それでいいと思ってた

なんか飲み物もらってくるね。そう一声かけてプールから上がったわたしは、ぺたぺたと素足を鳴らしてボーイを探した。照明で照らされているとはいえ、暗い足元に滑らないように注意しながらようやく見つけたボーイからオレンジジュースを受け取る。すこし休憩しようと、上着を置いていたプールサイドチェアに足を運べば、その傍に見知った姿があった。「あれ?工藤くん?」小首を傾げて近寄れば、ビクリと肩を跳ねさせて工藤くんが振り向いた。

「よ、よぉ」
「どこ行ってたの?蘭ちゃん、ずっと探してたよ?」
「わりぃな。宝石について調べてたんだよ」
「電話くらいでたらいーのに」

そう言って頬を掻く工藤くんに、じとりと責めるような目付きを向ける。大方、そんなことだろうとは思っていたけれどついでとはいえ結構歩き回ったのだ。ちょっとくらいトゲのある言い方をしても悪くはないと思う。もういちど「悪かったよ」とこぼした工藤くんに「わたしはいいけど、蘭ちゃんにもちゃんと謝ってね?」と言って、オレンジジュースをサイドテーブルに置くとチェアにかけていたタオルを手に取った。

軽く毛先の水滴を搾っていればなにやら視線を感じた。「どうしたの?」と首を傾げれば、工藤くんが「あ、いやぁ、!」と慌てた様子で視線を逸らした。

「···オメーのそういう格好、あー、新鮮だなと思って」
「ああ、これ、園子ちゃんのなんだ」

ほんのりと目元を赤らめてそう言った工藤くんに「だから、すこしだけサイズが緩くて」そう軽く唇を尖らせてみせた。首の後ろで結ぶタイプの水着なので多少緩くても問題なく着れるし、むしろ園子ちゃんのことだからそれを見越して選んだ可能性が高いが、スタイルの違いをこうも明瞭に感じるとなんだか悲しくなってくる。「ゆる···、」主にどこが緩いのか瞬時に察したらしい名探偵さんの視線がつーと胸元に滑るのを感覚した。固まった工藤くんに小首を傾げながら、これ以上貧相な身体を見せているのも申しわけないので軽く水気を拭いてパーカーを羽織る。

「ほら、ぼうっとしてないで蘭ちゃんのとこ行っておいでよ」

パーカに腕を通しながら声を投げても、工藤くんからの反応はなかった。なにも言わない工藤くんに小首を傾げて、振り返る。

「蘭ちゃんならあっちに──」
「お姉さん?」

そう、蘭ちゃんのいる方をゆるりと指し示そうとして唐突に背後から掛けられた声に、ビクリと肩が跳ねた。「へっ···──うわっ」驚いて振り向こうとした拍子に、ずるりと踵が床を滑った。瞠目した工藤くんの顔が視界から見切れて、身体が傾いていく感覚にぎゅうと目を瞑る。

「あ、あれ?」

しかし、どれだけ待っても痛みはやってこなかった。どきどきと胸を打つ鼓動を感覚しながら、ぱちぱちと瞼を瞬かせる。困惑に呆然としていたら、耳許にぬるい吐息が落ちてきた。「あっ、ぶねぇ···」鼓膜を揺らした声とはぁ〜と深い安堵の息にピクリと身体が反応する。

「えっ、と。工藤くん?あれ?」

手首に感じる鈍い痛みに、工藤くんが倒れる寸前に腕を引いてくれたことをわたしはようやく悟った。わずかに身じろげは、しっかりと腰を支えている腕にぐっと力を込められてより上半身が密着する。ほとんど工藤くんに体重を預けているとはいえ、爪先が床についているだけの体制はなかなかにつらいし頬にあたる工藤くんの毛先がくすぐったかった。

「おーい、工藤くん?」

もしもーし、聞こえてる?工藤くんの肩口でもごもごと声を掛ければ、ピクリと反応したものの工藤くんは黙ったままだった。ぷるぷると震え出した爪先に、どうしようかと困っていたら工藤くんが突然「い"っ···!!」と呻いてするりと腕が離れていく。しっかりと地面に足がついたことにほっとして工藤くんをみれば、なぜだか片膝を抑えて蹲っていた。

「あれ、アーサーくん」
「お姉さん、ごめんね。驚かせちゃって···」
「ううん、大丈夫だよ」

うずくまる工藤くんの傍にはアーサーくんが立っていた。すこしだけ驚いたけれど、眉を下げたアーサーくんと視線を合わせるようにしゃがみ込んでゆるりと頬を綻ばせる。

「お兄さんと一緒にいたの?」
「え、と。う、うん。お家まで送って貰って、その、お父さんとお話してた」
「そうだったんだ。お父さんとお話できてよかったね」

うん!と破顔したアーサーくんの可愛さにへらへらと頬がゆるむ。帰らなくてよかったの?と聞けば、お父さんから外泊の許可を貰ったようだった。

「なら一緒に──」
「お兄さんと一緒に寝るの楽しみだなー!」
「えええ。お姉さんの部屋で一緒にトランプしようよ」
「でも、お兄さんと約束しちゃったから」

どうやらこの短時間のあいだで工藤くんにすっかり懐いてしまったらしい。なんだか被せ気味に断られたような気もしたが、ちゃっかり約束を取り付けている工藤くんにむすりと唇尖らせる。いまだ脛のあたりを抑えて蹲っている工藤くんは、アーサーくんの後頭部を涙目で睨んでいた。

「そうだ。アーサーくんも一緒に泳ごうよ。あっちに園子ちゃんと蘭ちゃんもいるんだよ」
「え、ううん。ボク、水着もってきてないし」

やんわりと誘えば困ったように眉を下げて断られてしまった。子供用の水着もホテル内のショップに売っていそうだけれど、この時間に空いているのはバーラウンジくらいだろう。さすがの園子ちゃんも子供用の水着は持ってきていないだろうしなあと考えていたらアーサーくんがパーカーの裾を軽く引いたので視線を向ける。

「大丈夫だよ。ボク、ここで座って見てるから」
「そう?なら、わたしもアーサーくんと一緒にいようかな」
「だったらオレも──」
「だめ。工藤くんは蘭ちゃんのとこ」

便乗しようとした工藤くんの言葉を食い気味に遮って、しっしと掌を振って追い払う動作をしてみせる。「ったく。わぁーってるって」そう後頭部を掻いて不貞腐れたように背を向けて歩いていく工藤くんに、すこしだけ逡巡したわたしは静かに彼を呼び止めた。

「さっきは、ごめんね。ありがとう」

頬を弛めて柔らかくいえば、工藤くんが振り向いてわずかに瞠目した気がした。それから、くしゃりと笑った工藤くんは「おうっ」と言って蘭ちゃんのところへ向かっていく。

わたしはてっきり、ふらりといなくなった工藤くんに対して蘭ちゃんが怒っていると思っていたし怒るんだろうなと思っていた。けれど、合流した工藤くんと穏やかに言葉を交わしている様子の蘭ちゃんに、そういった雰囲気はまったくみられなかった。「あのやろう···」並んで夜景を眺めている姿をぼうっとみつめていれば、アーサーくんがぼそりと呟いた。

「ん?なにか言った?」

上手く聞き取れなくて首を傾げれば「え、いや、なにも···!」と慌てた様子でアーサーくんが両手を振った。「とりあえず座ろっか」不思議に思いながらも、アーサーくんを促してチェアに腰掛ける。途中、通りかかったボーイにすっかり氷の溶けてしまったオレンジジュースを取り替えてもらい、アーサーくんの分も貰った。

そういえば、園子ちゃんはどこに行ったのだろう。京極さんに電話でもしに行ってしまったのか、きょろりとあたりに目を配らせても蘭ちゃんと工藤くんの傍にもプールにも見当たらなかった。

「お姉さんって···」

すずっとオレンジジュースを啜っていれば、アーサーくんが静かに切り出した。ついっと視線を向ければ、アーサーくんはぼんやりとプールに顔を向けていて蘭ちゃんと工藤くんを見ているようだった。

「お兄さんのこと、その···好き、なの?」
「へっ?!ごほごほっ···」

もごもごとどこか言い辛そうに口腔で言葉を転がしていたアーサーくんは、ちらりとわたしを見上げてそうっと言葉を落とした。思ってもいなかった質問に、オレンジジュースがべつの器官に入って激しく噎せる。慌ててグラスをサイドテーブルに置いたわたしは、掛けていたタオルで口許を抑えた。ようやく収まった咳に、目尻に溜まった涙を指先で拭ってゆっくりと口を開いた。

「えっと。ひとつ確認なんだけど、お姉さんってあっちのお姉さん?」

あっち。そう蘭ちゃんを指させば、アーサーくんがゆるりと首を振った。お姉さん、とは間違いなくわたしのことらしい。

「なんでそう思ったの?」
「えっ、いや、その···!お兄さんと仲良し、みたいだから···」

アーサーくんの目にはそう映っているのだろうか。どう見たって蘭ちゃんと工藤くんのほうがいい雰囲気だし、蘭ちゃんが想いを寄せているのも工藤くんが満更でも無さそうなのも伝わってくると思う。それを敢えてわたしに尋ねるということは、もしかして恋愛相談でもしたいのだろうか。

カランッと氷の当たる涼やかな音が鳴った。アーサーくんがオレンジジュースのストローをくるくるとまわしながら、わたしの言葉を待っているようだった。

「あのお兄さんね、すごく頭がいいんだよ」
「え?」

唐突に切り出したわたしに、アーサーくんは驚いたように瞼をぱちぱちと瞬かせた。

「それに運動神経もいいし、なんだかんだいって優しいし。いつもまっすぐだから周りが見えてなくて悲しませることもあるけど、たくさんの人に頼りにされてるし、困ったことがあっても工藤くんならなんとかしてくれるんだろうなぁって安心もする」

指を折り曲げて、ひとつひとつ工藤くんの長所をあげるわたしの話しをアーサーくんただ黙って聞いてくれていた。

「でも、好きとか考えたこともなかったなぁ」

そう言って、肩の触れそうな距離で並ぶふたりの背中に視線を向ける。思えば、工藤くんのことをどう思うか考えるのもこれがはじめてだった。「そう、なんだ···」アーサーくんは静かにそう言ってストローを啜った。氷がグラスに当たる音とずすっと啜る音が、静かな夜の空気に溶けていく感覚がした。

「それで、アーサーくんはどんな子が好きなの?」
「え"っ?!ボ、ボクは、その···そんな子いないよ」
「えー。気になる子、いるんでしょう?」

動揺するアーサーくんをにまにまと頬を弛めてみつめる。揶揄う気持ちはすこしもなかったが、ほんのりと顔を赤くして狼狽えるアーサーくんの可愛さについついだらしなく頬が緩んでしまう。あ、う、と言葉にならない声を発していたアーサーくんは「ボ、ボクちょっとトイレ!」と言ってついには逃げてしまった。

ふふっと笑って見送っていたら園子ちゃんが帰ってきたので、蘭ちゃんと工藤くんに声をかける。あまり遅くまで起きていると明日に響くということで、更衣室で素早く着替えるとそれから暫くして戻ってきたアーサーくんも一緒にプールを後にしたのだった。