもこの出会い自体が嘘のような、なんだか不思議な感覚がした。

「──変な人。」

そう、ぽつりと呟いて、わたしは踵を返した。遅くなったけどタコスを届けにいかないと。そう思ったところではたと気づく。

「ま、待って!!!」

会場どこですかぁーーー!!!──ちょっぴり泣きそうになりながらそう叫んだわたしに、鳥の翼ががくんと斜めに傾いたような気がした。